第六一課 信仰生活のあらまし
仏教を信じたものは、どんな生活をするのでしょうか。そのあらましを二つ三つ述べて見ましょう。
第一に安らかな気持ちです。
仏教では、この大きな天地も、私たち小さな人間のいのちも、その根もとで一つに親密に繋がり融け合って、分け距へだてがないことを教えております。どんな孤児みなしごでも、寂しくないどころか、始終、母の手の愛撫をひしひしと感じられて安らかさに充ちているのです。普通の母の手は、やはり人間業わざですから、人間の手の中では一番自分に優しく温かな手でありますが、まだまだ及ばぬところがあります。仏陀(宇宙大生命の人格化、覚者の義)の手は行き亘らぬ隈くまもなく、どんな狭い隙からも霧のように漉き入り、身をも心をも柔かく包みます。旅へ出れば一緒に附いて行ってくれ、また向うでも待ち受けていてくれます。悲しみにつれ歓びにつれ、その手は、程を外さぬよう私たちを和なごめてくれます。たとえ「もう沢山!」とうるさがって弾ねのけても、それに怒って差し控えるような手ではありません。絶対無条件で慈悲の滴したたっている手です。死んで、死に別れというような果はかない手ではありません。
第二に怜悧りこうになれることです。
仏教は智慧を開く宗教ですから、物事に対して判断がはっきりつくようになります。自分の性格の長所短所、それが判れば自然と、自分の長所を養い育て、短所を補うようになります。自分に出来ることと、出来ないこととが判れば、無謀なことはしません。もしやって失敗しても、その失敗したわけがよく判るようになりますから直ぐ気を取直します。また案外うまく行ったからとて、調子に乗って長追いをしません。あるいはまた、自分の気持ちとしてどうしてもやり進まなければならないことは、はじめから失敗を予算に入れてかかります。予算に入れてある失敗は、もう失敗ではありません。そこで予算どおり失敗しても淡々とそれを見過ごす心の余裕があります。
世の中のあらゆるものに価値ねうちを認めて行きますから、憎んで憎み切り、恨んで恨み切り、というせっぱ詰まった気持ちに陥りません。必ず一部、長所と恩恵とを認めて、これを善用します。仏教ほど敵や讐かたきの効能を説く教えは他にありません。
第三に自由な気持ちです。
私たちが毎日向い合っている現実生活に対して仏教は、もとより力一ぱい働くことを勧めますが、さればと言ってこれに余り捉われ過ぎないように致します。眼の前の生活に真剣に働きかけながらしかも、常に、無限の理想を望んでいます。現実の名誉、利益、勢力、そういうものに対して、いつも即つかず離れずの態度で批判力を失いません。現実のものは現実だけの価値ねうちと知って、その価値だけに使って行きます。決して使い過しなど致しません。場合によっては、無限の理想の前にはそれらの眼前の現実の価値を泡一つほどにも思わず、未練なく抛なげうつ心構えが出来ております。
また仏教の教養は、精神肉体の蟠わだかまりを取り去るのですから、相手によっては、優しくも無邪気にもなりますが、相手によってはまた磐石のようにしっかりして鎗先のように鋭くもなります。時には敢然と闘いもします。物事に応じて、その時一番にそれを始末するのに都合の良い心の方面を出して応待させます。
第四にねばり強くかつ進取的になります。
仏教を消極的だと見らるる人もあるようですが、大変な間違いです。仏教の理想は、無限に人格の完成を期して行くのですから、障害ぐらい何とも思っていません。ねばり強く歩を運びます。どうかしてその日その日を、理想の完成へ向けて一歩でも近づかせるよう努力致します。この意義から言っても仏教は進取的です。そしてしっかりした張合いのある日を送ることのため、日々が実に好き日であり、日々が新鮮であります。但し、漸進すべきもの、急進すべきもの、その区別を明らかにして決して順序を間違えません。本当の意味で、仏教ぐらい大欲な教えはないでしょう。出来ない望みの譬えに、松が枝に桜の花を咲かせ梅の香りを放させたいような願いだと言いますが、仏教はそれに似たことをやろうというのです。自分一個の上では、人間の持ち得る限りの善き性質、真理まことの性質、美しい性質を蒐あつめ、世の中は、天地の貯えておるあらゆる宝を取出して飾り、みんな無上の幸福や、文化の頂上を味わうというのです。これが大欲でなくて何でしょう。もしこの考えを、ただ夢みるとか、空想するとかいうのだったら、それは神がかりであって、精神病だとも言われるでしょう。けれども仏教の方では、飽くまで合理的に研究して行って、人間の素質の中にある理想の種子を育てることによって、この現実の世に絶対の幸福を実現させようとするのですから決して神がかりや、空想ではありません。深く考えれば考えるほど、いよいよ人生の真理を覚知し得て欣喜勇躍するのであります。
第五、小欲より大欲につきます。
仏教生活では、眼の前の惜しい、欲しい欲望の生活、すなわち小欲生活を、大欲生活の目的のために見直して善用する工夫をするのであります。これが信仰というものです。このことは小欲こそ理想へ向けての歩一歩であることを示すものです。眼の前の惜しい、欲しいという欲望の生活なくしては、理想の目的地へ到着出来ません。ですから小欲生活――現実の生活に非常に注意を致しますと同時に、余りに現実生活に執われ過ぎることを避けます。小欲より大欲につくということは、何も別に小欲を捨ててしまって大欲ばかりを目指すということではありません。仏教で言う真の欲望へ向って、現実生活のすべての小欲を善用、利用し尽すということです。
仏教は進取的であっても、真理の根底が深いから、表面がやがやと騒ぎ立てません。落付いていますから、浅はかな眼からみれば、消極的に見えるのかも知れませんが、その見かたは大違いです。譬えば海を御覧なさい。沖の方の本当の千尋の浪は、岸にいる人の眼には付きません。岸に近くざわざわ騒ぎ立てる底の浅い浪の方が却って眼につき耳について離れません。さればと言って少し海水のことを考えたら、沖には海水の湛えてないなどと思う人は一人もないでしょう。否、まことの深い海水の本部こそ、沖に在るのだと思うでしょう。仏教の真理を、そのように力強く湛えた沖の海水だと思えば間違いありません。
ですから、本当に人生を生き抜くためには、眼の前の小欲にばかり夢中にならず、精巧な望遠鏡を以て沖を眺めるように、大船を駆って大洋に乗り出して来て沖の浪を見出すように、信仰によって獲得した霊智を働かせ、積極的に勇猛心を以て手段を講じ、眼の付けるところを、手をかけるところを、大きく広く、無限の幸福、人格完成を目指すのであります。
(我々凡夫の信仰生活は具体的には、
㈠、朝夕神仏に手を合わせる事、㈡三度の食事にも手を合わせること、
が大切と思います。)