福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

東洋文化史における仏教の地位(高楠順次郎)・・その24

2020-09-29 | 法話
こういうぐあいに考えますと、日本人のやったもので、西洋の文明市場に持ち出して相当の値段で買ってくれるものは何かというと、これは大乗仏教より他にはない。今まで西洋人は小乗仏教に欺かれて、南方ビルマや、シャム、セイロンの仏教が純真の仏教であると思っていた。もちろん形式の仏教としてはセイロンの方がよいかも知れないが、しかし仏教の貴ぶべき所は仏の理想だということが分ってみると、やはり日本の仏教が一番徹底的である。哲学的にいっても、宗教的にいっても、学問の上からいっても、信仰の上からいっても徹底的であるということが分ってきたのであります。外に西洋人が貴ぶものがあるとすれば仏教文明の副産物である、仏教美術である。西洋人はこれに対し非常に敬意を払っております。これは日本の文明に伴うて出来上った大切な記念でありますが、日本の教育では情けないことに小学校から中学校、中学校から高等学校という間にこの日本の文明に大なる関係のある仏教美術を一枚も見せて貰えない。そういう教育なのであります。これは日本人が自ら棄てている形であります。
 それなら仏教の方は教えているかといえば教えていない。小学校の教科書にはたくさんの伝記はあります。武士とか文人とかの伝記はありますが、仏教者の伝記は弘法大師と伝教大師とあったが数年前には弘法大師だけにして、伝教大師を除いたのです。私共はその時文部省にその理由を質した。なお多く入るべきであるのにどうしてこれを削ったかと尋ねると、理由はない、二人だからあまり多いとはいえない、で教案の方に残すから、今除けたばかりに責められて載せるとなると困るから、教師が教える時には教えるように教案の方には残すから勘弁せよということであった。(いまは更に削ってどうも鑑真・行基のみのようです。どうしようもない状態です)
 日本の教育ではかく殆ど無視している。西洋人は却って大乗仏教と仏教美術には相当に頭を下げるのでありますから、続々研究のために来るのであります。その研究も昔とは違ってきた、前は一応の説明を与えてやれば満足して帰って行く、そしてその十分の一くらい旅行記の端に書けば満足している。しかし今頃来る人は全く相違している。天台を研究する人は叡山に登らなければ承知しない。真言を研究する人は高野山に登り、灌頂を受けなければ承知しない。西洋にも何千人という会員を持った協会もある、会堂を持って時々講演を開いているのもある、或いは文芸的に或いは劇的に仏教を表現せんとするものもある、如何にもして大文学美術を研究しようとする努力が四方に現われております。老子の如きは戦後大変に研究されましたが、これは一時の流行で長続きをしない、それはちょっと面白いというのでやるのであります。ところが仏教はちょっと面白いという時期はすでに遠き過去にある、今は実際問題に立ち入っている、宗教の行き詰りを打開せんとする努力時代である。一切経の一冊読むにも一千頁は読まなくてはならぬ、自然に深入りして、仏教の蘊奥とまではいかなくても大分詳しい所まで調べようというようなことになって来たのであります。
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