道祖神は古典にも多く出てきます。いずれも、「道祖神は霊力をもっている」という内容です。
・源平盛衰記「笠島道祖神事」
(藤原実方が馬に乗って道祖神の前を通ろうとするとき、地元の民が「この神様は、御利益あること無比の神様で、賞罰をはっきりされる神様なので、下馬しなさい。」と忠告した。実方は、「ここの神はいかなる神か。」と問うた。民は「京都の賀茂の河原の西、一条の北の辺に坐す出雲路道祖神の娘なのですが、大事に育てられ、良い夫に逢うようにしたが、商人に嫁いだため、勘当され、この国に追いやられた。この土地の人々が神として̝あがめ祭ったのです。身分の上下や男女問わず、お願いがあるときは、男根型のものを造って、奉納すれば願い事はかなう。都人ならば、この神を参拝してまた京に戻りください。」と言ったが、実方は、「この神は下品の神だ。そんな神の前で下馬する必要などない。」と下馬せず馬を動かし通ろうとしたところ、ここの神は怒り、馬と一緒に罰して殺してしまった。)
終に、奥州名取郡、笠島の道祖神に蹴殺にけり。実方馬に乗りながら、彼道祖神の前を通らんとしけるに、人の諌て云ひけるは、此神は効験無雙の霊神、賞罰分明也、下馬して再拝して過ぎ給へと云ふ。実方問うて云ふ。何なる神ぞと。答へけるは、これは都の賀茂の河原の西、一条の北の辺におはする出雲路の道祖神の女なりけるを、いつきかしづきて、よき夫に合せんとしけるを、商人に嫁ぎて、親に勘当せられて、此国へ追下され給へりけるを、国人是を崇め敬ひて、神事再拝す。上下男女所願ある時は、隠相を造て神前に懸荘り奉りて、是を祈申に叶はずと云事なし、我が御身も都の人なれば、さこそ上り度ましますらめ、敬神再拝し祈申て、故郷に還上給へかしと云ければ、
実方、さては此神下品の女神にや、我下馬に及ばずとて、馬を打つて通りけるに、明神怒を成して、馬をも主をも罰し殺し給ひけり。」
・宇治拾遺物語 巻第一 「道命阿闍梨和泉式部の許に於いて読経し五条道祖神聴聞の事」
(藤原道綱の子道命阿闍梨が和泉式部のもとに通っていた時、法華経を読誦していると道祖神がきて、今日は沐浴せずに経をよんでいるので近寄って聞くことができた、と言ってお礼をいった。こういうことがあるから恵心僧都はわずかに読経するにも身を清めて行うべき、といっておられる。)
「今は昔道命阿闍梨とて傅殿(藤原道綱)の子に色にふけりたる僧ありけり `和泉式部に通ひけり `経をめでたく読みけり `それが和泉式部許行きて臥したりけるに目覚めて経を心を澄して読みけるほどに八巻読み果てて暁に微睡まんとするほどに人の気はひのしければ `あれは誰そ `と問ひければ `己は五条西洞院の辺に候ふ翁に候ふ `と答へければ `こは何事ぞ `と道命云ひければ `この御経を今宵うけたまはりぬる事の生々世々忘れ難く候ふ `と云ひければ道命 `法華経を読み奉る事は常の事なり `何ど今宵しも云はるるぞ `と云ひければ五条の斉曰く `清くて読みまゐらせ給ふ時は梵天帝釈を始め奉りて聴聞せさせ給へば翁などは近づき参りて承るに及び候はず `今宵は御行水も候はで読み奉らせ給へば梵天帝釈も御聴聞候はぬ間にて翁参り寄りて承りて候ひぬる事の忘れ難く候ふなり `と述給ひけり
`さればはかなくさい読み奉るとも清くて読み奉るべき事なり `念仏読経四威儀を破ることなかれ `と恵心の御房も戒め給ふにこそ」
・今昔物語・巻十三「天王寺僧道公誦法花救道祖語 第卅四」(この話は今昔物語に登場する「道祖神」説話の代表的なものとしてしばしば引用される。天王寺僧道公が、熊野参詣の帰途、山中の大木の下で野宿した夜、三十騎程の人がやって来て大木のところで老人を呼び出す。老人は馬の足が折れていることを理由に供を断る。翌朝、道公が見ると男の「道祖ノ神」の形の絵馬の足が壊れているのを見いだす。それを道公が修復しその夜もそこに留まって様子を見ると、また騎馬の人人がやってきて今度は老人も共に行く。明け方老人は帰ってきて道公にお礼をいい、自分は「 道祖神」であるけれども、いつも行疫神に酷使されているので何とかして成仏したいという。そこで道公が三日三夜法花経を唱えると、翁はおかげで 補 陀落山に行くことができるという。道公が道祖神のいうように「柴ノ船ヲ造テ、此の道祖神ノ像ヲ乗セテ」海に浮かべると、船は南を指して走り去ったという。)
「今昔、天王寺に住む僧有けり。名をば道公と云ふ。年来法花経を読誦して、仏道を修行す。常に熊野に詣でて、安居を勤む。
而るに、熊野より出でて本寺に返る間、紀伊の国の美奈部郡の海辺を行く程に日暮れぬ。然れば、其の所に大なる樹の本に宿ぬ。
夜半許の程に、馬に乗れる人、二三十騎許来て、此の樹の辺に有り。「何人ならむ」と思ふ程に、一の人の云く、「樹の本の翁は候ふか」と。此の樹の本に答て云く、「翁候ふ」と。道公、此れを聞て、驚き怪て。「此の樹の本には人の有けるか」と思ふに、亦、馬に乗れる人の云く、「速に罷出でて、御共に候へ」と。亦、樹の本に云く、「今夜は参るべからず。其の故は、駒の足折れ損じて、乗るに能はざれば、明日駒の足を䟽(つくろ)ひ、亦他の馬をまれ求て参るべき也。年罷老て、行歩に叶はず」と。馬に乗れる人々、此れを聞て、皆打過ぬと聞く。
夜曙ぬれば、道公、此の事を極て怪び恐れて、樹の本を廻り見るに、惣て人無し。只、道祖の神の形を造たる有り。其の形、旧く朽て、多の年を経たりと見ゆ。男の形のみ有て、女の形は無し。前に板に書たる絵馬有り。足の所破れたり。道公、此れを見て、「夜るは此の道祖の云ひける也けり」と思ふに、弥よ奇異に思て、其の絵馬の足の所の破たるを、糸を以て綴て、本の如く置つ。道公、「此の事を今夜吉く見む」と思て、其の日留て、尚樹の本に有り。
夜半許に、夜前(ようべ)の如く、多の馬に乗れる人来ぬ。道祖、亦馬に乗て、出でて共に行きぬ。暁に成る程に、「道祖返り来ぬ」と聞く程に、年老たる翁来れり。誰人と知らず。道公に向て、拝して云く、「聖人の昨日駒の足を療治し給へるに依て、翁、此の公事を勤めつ。此の恩、報じ難し。我れは、此れ此の樹の本の道祖此れ也。此の多の馬に乗れる人は、行疫神に在ます。国の内を廻る時に、必ず翁を以て前役とす。若し、其れに共奉せねば、笞を以て打ち、言を以て罵る。此の苦、実に堪難し。然れば、今此の下劣の神形を棄てて、速に上品の功徳の身を得むと思ふ。其れ、聖人の御力に依るべし」と。道公、答て云く、「宣ふ所妙也と云へども、此れ我が力に及ばず」と。道祖、亦云く、「聖人、此の樹の下に今三日留て、法花経を誦し給はむを聞かば、我れ法花の力に依て、忽に苦の身を棄てて楽の所に生れむ」と云て、掻消つ様に失ぬ。
道公、道祖の言に随て、三日三夜其の所に居て、心を至して法花経を誦す。第四日に至て、前の翁来れり。道公を礼して云く、「我れ聖人の慈悲に依て、今既に此の身を棄てて、貴き身を得むとす。所謂る補陀落山に生て、観音の眷属と成て、菩薩の位に昇らむ。此れ、偏に法花を聞奉つる故也。聖人、若し其の虚実を知むと思給はば、草木の枝を以て小き柴の船を造て、我が木像を乗て、海の上に浮て、其の作法を見給ふべし」と云て、掻消つ様に失ぬ。
其の後ち、道公、道祖の言に随て、忽に柴の船を造て、此の道祖神の像を乗せて、海辺に行て、此れを海の上に放ち浮ぶ。其の時に、風立たず、波動かずして、柴船南を指て走り去ぬ。道公、此れを見て、柴船の見えず成るまで、泣々く礼拝して返りぬ。
亦、其の郷に年老たる人有り。其の人の夢に、此の樹の下の道祖、菩薩の形と成て、光を放て照し耀きて、音楽を発して、南を指て遥に飛び昇ぬと見けり。道公、此の事を深く信じて、本寺に返て、弥よ法花経を誦する事愚かならず。
道公が語るを聞て、人貴びけりとなむ語り伝へたるとや。
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・今昔物語巻三十一「豊前大君知世中作法語 第廿五」
(除目に先立ってそのその内容を当てていた「豊前大君」の話。当たらなかった人は「豊前大君は道祖神を祭りて狂った」といったとある。当時から道祖神を祀ることがあったとみえます。)「今昔、□□天皇の御代に、豊前の大君と云ふ人有けり。柏原の天皇の御孫にてなむ有ける程に、位は四位にて、官は刑部卿にて、大和の守などにてなむ有ける程に、此の人、世の中の事を吉く知り、心ばへ直にて、公の御政を吉も悪も吉く知て、除目有らむずる時には、先づ国の数た開たるを、各の次第を待て望む人々の有るをも、国の程に宛て押量りて、「其の人をば、其の国の守にこそ成さるらめ。其の人は、道理を立て望めども、否成らじかし」など、国毎に云たりける事を、人皆聞て、所望叶たりける人は、除目の後朝には、此の大君の許に行てなむ讃ける。此の大君の押量り除目、露違はざりければ、世挙て、「尚、此の大君の押量り除目、賢き事也」となむ云ひ喤ける。
除目の前にも、此の大君の許になむ行き集て問ければ、思ひ量たるままになむ答へ居たりける。「成るべし」と云はれたる人は、手を摺て喜びて、「尚、此の大君、極き人」と云てなむ返ける。「成らじ」と云ふを聞たる人は、大きに嗔て、「此は何事云ひ居る旧大君ぞ。道祖(さへ)の神を祭て狂にこそ有ぬれ」など云て、腹立てなむ返ける。
然て、此く「成るべし」と云たる人の成らずして、異人の成たるをば、「此れは公の悪く成されたるぞ」となむ、大君、世を謗り申ける。然れば、天皇も、「豊前の大君は除目をば何が云なる」となむ、天皇に親く仕つる人々に、「行て問へ」となむ仰せられける。
昔は此る人なむ世に有けるとなむ、語り伝へたるとや。」
・源平盛衰記「笠島道祖神事」
(藤原実方が馬に乗って道祖神の前を通ろうとするとき、地元の民が「この神様は、御利益あること無比の神様で、賞罰をはっきりされる神様なので、下馬しなさい。」と忠告した。実方は、「ここの神はいかなる神か。」と問うた。民は「京都の賀茂の河原の西、一条の北の辺に坐す出雲路道祖神の娘なのですが、大事に育てられ、良い夫に逢うようにしたが、商人に嫁いだため、勘当され、この国に追いやられた。この土地の人々が神として̝あがめ祭ったのです。身分の上下や男女問わず、お願いがあるときは、男根型のものを造って、奉納すれば願い事はかなう。都人ならば、この神を参拝してまた京に戻りください。」と言ったが、実方は、「この神は下品の神だ。そんな神の前で下馬する必要などない。」と下馬せず馬を動かし通ろうとしたところ、ここの神は怒り、馬と一緒に罰して殺してしまった。)
終に、奥州名取郡、笠島の道祖神に蹴殺にけり。実方馬に乗りながら、彼道祖神の前を通らんとしけるに、人の諌て云ひけるは、此神は効験無雙の霊神、賞罰分明也、下馬して再拝して過ぎ給へと云ふ。実方問うて云ふ。何なる神ぞと。答へけるは、これは都の賀茂の河原の西、一条の北の辺におはする出雲路の道祖神の女なりけるを、いつきかしづきて、よき夫に合せんとしけるを、商人に嫁ぎて、親に勘当せられて、此国へ追下され給へりけるを、国人是を崇め敬ひて、神事再拝す。上下男女所願ある時は、隠相を造て神前に懸荘り奉りて、是を祈申に叶はずと云事なし、我が御身も都の人なれば、さこそ上り度ましますらめ、敬神再拝し祈申て、故郷に還上給へかしと云ければ、
実方、さては此神下品の女神にや、我下馬に及ばずとて、馬を打つて通りけるに、明神怒を成して、馬をも主をも罰し殺し給ひけり。」
・宇治拾遺物語 巻第一 「道命阿闍梨和泉式部の許に於いて読経し五条道祖神聴聞の事」
(藤原道綱の子道命阿闍梨が和泉式部のもとに通っていた時、法華経を読誦していると道祖神がきて、今日は沐浴せずに経をよんでいるので近寄って聞くことができた、と言ってお礼をいった。こういうことがあるから恵心僧都はわずかに読経するにも身を清めて行うべき、といっておられる。)
「今は昔道命阿闍梨とて傅殿(藤原道綱)の子に色にふけりたる僧ありけり `和泉式部に通ひけり `経をめでたく読みけり `それが和泉式部許行きて臥したりけるに目覚めて経を心を澄して読みけるほどに八巻読み果てて暁に微睡まんとするほどに人の気はひのしければ `あれは誰そ `と問ひければ `己は五条西洞院の辺に候ふ翁に候ふ `と答へければ `こは何事ぞ `と道命云ひければ `この御経を今宵うけたまはりぬる事の生々世々忘れ難く候ふ `と云ひければ道命 `法華経を読み奉る事は常の事なり `何ど今宵しも云はるるぞ `と云ひければ五条の斉曰く `清くて読みまゐらせ給ふ時は梵天帝釈を始め奉りて聴聞せさせ給へば翁などは近づき参りて承るに及び候はず `今宵は御行水も候はで読み奉らせ給へば梵天帝釈も御聴聞候はぬ間にて翁参り寄りて承りて候ひぬる事の忘れ難く候ふなり `と述給ひけり
`さればはかなくさい読み奉るとも清くて読み奉るべき事なり `念仏読経四威儀を破ることなかれ `と恵心の御房も戒め給ふにこそ」
・今昔物語・巻十三「天王寺僧道公誦法花救道祖語 第卅四」(この話は今昔物語に登場する「道祖神」説話の代表的なものとしてしばしば引用される。天王寺僧道公が、熊野参詣の帰途、山中の大木の下で野宿した夜、三十騎程の人がやって来て大木のところで老人を呼び出す。老人は馬の足が折れていることを理由に供を断る。翌朝、道公が見ると男の「道祖ノ神」の形の絵馬の足が壊れているのを見いだす。それを道公が修復しその夜もそこに留まって様子を見ると、また騎馬の人人がやってきて今度は老人も共に行く。明け方老人は帰ってきて道公にお礼をいい、自分は「 道祖神」であるけれども、いつも行疫神に酷使されているので何とかして成仏したいという。そこで道公が三日三夜法花経を唱えると、翁はおかげで 補 陀落山に行くことができるという。道公が道祖神のいうように「柴ノ船ヲ造テ、此の道祖神ノ像ヲ乗セテ」海に浮かべると、船は南を指して走り去ったという。)
「今昔、天王寺に住む僧有けり。名をば道公と云ふ。年来法花経を読誦して、仏道を修行す。常に熊野に詣でて、安居を勤む。
而るに、熊野より出でて本寺に返る間、紀伊の国の美奈部郡の海辺を行く程に日暮れぬ。然れば、其の所に大なる樹の本に宿ぬ。
夜半許の程に、馬に乗れる人、二三十騎許来て、此の樹の辺に有り。「何人ならむ」と思ふ程に、一の人の云く、「樹の本の翁は候ふか」と。此の樹の本に答て云く、「翁候ふ」と。道公、此れを聞て、驚き怪て。「此の樹の本には人の有けるか」と思ふに、亦、馬に乗れる人の云く、「速に罷出でて、御共に候へ」と。亦、樹の本に云く、「今夜は参るべからず。其の故は、駒の足折れ損じて、乗るに能はざれば、明日駒の足を䟽(つくろ)ひ、亦他の馬をまれ求て参るべき也。年罷老て、行歩に叶はず」と。馬に乗れる人々、此れを聞て、皆打過ぬと聞く。
夜曙ぬれば、道公、此の事を極て怪び恐れて、樹の本を廻り見るに、惣て人無し。只、道祖の神の形を造たる有り。其の形、旧く朽て、多の年を経たりと見ゆ。男の形のみ有て、女の形は無し。前に板に書たる絵馬有り。足の所破れたり。道公、此れを見て、「夜るは此の道祖の云ひける也けり」と思ふに、弥よ奇異に思て、其の絵馬の足の所の破たるを、糸を以て綴て、本の如く置つ。道公、「此の事を今夜吉く見む」と思て、其の日留て、尚樹の本に有り。
夜半許に、夜前(ようべ)の如く、多の馬に乗れる人来ぬ。道祖、亦馬に乗て、出でて共に行きぬ。暁に成る程に、「道祖返り来ぬ」と聞く程に、年老たる翁来れり。誰人と知らず。道公に向て、拝して云く、「聖人の昨日駒の足を療治し給へるに依て、翁、此の公事を勤めつ。此の恩、報じ難し。我れは、此れ此の樹の本の道祖此れ也。此の多の馬に乗れる人は、行疫神に在ます。国の内を廻る時に、必ず翁を以て前役とす。若し、其れに共奉せねば、笞を以て打ち、言を以て罵る。此の苦、実に堪難し。然れば、今此の下劣の神形を棄てて、速に上品の功徳の身を得むと思ふ。其れ、聖人の御力に依るべし」と。道公、答て云く、「宣ふ所妙也と云へども、此れ我が力に及ばず」と。道祖、亦云く、「聖人、此の樹の下に今三日留て、法花経を誦し給はむを聞かば、我れ法花の力に依て、忽に苦の身を棄てて楽の所に生れむ」と云て、掻消つ様に失ぬ。
道公、道祖の言に随て、三日三夜其の所に居て、心を至して法花経を誦す。第四日に至て、前の翁来れり。道公を礼して云く、「我れ聖人の慈悲に依て、今既に此の身を棄てて、貴き身を得むとす。所謂る補陀落山に生て、観音の眷属と成て、菩薩の位に昇らむ。此れ、偏に法花を聞奉つる故也。聖人、若し其の虚実を知むと思給はば、草木の枝を以て小き柴の船を造て、我が木像を乗て、海の上に浮て、其の作法を見給ふべし」と云て、掻消つ様に失ぬ。
其の後ち、道公、道祖の言に随て、忽に柴の船を造て、此の道祖神の像を乗せて、海辺に行て、此れを海の上に放ち浮ぶ。其の時に、風立たず、波動かずして、柴船南を指て走り去ぬ。道公、此れを見て、柴船の見えず成るまで、泣々く礼拝して返りぬ。
亦、其の郷に年老たる人有り。其の人の夢に、此の樹の下の道祖、菩薩の形と成て、光を放て照し耀きて、音楽を発して、南を指て遥に飛び昇ぬと見けり。道公、此の事を深く信じて、本寺に返て、弥よ法花経を誦する事愚かならず。
道公が語るを聞て、人貴びけりとなむ語り伝へたるとや。
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・今昔物語巻三十一「豊前大君知世中作法語 第廿五」
(除目に先立ってそのその内容を当てていた「豊前大君」の話。当たらなかった人は「豊前大君は道祖神を祭りて狂った」といったとある。当時から道祖神を祀ることがあったとみえます。)「今昔、□□天皇の御代に、豊前の大君と云ふ人有けり。柏原の天皇の御孫にてなむ有ける程に、位は四位にて、官は刑部卿にて、大和の守などにてなむ有ける程に、此の人、世の中の事を吉く知り、心ばへ直にて、公の御政を吉も悪も吉く知て、除目有らむずる時には、先づ国の数た開たるを、各の次第を待て望む人々の有るをも、国の程に宛て押量りて、「其の人をば、其の国の守にこそ成さるらめ。其の人は、道理を立て望めども、否成らじかし」など、国毎に云たりける事を、人皆聞て、所望叶たりける人は、除目の後朝には、此の大君の許に行てなむ讃ける。此の大君の押量り除目、露違はざりければ、世挙て、「尚、此の大君の押量り除目、賢き事也」となむ云ひ喤ける。
除目の前にも、此の大君の許になむ行き集て問ければ、思ひ量たるままになむ答へ居たりける。「成るべし」と云はれたる人は、手を摺て喜びて、「尚、此の大君、極き人」と云てなむ返ける。「成らじ」と云ふを聞たる人は、大きに嗔て、「此は何事云ひ居る旧大君ぞ。道祖(さへ)の神を祭て狂にこそ有ぬれ」など云て、腹立てなむ返ける。
然て、此く「成るべし」と云たる人の成らずして、異人の成たるをば、「此れは公の悪く成されたるぞ」となむ、大君、世を謗り申ける。然れば、天皇も、「豊前の大君は除目をば何が云なる」となむ、天皇に親く仕つる人々に、「行て問へ」となむ仰せられける。
昔は此る人なむ世に有けるとなむ、語り伝へたるとや。」