臨終用心の事 道範阿闍梨
それ臨終用心とは仏法の本懐、生死の折角なり。之に由りて有心の行者は皆深く尋ね習ふて心蔵に納む。何ぞ紙筆に染めてこれを露わにすべけんや。然りと雖も初心の人に至要を問はしめんが為に唯通相に就き略して大義を注す。行者若し多日病患に纏はれ上堂行法すること能はざる時は、手を洗ひ口を漱ぎて護身結界して帰命懺悔すべし。その詞に曰く
南無帰命頂礼 両部界会 諸尊聖衆 西方極楽 阿弥陀如来 観音勢至 九品聖衆 慚愧懺悔 六根罪障 無始以来 身口意業 入阿字門 本来不生 入きりく(梵字)門 本来清浄云々
・次に無始以来の一切所修の善を以て発願廻向すべし。その詞に曰く
以我功徳所荘厳 及與法界諸善根 如来神力加持故
願共衆生生極楽云々
・次に三金観(三密観。「吽うん」字を身・口・意におき、五鈷杵を観じ、三業を清める)
・次に伝法灌頂の印明を結誦せよ。
・次に称名。(遍数を限らず、浄穢を論ぜず、等云々)
・次に大師の御影に対し奉りて啓白発願して曰
南無大師遍照金剛。哀愍加持往生極楽。それ宿生の汲引に依りて大師の遺法を受けたり。身を大師深禅の砌に容れ、命を大師慈悲の室に終ふ。過現の縁すでに深し。當世なんぞ捨てたまはんや。ただ願はくは大師、浄刹に引導したまへ云々。
・次に生死の本源を観ずべし。それ生は不生の生なるが故に更に来る所無く、死は不滅の滅なるがゆえに去るところ無し。まさに知るべし、阿字縁生の有を生と為し、阿字不生の空を死と為す。故に此に死し、彼に生ずるは唯是阿字なり。
大日経疏に、「阿字門と云ふは當に知るべし、阿字門は一切法義の中に遍す也。所以いかんとならば、一切の法は衆縁より生じざることなきを以てなり。縁より生じるものは悉く皆始め有り本り有り。今この能生の縁を観ずるに、亦復衆縁より生じ、展転して縁に随ふ。誰をかその本と為さむ。如是に観察する時は、則ち本不生際を知る。是萬法の本なり。猶し一切の語言を聞く時は即ち是れ阿の声を聞くが如し(すべての音には「阿あ」が含まれている、というのが悉曇学の基本)。如是に一切法の生を見る時、即ち是れ本不生際を見るなり。若し本不生際を見る者は是れ実の如く自心を知るなり。実の如く自心を知るは即ち是れ一切智智なり。故に毘盧遮那は唯しこの一字を以て真言と為したまふ也(胎蔵大日如来のご真言は「阿」の一字)。しかも世間の凡夫は諸法の本源を観ぜざるが故に妄りに生有と見る。ゆえに生死の流れに随ひて自ら出ること能はず。彼の無知の画師の自ら衆綵を運んで可畏夜叉の形を作しおわりて還りて自ら之を観じて心に怖畏を生じて頓に地に躄(たほる)るが如し。亦復之の如し。自ら諸法の本源を運びて三界を作し而て還りて自らその中に没し、自心熾烈にして備(つぶさ)に諸苦を受く。如来有智の画師は既に了知しおわりて即ち能く自在に大悲曼荼羅を成立す。」(以上大日経疏)。
大悲曼荼羅とは大悲胎蔵十界本有の三部四重の圓壇なり。十界本初不生の故に、九界の迷城を動ぜずして大日輪圓の具備と為るなり。若しキリク字(梵字)門に依りて生死の本源を観ずれば、三毒五趣(地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)本来清浄の故に煩悩即菩提、生死即涅槃也。金胎両部を父母と為し理智和合を衆と為す。
又六大和合して衆生と為る、その五大は即ち「理」。その識大は即ち「智」なり。その心一念転倒するがゆえに十二因縁と成りて流転す。色心不二と観ずれば則ち、輪廻の十二は大日如来の十二真言王大羯磨転となる。(大日経・秘密曼荼羅品十一に「「・・爾時金剛手、大日世尊の身語意地に昇って法平等觀にして彼の未來の衆生を念じて一切の疑を断ぜしめんがために、大眞言王を説いて曰く
「南麼三曼多勃馱喃阿三忙鉢多達摩馱覩蘗登蘗哆喃薩婆他暗欠暗噁糝索含鶴㘕落鑁嚩莎訶䙖㘕訶囉鶴莎訶㘕落莎訶」持金剛祕密主、此眞言王を説き已んぬ。時に一切如來、十方世界に住して、各の右手を舒て執金剛の頂を摩でて、善哉の聲を以て稱歎して言く、『善哉善哉佛子、汝已に毘盧遮那世尊身語意地に超昇せり。』」)
この故に生死は只是六大随縁輪の転変なり。埋めれば則ち土と為るは即ち阿字(梵字)の大地なり。焼けば則ち煙と為るは即ちラ字(梵字)の智火なり。六大不変と観ずれば更に生滅なし。法爾の四曼の佛體なり云々。
又称名を除きて一切時に開口の時は阿字を念ずべし。合唇の時は吽字を念ずべし。この二字はこれ一切衆生の法爾無作の秘密真言也。両部の肝心なり。万法の本源なり云々。
又病患久しく侵し身力漸く衰へ澡浴すること能わざる者は心上にキリク字(梵字)を想ひて三業の本浄を観じしかる後に印明等をなすべし。そもそも臨終の心相は念を九品の蓮台に懸けて心を五大法界に住すれば則ち八識の流転を止め十界を一如に観ずれば、則ち生死即涅槃なり。一字(梵字の阿字)を五体に布けば則ち凡身即法身なり。両部を促(つつ゛め)て一心に帰し、諸心を摂して無念に終ふ。(以上六句皆印可相応なり)。その身儀は若しは坐し若しは臥し、西方余方等。随宜に密印の想を作し、向佛の想を作せ。(手印は口にあり)。その語業は或は弥陀肝心の文、或は我覚本不生等(我覚本不生・出過語言道・諸過得解脱・ 遠離於因縁・知空等虚空・如実相智生・以離一切暗)、或は八葉白蓮一肘間等(八葉白蓮一肘間 炳現阿字素光色 禅智倶入金剛縛 召入如来寂静智)、或は帰命本覚心法身等(帰命本覚心法身・常住妙法心蓮台・本来具足三身徳・三十七尊住心城・普門塵数諸三昧・遠離因果法然具・無辺徳海本円満・還我頂礼心諸仏)、或は若し人求佛恵等(若し人佛慧を求めて菩提心に通達すれば父母所生の身に速やかに大覚の位を証せん。)、
或は法界六大法身形、一一各各一塵體、一一諸塵皆実相、実相周遍法界海、法界即是四曼荼、四曼體即一念心、一念心即三密、即是無念、或は六大無碍常瑜伽等。
その真言は或は六字の名号(なむあみだだぶつ)、初めは五字の真言(あびらうんけん)、以て九品の正因となし、以て五転の成身と為し、或はキリク字(梵字)、或は阿字(梵字)以て本浄の心蓮を開くべく、以て不生の圓寂に入るべし。(その印はさらに問へ)。以上出入りの息と相応して気の絶ゆるを期すべく矣。
そもそもこの一段は殊に沈思すべし。但し是れ行人の小病容予の間になすべき所の自行の用心なり。若し急病頓滅の時は只一印十念、もしは一印一明を用ふべし。
又用心の編目を挙げんが為に行儀の次第を作る。是必ずしも是の如くすべからず、便宜に随ふべき也。用心作法も添削存略且く人意に任すべし。又厭求の心相、道場の荘厳、知識の用意、病人の教薬等、今之を載せず。並に常途の如き矣。
貞永二年正月二十一日抄之 金剛仏子 道範」
それ臨終用心とは仏法の本懐、生死の折角なり。之に由りて有心の行者は皆深く尋ね習ふて心蔵に納む。何ぞ紙筆に染めてこれを露わにすべけんや。然りと雖も初心の人に至要を問はしめんが為に唯通相に就き略して大義を注す。行者若し多日病患に纏はれ上堂行法すること能はざる時は、手を洗ひ口を漱ぎて護身結界して帰命懺悔すべし。その詞に曰く
南無帰命頂礼 両部界会 諸尊聖衆 西方極楽 阿弥陀如来 観音勢至 九品聖衆 慚愧懺悔 六根罪障 無始以来 身口意業 入阿字門 本来不生 入きりく(梵字)門 本来清浄云々
・次に無始以来の一切所修の善を以て発願廻向すべし。その詞に曰く
以我功徳所荘厳 及與法界諸善根 如来神力加持故
願共衆生生極楽云々
・次に三金観(三密観。「吽うん」字を身・口・意におき、五鈷杵を観じ、三業を清める)
・次に伝法灌頂の印明を結誦せよ。
・次に称名。(遍数を限らず、浄穢を論ぜず、等云々)
・次に大師の御影に対し奉りて啓白発願して曰
南無大師遍照金剛。哀愍加持往生極楽。それ宿生の汲引に依りて大師の遺法を受けたり。身を大師深禅の砌に容れ、命を大師慈悲の室に終ふ。過現の縁すでに深し。當世なんぞ捨てたまはんや。ただ願はくは大師、浄刹に引導したまへ云々。
・次に生死の本源を観ずべし。それ生は不生の生なるが故に更に来る所無く、死は不滅の滅なるがゆえに去るところ無し。まさに知るべし、阿字縁生の有を生と為し、阿字不生の空を死と為す。故に此に死し、彼に生ずるは唯是阿字なり。
大日経疏に、「阿字門と云ふは當に知るべし、阿字門は一切法義の中に遍す也。所以いかんとならば、一切の法は衆縁より生じざることなきを以てなり。縁より生じるものは悉く皆始め有り本り有り。今この能生の縁を観ずるに、亦復衆縁より生じ、展転して縁に随ふ。誰をかその本と為さむ。如是に観察する時は、則ち本不生際を知る。是萬法の本なり。猶し一切の語言を聞く時は即ち是れ阿の声を聞くが如し(すべての音には「阿あ」が含まれている、というのが悉曇学の基本)。如是に一切法の生を見る時、即ち是れ本不生際を見るなり。若し本不生際を見る者は是れ実の如く自心を知るなり。実の如く自心を知るは即ち是れ一切智智なり。故に毘盧遮那は唯しこの一字を以て真言と為したまふ也(胎蔵大日如来のご真言は「阿」の一字)。しかも世間の凡夫は諸法の本源を観ぜざるが故に妄りに生有と見る。ゆえに生死の流れに随ひて自ら出ること能はず。彼の無知の画師の自ら衆綵を運んで可畏夜叉の形を作しおわりて還りて自ら之を観じて心に怖畏を生じて頓に地に躄(たほる)るが如し。亦復之の如し。自ら諸法の本源を運びて三界を作し而て還りて自らその中に没し、自心熾烈にして備(つぶさ)に諸苦を受く。如来有智の画師は既に了知しおわりて即ち能く自在に大悲曼荼羅を成立す。」(以上大日経疏)。
大悲曼荼羅とは大悲胎蔵十界本有の三部四重の圓壇なり。十界本初不生の故に、九界の迷城を動ぜずして大日輪圓の具備と為るなり。若しキリク字(梵字)門に依りて生死の本源を観ずれば、三毒五趣(地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)本来清浄の故に煩悩即菩提、生死即涅槃也。金胎両部を父母と為し理智和合を衆と為す。
又六大和合して衆生と為る、その五大は即ち「理」。その識大は即ち「智」なり。その心一念転倒するがゆえに十二因縁と成りて流転す。色心不二と観ずれば則ち、輪廻の十二は大日如来の十二真言王大羯磨転となる。(大日経・秘密曼荼羅品十一に「「・・爾時金剛手、大日世尊の身語意地に昇って法平等觀にして彼の未來の衆生を念じて一切の疑を断ぜしめんがために、大眞言王を説いて曰く
「南麼三曼多勃馱喃阿三忙鉢多達摩馱覩蘗登蘗哆喃薩婆他暗欠暗噁糝索含鶴㘕落鑁嚩莎訶䙖㘕訶囉鶴莎訶㘕落莎訶」持金剛祕密主、此眞言王を説き已んぬ。時に一切如來、十方世界に住して、各の右手を舒て執金剛の頂を摩でて、善哉の聲を以て稱歎して言く、『善哉善哉佛子、汝已に毘盧遮那世尊身語意地に超昇せり。』」)
この故に生死は只是六大随縁輪の転変なり。埋めれば則ち土と為るは即ち阿字(梵字)の大地なり。焼けば則ち煙と為るは即ちラ字(梵字)の智火なり。六大不変と観ずれば更に生滅なし。法爾の四曼の佛體なり云々。
又称名を除きて一切時に開口の時は阿字を念ずべし。合唇の時は吽字を念ずべし。この二字はこれ一切衆生の法爾無作の秘密真言也。両部の肝心なり。万法の本源なり云々。
又病患久しく侵し身力漸く衰へ澡浴すること能わざる者は心上にキリク字(梵字)を想ひて三業の本浄を観じしかる後に印明等をなすべし。そもそも臨終の心相は念を九品の蓮台に懸けて心を五大法界に住すれば則ち八識の流転を止め十界を一如に観ずれば、則ち生死即涅槃なり。一字(梵字の阿字)を五体に布けば則ち凡身即法身なり。両部を促(つつ゛め)て一心に帰し、諸心を摂して無念に終ふ。(以上六句皆印可相応なり)。その身儀は若しは坐し若しは臥し、西方余方等。随宜に密印の想を作し、向佛の想を作せ。(手印は口にあり)。その語業は或は弥陀肝心の文、或は我覚本不生等(我覚本不生・出過語言道・諸過得解脱・ 遠離於因縁・知空等虚空・如実相智生・以離一切暗)、或は八葉白蓮一肘間等(八葉白蓮一肘間 炳現阿字素光色 禅智倶入金剛縛 召入如来寂静智)、或は帰命本覚心法身等(帰命本覚心法身・常住妙法心蓮台・本来具足三身徳・三十七尊住心城・普門塵数諸三昧・遠離因果法然具・無辺徳海本円満・還我頂礼心諸仏)、或は若し人求佛恵等(若し人佛慧を求めて菩提心に通達すれば父母所生の身に速やかに大覚の位を証せん。)、
或は法界六大法身形、一一各各一塵體、一一諸塵皆実相、実相周遍法界海、法界即是四曼荼、四曼體即一念心、一念心即三密、即是無念、或は六大無碍常瑜伽等。
その真言は或は六字の名号(なむあみだだぶつ)、初めは五字の真言(あびらうんけん)、以て九品の正因となし、以て五転の成身と為し、或はキリク字(梵字)、或は阿字(梵字)以て本浄の心蓮を開くべく、以て不生の圓寂に入るべし。(その印はさらに問へ)。以上出入りの息と相応して気の絶ゆるを期すべく矣。
そもそもこの一段は殊に沈思すべし。但し是れ行人の小病容予の間になすべき所の自行の用心なり。若し急病頓滅の時は只一印十念、もしは一印一明を用ふべし。
又用心の編目を挙げんが為に行儀の次第を作る。是必ずしも是の如くすべからず、便宜に随ふべき也。用心作法も添削存略且く人意に任すべし。又厭求の心相、道場の荘厳、知識の用意、病人の教薬等、今之を載せず。並に常途の如き矣。
貞永二年正月二十一日抄之 金剛仏子 道範」