地蔵菩薩三国霊験記 3/14巻の1/7
地蔵菩薩霊験記巻第三
目録
- 一、小法師に現じて法華持經者に給仕し玉ふこと。
- 二、土佐國平岡地蔵の事。
- 三、地蔵講を営み趣向各別、得果も亦異なる事。
- 四、高野大師の土作地蔵霊験の事。
- 五、駿河香貫郡糠地蔵の事。
- 六、柑子の木地蔵の事。
- 七、病を祈るき宿業を知らしめ玉ふ事。
地蔵菩薩霊験記巻第三 三井寺 實叡撰
一、小法師に現れて持經者に使れ玉ふ事。
中古に上野の國利根と云所の旁に居住しける法師の覺實坊と云ありけ。内々驚愕を司りて論議を事とし講行を羨みけるに、智と心と相違して論議には辨舌足らず。文々句々に滞り、説法には講音枯渇して宣説の妙理も分明ならず。去る程に望所退轉して先生に結縁の薄きによりてこそ角ありと思入りて所詮は来生の縁の為に一生法華経を讀誦し奉り生涯を送んと思立ちて天晴閑ならん山の人居近き所に閑居して經王讀誦の道場を建て一向菩提の勤に法華三昧に入りて一如真実の悟を開き妙覚無垢の位にいたらんとぞ願ける。さるほどに彼の利根の奥に望むに應じたる山縣ありけり。後ろには長山連なりて遠く漢土にもつつ゛くらんとぞ覚へて、仙洞の隣に便ありくも立山圍で寂莫の扉静かなり。木の茂り枝並んで春は春ながら、秋の色相を露(あらは)せり。人隣によりて又遠し。峯には真如の薪豊かにして谷には色相の水乏しからず。彼の所に草創誰ともしらず古寺一宇立ち玉へり。本尊は地蔵菩薩身の長三尺六寸(136㎝)まします。永年の古佛にて彩色も鮮やかならず。長歳の伽藍にて軒端も苔に埋もれ人倫の徘徊も路絶てければ天晴のぞむところの道場やと、よろこびて彼の堂の側に草庵を営みて心閑に法花を読誦し奉りけるほどに、凢そ一生の行業毎日怠ることなくぞ勤めける。されば読経の為に隙を惜しみて哀れ快く使しぬる小法師もがな一人召し使ひて一向専修を励まさんと朝夕願けること既に一両年を經にける。読壽しながらも本堂の地蔵尊に参りつつ右の意趣をぞ啓白(もうし)けり。されば至誠の心佛意にや中りけん出所分明ならざる小法師の出来て使はれ奉るべき由を白しける程に覚實坊の心中實に満足して偏に天の諸童子以て給仕と為す法華の金言(妙法蓮華經・安楽行品第十四「天の諸の童子 以って給仕を為さん刀杖も加えず 毒も害すること能わじ」」)にや叶ふらんと頼母敷くも覚へき。且亦給仕の様他に異なりて喩ふる物あんし。其の用心底にありて示さざれども顕に言はざるに心得て風に隨ふ雲の如く他心得通の童かとぞ見へし。容顔指して愛しからず、衣は薄墨染にてありしに煙にすすけてこがれいろにぞなんありけるに、同じ色あんる七條の袈裟懸けて行住坐臥に許すことなし。聖是を心得ざることに思ひて常に制しけるは、凢そ法師は圓頂方袍と白して頭を剃り、袈裟をかくるは定る習なれども佛事法用なんどにこそあれ、常の省事なれどには恐れあるべしと云ければ、畏(かしこ)まりたりとは領しながら片時許すことはなかりき。或は強いて制しけるときは是は我が師の範なり、坊主は唯暇を玉へかし内行はともかくもあれ許させ玉へと云て打ち笑ひて益々心の欲るごとくぞ使はれけり。猶重々止めければあら心苦しや自からは聖に事(つかへまつる)に暇なきにより此の衣を脱ぐに隙なし。聖は讀誦に間あればこそ小法師が行状を見咎め玉ふ。内々承り及びしは入於深山思惟佛道(妙法蓮華經卷第一「或見菩薩而作比丘 獨處閑靜 樂誦經典又見菩薩 勇猛精進 入於深山 思惟佛道 又見離欲 常處空閑 深修禪定 得五神通」)の願望の聖人とこそ聞き侍る。生死事大にして無常の迅速なるに(圓悟佛果禪師語録卷第十二「永嘉云。生死事大無常迅速。六祖開箇方便門便道」)世事の妄心を止めて文々句々に目を止め給ひ真實讀誦の志を至し玉へかし餘念あらば雑行虚仮に成なん。若し散乱心を以て一称南無仏も皆得成仏とて(妙法蓮華經方便品第二「若人散亂心 入於塔廟中 一稱南無佛 皆已成佛道」)妄念を起こさば一向讀誦せざるには如かずにはとつぶやきければ聖も理に中(あた)りて黙止けるを腹立ちて多年の所望一念の瞋恚に忘れ果てて、さては法師は常住具足の衣とて東司後架の便利の時も許すことなきやらんと罵りければ小法師咲(わら)ひて言けるは、大小便利の所は水火流出の根源なり。十方佛土中にあれば、若於林中若於園中何れの所として法界道場にあらざる(妙法蓮華經如來神力品第二十一「若經卷所住之處。若於園中。若於林中。若於樹下。若於僧坊。若白衣舍。若在殿堂。若山谷曠野。是中皆應起塔供養。所以者何。當知是處即是道場。諸佛於此得阿耨多羅三藐三菩提。諸佛於此轉于法輪。諸佛於此而般涅槃」)。万法一如の觀には松吹く風も浦波も四徳波羅蜜(常楽我浄)と唱へれば谷の螻蟻(ろうぎ。けら,蟻)も佛身なり。皆實相と違背せず、と言て衣食の為に鼎の下に薪を積みてさしうつして火を吹ける所を聖、明文句々に詰られて云べき旨やなかりけれ。こざかしの法師やと云て立ち上て足を挙げて小法師が背をしたたかに踏伏せ火の中に踏み伏せて引も起きずして打ち捨て、其の邊近き山のほとりに徘徊して且く腹をぞ安んじける。良(やや)ありて庵に皈り小法師がありさま何となりぬらんと窺けるに小法師は起き上がらずして火の中にあり。聖立ち寄りて見ければ最前の侭にて身躰に火もえ付て半ばばかりぞ残りけるを見て、あなあさましのありさまよと水を灑ぎて火を消して能々(ゆくよく)見れば小法師にはあらずして彼の本堂の本尊地蔵菩薩の木像纔に御足ばかりぞ残りける。末代後見の輩の慚愧せん事も浅猿(あさまし)く思ひければ即ち庵を逐電し跡を隠して失せにけり。されば一念の瞋恚九胝劫の善根を焼くと云は是なるべし(禪戒鈔「佛言若人造功徳積如須彌山。一起瞋恚皆消滅云云」。佛遺教經「瞋恚の害は能く諸の善法を破し、好名聞を壊す」)。如是に愚にして無道の法師なれども其の行、真に堅固にして超八上々の妙典(法華経は四教の外にあって超八醍醐の最勝な教え、化儀化法の八教を超えるすぐれた醍醐味のような最上の教え、といわれる)を讀誦し奉りければ、忝くも木像変化し玉ひて三年の間採菓吸水の功に易玉(かわりたまひ)き。本来不生にして今も亦不滅の毘盧遮全躰にして坐(ましませ)ども、彼の聖の業力の見る所に焼玉ふにぞにやあるべき。且亦如是に示し玉ふ皆勧善懲悪の方便なれば残り玉ふ御足なりとも彼の地に止め置ばなどか佛種萌芽の表ならざらんや。いずくにか枝捨てけん、あさましくぞありける。されば法華経讀誦の人に地蔵の使はし玉ふ御事誰人にても限りあるべからず。其の故は昔在霊山名法花今在西方名阿弥陀、五濁悪世名観音三世一体同利益と説く此の文(溪嵐拾葉集・曼荼羅口決事「覺大師記云。昔在靈山名法花。今在西方名彌陀。五濁惡世名觀音三世利益同一體」)此の文を按ずるに三身即一の義、是なり。地蔵は彌陀の内証にてましませば(薄草子口決・賴瑜撰「御口云。彼比丘像者法藏比丘也。寶藏比丘即地藏也。彌陀變身即地藏菩薩歟。地藏彌陀一體可習之。」)法華は彌陀の異名なり。凢法華持者に地蔵の使はれ玉はん事、何の疑いかあるべき。然らば何なる難苦の行をつとむるも、あながち心に任かせ瞋恚を生ずることあるべからず。魔障も更に外なし。唯己が心中より生ずる者をや。ことに忍辱心を忘れたらんにをいては、必定して地蔵の加護を漏ぬべし。深く慎むべきものなり。