82番根来寺から83番一宮寺への遍路路には たんぽぽが咲き乱れていました。芭蕉は「世の人のみつけぬ花や 軒の栗」と詠みましたが、
こちらは
「深山路の 夏遍路みる つつみぐさ」(行者)
といったところでしょうか。
この道で逆打の上品な初老の白人夫婦とすれちがい挨拶をかわしました。
オランダ、エストニア、アメリカ、フランスなどこれまでにもおおくの外人とであいました。皆遍路装束で真面目でした。聖書には
「みこころが天に成るがごとく地にも成る」ありますが、維摩経でも
「国土の清浄を欲する菩薩は自己の心を治め浄めることにつとめるべきである。 なんとなればどのように菩薩の心が浄らかであるかに従って、佛国土の清浄があるからである。」(阿難。諸佛色身威相種性。戒定智慧解脫解脫知見。力無所畏不共之法。大慈大悲威儀所行。及其壽命說法教化。成就眾生淨佛國土。)
とあります。「心」は世界中の人類に普遍的なものです。みんなの心で素晴らしい世界をえがけばすばらしい地球ができるのです。
遍路道は白峰寺の寺領だったという五台山の中をえんえんと続きます。
途中に井戸と丁石があります。丁石は江戸時代のもので、地元にない花崗岩をつかっているとかいてあります。そして1丁(109m)ごとにお地蔵様の横に距離を彫っておいてあります。感動するのはこのほかのことは一切かいてないことです。「為・・家先祖之菩提」など何も書いてないのです。
つまり地元の人々が純粋にお遍路さんの道中平安のみを祈って遠くで作った丁石を人力で何十個も運び上げ設置したのです。
こういう全く見返りを求めない祈りがついこの間まで日本列島の基層を厚く覆っていました。そしてこういう祈りが日本社会の健全性を担保していたのです。 上座部僧のスマナサーラ師は「成功するためにはすべてのものの幸せを祈ること」と喝破しています。こういうことをむかしの日本人は常識として分かっていたのです。
わたしも行法のときに利他を祈ると必ず良い結果が出ます。ともすれば自利を中心に祈ることがありましたがこの原点に常に立ち返るべきと自省しています。