明治35年3月22日付けの、南方熊楠より高野山管長土岐法龍あての手紙があります。
「・・・霊魂の死不死などは題からして間違っておる。神道ごとき麁末なるものにすらアラミタマ、クシミタマなどということがある。神にまた魂魄ある説なり。魂と魄の別などは太古から支那にあったらしい。すでに霊魂といわば不死をのみこんだ下題なり。もし人間の人間たる所以の精(エッセンス)が死か不死かとの説ならんには予は他の動物とかわり不死と答うべし。・・・康熙なりしか乾隆なりしか、支那の帝王にして、天地一大劇場、堯舜は立ち役、桀紂は悪方などいひし人ある。予をもってすれば世界は一大劇場、法律は刑罰場、色事は濡れ事場、議論は相談場、憂苦は阿波の十郎兵衛(浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」で御家騒動の解決に奔走する阿波の十郎兵衛は過って娘の巡礼お鶴をころす。)殺伐は六段目(仮名手本忠臣蔵六段目で、塩冶判官の家臣・勘平が舅与市兵衛を殺したと思い込み自害するが実は殺したのは舅与市兵衛の仇定九郎であったと判明し、勘平は晴れて敵討ちの連判状に加えられ、姑に見守られて息絶える)、謀計は七段目(仮名手本忠臣蔵七段目、京都祇園の一力茶屋で遊び惚けているふりをしている大星由良之助が寛平の妻で遊女に売られていた「おかる」に床下の間者九太夫を刺殺させ手柄をたてさせる。)、立志は天河屋の段(仮名手本忠臣蔵で和泉の国堺の商人・天河屋義平が大星由良仁助のために密かに武具を用意する段)短慮は八百屋お七の恋の火桜、これのみ。さたしんだら感相同じ一大柩、悪方もああ苦しく務めた、濡れ事師もつまらぬことに骨折ったがずいぶんうけましたろうかねと、一大愉快を催すこと、虎渓の三笑(晋の高僧彗遠(えおん)は東林寺にいたが、寺の下にある虎渓をまだ渡ったことがなかった。あるときやってきた詩人の陶潜と道士の陸修静を見送って行く道すがら、話が弾み、虎渓を渡ったのも気付かず、虎の吠えるのを聞いてはじめて気がつき、三人顔を見合わせて大笑いしたという逸話)そこのけなり。・・・悪趣下愚の人間、急に浮かばれず、死んでも六道に迷うは芝居が混雑して手拭を落としたるを尋ね周り、役者が楽屋で役割の当不当を論じ、給金や花に葛藤を生ずるほどのことで、まけおしみから今一度やってみたくなり、無理な算段をして今一度櫓をたてかえさんなどいうやつが、再生輪廻を脱せずに馬のあしとなり鬼卒となりまわるようなもの・・」
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