栂尾祥雲師「密教の酒肉問題」
「小乗仏教では三種浄肉と称し、己のため殺したのを見ず、聞かず、またその疑惑なきものは、これを食するとも罪無しとするのである。
しかるに大乗仏教になると生類の肉を食する如きは一視同仁の慈悲心に背くといふ上から、これを厳禁し、「食肉一切肉不得食。斷大慈悲佛性種子。一切衆生見而捨去。是故一切菩薩不得食一切衆生肉。食肉得無量罪(梵網経、一切の肉を食することを得ず、肉を食せば、大慈悲の仏性の種を断つ、一切の衆生は見て捨て去らん、この故に一切の菩薩は一切衆生の肉を食することを得ざれ、肉を食せば無量の罪を得ん)といふのである。
しかしこれも程度上のことで、もし絶対的に生物の肉を食うことができないといふことになると雑食動物たる人間は生きて生けないことになる。・・・野菜でも米麦でもいずれもいきて芽を出し、茎を伸ばし、果実を結ぶ生物たるが故である。されば肉食といふも菜食といふもつまりは五十歩百歩にすぎないことになる。そこで文殊問経などによると「肉食が悪いといふのは、この肉を嗜むことによりて殺害心を刺激し、残忍性を培うことになるからで、自ら深くこの犠牲に依りてのみ、生かされていることを感謝すると共に、自らもまた、国家とか社会とか、人類とかいふような大いなるもののためには喜んで犠牲になるべきことを念じつつ、これを食するようにすれば,罪にならないとし、それには次の如き真言を三度、誦するようにすればよいというのである。「タニャタ アナートマ アナートマ アジーブタ アジーブタ ナシャ ナシャ ダカ ダカ ブハ ブハ バハ バハ サンスクリタム ソワカ」といふのである。即ち「執すべき我体なきものよ、限られたる寿命なきものよ、造ったとか造られたとかいふ、因縁対立の有為法を消失せよ、燃焼せよ、崔滅せよ。しかれば大生命として永遠を生き抜く実相が展開されるであろう。」といふことであった。・・・」
「小乗仏教では三種浄肉と称し、己のため殺したのを見ず、聞かず、またその疑惑なきものは、これを食するとも罪無しとするのである。
しかるに大乗仏教になると生類の肉を食する如きは一視同仁の慈悲心に背くといふ上から、これを厳禁し、「食肉一切肉不得食。斷大慈悲佛性種子。一切衆生見而捨去。是故一切菩薩不得食一切衆生肉。食肉得無量罪(梵網経、一切の肉を食することを得ず、肉を食せば、大慈悲の仏性の種を断つ、一切の衆生は見て捨て去らん、この故に一切の菩薩は一切衆生の肉を食することを得ざれ、肉を食せば無量の罪を得ん)といふのである。
しかしこれも程度上のことで、もし絶対的に生物の肉を食うことができないといふことになると雑食動物たる人間は生きて生けないことになる。・・・野菜でも米麦でもいずれもいきて芽を出し、茎を伸ばし、果実を結ぶ生物たるが故である。されば肉食といふも菜食といふもつまりは五十歩百歩にすぎないことになる。そこで文殊問経などによると「肉食が悪いといふのは、この肉を嗜むことによりて殺害心を刺激し、残忍性を培うことになるからで、自ら深くこの犠牲に依りてのみ、生かされていることを感謝すると共に、自らもまた、国家とか社会とか、人類とかいふような大いなるもののためには喜んで犠牲になるべきことを念じつつ、これを食するようにすれば,罪にならないとし、それには次の如き真言を三度、誦するようにすればよいというのである。「タニャタ アナートマ アナートマ アジーブタ アジーブタ ナシャ ナシャ ダカ ダカ ブハ ブハ バハ バハ サンスクリタム ソワカ」といふのである。即ち「執すべき我体なきものよ、限られたる寿命なきものよ、造ったとか造られたとかいふ、因縁対立の有為法を消失せよ、燃焼せよ、崔滅せよ。しかれば大生命として永遠を生き抜く実相が展開されるであろう。」といふことであった。・・・」