第三十四番 みつ゛くぐり日澤山水潜寺。御堂六間四面西向。
本尊千手觀音並に彌勒薬師御長各二尺(60㎝) 三尊共に傳教大師御作
當山開基の原始を尋に、昔時天長元年(824)、東國大に旱して金石流、土山焦、草木涸て枯野の如く、鳥獣も 喘ぎ苦しむ 此山下の民雨を乞へども甲斐なく、岩碎大地さけていとおそろし。然るに僧教て曰、澍甘露法雨と札に書て所々に建て、観世音に祈ば必ず其験有べしと云。里人悦で教の如く所々に甘露法雨の文を書て建てたり。札たて峠と云は此旧跡なり。斯て後、第三日にあたる晨、身の長六尺餘の法師、蓑笠を着し木履をはき、 大雨を凌ぐ儲事ことしき出立哉と、目をそばめかゝる大旱にそげたる法師の有様やと笑罵れども、此僧かへり見ず峯に登る事飛ぶが如く、山上の石上に笈を下し、三尊の佛像を出し、永く此地に止り給ひ、化縁を東國に施し給へ、當所水涸て民大に渇す、救はずんば有べからずと、柱杖を以て岩石を揬に、水涌出瀧の如し。是を見て山下の民驚來此泉を飲に其味清く美也、各悦で如清涼池と唱へて拜す。僧の曰、 吾六十餘州を巡て今此霊地に至る、此處順禮所願成就の地也、吾笈摺を脱て此處に納め置べし、是より後数十の甲子を経て、熊野権現余多の権化と共に來て、亦此地に笈摺を脱置給はん、此本尊阿弥陀如来 薬師佛を左右に安置する事は、弥陀は西方の教主、是を西國三十三所に表し、薬師如来は東方の化主、 是を坂東にかたどる、此地の三十四所とゝもに百番順禮の結願所とすべし、亦汝等が願の儘に大雨降來るべし、早く此尊像を掩べしと、里民集て茅荊押刈て則時に本尊を掩ひ奉る。時に黒雲満天にはびこり、 雷鼓掣電雨滂沛と降り下て車軸を洗ふ、民悦で是佛力にあらずして何ぞ此甘澤を蒙らんと、手の舞足の踏處をしらず。時に旅僧示て曰、此三尊は傳教大師の彫刻也、必ず後世霊瑞多かるべし、厚く敬ひ奉れ と、よくよく教諭して、笈取て肩に掛、麓をさして下る事飛鳥のかけるが如く、終に其行處をしらず。果 して其後文暦年中(13世紀)、異僧十餘輩郡中を巡禮し給ひ、此山に登り各笈摺を脱置て去給ひぬ。當山の住侶麓の郷民、悉く集会して是こそ古より聞傳へし事有、熊野大権現にておわしませ、此笈摺を神體とし此處に祭るべしと、則石の櫃に納め巡禮の守護神と崇奉、當山の奥の院に鎮座て永く當山の護法と仰奉る。其後代々當郡の領主、近國の上下、尊信し奉り、殿堂悉く成就し、三十四處の結願成就満足の霊場となれり。詠歌に曰く、
「萬代の 願を此處に納をく 苔の下より いつ゛る水かな」
詠歌は萬世の願とは、過去久遠劫より生死に輪廻し、六道を巡りめぐりしに、佛の御誓にもれずして終に煩悩を離るる事、此笈摺を脱捨るごとく成佛得脱することよと、歓喜の心より詠じ出したる歌也。信心の徒に申す、夫れ霊泉湧出る事、今尚不舎、晝夜よく此一滴水を汲得て永く煩悩之焔を滅ぼす可し。佛の誓空しからぬ事、苔の下より流るる水の滄海に延て止る事なきが如し。殊更日の本は観世音の有縁の地也。観世音有縁の地と云事、法花秘畧抄に具なり。(法花秘畧抄・浄厳「日本國殊に観音有縁の地なる故あり。日本は天照大神の御國なり。天照大神の御本地を安置して世貴寺と号す。金剛頂大教王經には、金剛法の梵讃の「ろけいじんばら」を世貴と翻ずる也。又内侍所の圓鏡は即ち天照大神也。金剛頂經には鏡を以て観音の三昧耶形と説けり。又天照大神を大日孁貴と名け奉る。是豈大日世貴と同なるに非ずや。故に國を大日本國と名け、又この國の形獨股杵の形なること、獨股は観音の三形、又獨一法身の大日也。彼比符契を合わせたるが如し。」)誰か信じ奉らざらんや。抑當郡は西國、坂東と海内に鼎立して、一郡に三十四所甍を並郡類を済度し給へり、誠に日域無双の霊地に非ずや。彼西國は所謂山城、大和、和泉、河内乃至丹州、美濃、近江等の諸州に散在し給へり。坂東は武蔵、相模、安房、上総の八州に度る。其行路甚難し。此地は僅に一郡の内に出ずして、悉く不日に巡禮し奉る事、併大慈大悲の方便の利益、衆生の深恩なり。信心の優婆塞、優婆夷、童男、童女の輩迄、仰で信じ奉るべし。福聚海無量、是故應頂礼。已上。
秩父三十四観音霊験圓通傳 巻五大尾
秩父三十四所の本縁は、古来より未嘗他方に出さず。毎寺深く秘し、厳に制す。然るに近世諸所に於て、偽造の縁起流布するを見る。幸に未板行せずと雖も、信心の男女是に依て疑惑を生ぜむ事を恐る。於此止事を得ず、郡中の現住に乞、悉く許可を得て梓に纏め不朽に垂る。不可有類版者也。為此加奥書畢ぬ。
延享元年甲子(1744)季春穀旦
明和三年丙戌(1657)暮春求版
秩父沙門圓宗選