福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

自分とは何かを問うことが宗教のはじめ・・

2013-11-10 | 法話
「我々ははじめからこの人間界にいたわけではない。せいぜい数十年前に人生という場所にきたのである。それではどこから来たのか、父母から来たといっても答えにならない。その父母はどこからそのまた父母はと無限の時間の系列をさかのぼってもそれは身体をもった生物としての自己の起源を問うているだけである。・・禅の『父母未生以前本来の面目』というのもそういう自己そのものの根源を問うているのである。自己がどこからきたかはっきりしないかぎりわれわれの存在は本質的に不安のなかにある。第二には、そういう自己の行方はどこか、死ねばどうなるのかという問題である。死ねば骨になるといっても骨そのものは我々の身体の終着点であってもわれわれの自己そのものの帰着点とはいえないからである。われわれの自己は死をもっては決着しない存在である。
最後にそのはじめと終わりが謎であるような自己、どこからきてどこへ行くかもわからないようなこの自己とは一体何者かということである。・・自己とは我々にとって最も深く隠されているものである。そういう『自己』はわれわれの自力によっては決して知ることのできないものともいえる。しかしそういう『自己』の正体を見つけないことには我々の自己は決着しないのである。宗教とは人間を超えた神もしくは仏に人間が救われる途だといってもよいが、その救済とは自己が本当の自己に出逢うことに他ならない。そういう意味での宗教なしにはわれわれはこの宇宙の中を空しくさ迷うほかないのである。」(宗教への招待(放送大学教材)、大峯顕)
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