物理学者ロラン・ノッタルに関していえば、彼の指摘はこうです。
「一部の哲学者はさらに先へ進み物質から精神まであらゆる事物の非存在そのものを結論ずけた。
西洋思想と物質の科学に関しては相対性の歴史をコペルニクスにまでさかのぼることができたが、
東洋思想における相対性の最初の発見は二千五百年以上前のシッダルタ・ゴータマにさかのぼるようだ。
仏教哲学にはあらゆる事物の空性に関する本物の相対論的思索がある。空性は事物の非存在そのものの帰結であり、事物の存在はただ相互の関係にのみある。このような直感は驚くばかりである。
これは相対性の原理に基ずく科学が掲げるはるか彼方の目標、おそらく達することのできない目標の内的映像とみなすことができよう。
そこにはいかなるニヒリズムも現実や存在の否定も無くむしろ存在の本質そのものについての深い味方がある。
もし事物が絶対的には存在せずしかしそれでも存在しているとすれば事物の本質はそれらを結びつける関係の中に求めるべきである。
存在するのはただ事物間の関係であり、事物それ自体ではない。
事物そのものは空であり、それらと世界の残りのものとの関係の全体に帰すべきである。
事物とはこれらの関係である。」
「一部の哲学者はさらに先へ進み物質から精神まであらゆる事物の非存在そのものを結論ずけた。
西洋思想と物質の科学に関しては相対性の歴史をコペルニクスにまでさかのぼることができたが、
東洋思想における相対性の最初の発見は二千五百年以上前のシッダルタ・ゴータマにさかのぼるようだ。
仏教哲学にはあらゆる事物の空性に関する本物の相対論的思索がある。空性は事物の非存在そのものの帰結であり、事物の存在はただ相互の関係にのみある。このような直感は驚くばかりである。
これは相対性の原理に基ずく科学が掲げるはるか彼方の目標、おそらく達することのできない目標の内的映像とみなすことができよう。
そこにはいかなるニヒリズムも現実や存在の否定も無くむしろ存在の本質そのものについての深い味方がある。
もし事物が絶対的には存在せずしかしそれでも存在しているとすれば事物の本質はそれらを結びつける関係の中に求めるべきである。
存在するのはただ事物間の関係であり、事物それ自体ではない。
事物そのものは空であり、それらと世界の残りのものとの関係の全体に帰すべきである。
事物とはこれらの関係である。」