福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

同じように正法を聞いても煩悩を断ずることができないものがいるのは何故か?

2019-07-07 | 諸経
「同じように正法を聞いても煩悩を断ずることができないものがいるのは何故か?」
「多聞だけでは仏法を体得することはできない。
例えば水に漂はされた人が溺死を恐れて渇死するようなもので,多聞もこれに等しい」

以下、華厳経・明難品・第七段段落「正行甚深」の項の和訳と原文。




 第七に、文殊菩薩は、法首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、仏のお言葉によれば仏法を聞くものは煩悩を断ずることができるというのに、衆生は同じように正法を聞いても煩悩を断ずることができないものがいる。彼らは何故、婬・怒・痴・慢・愛・忿・慳嫉・恨・諂曲の心に随うのか?この諸々の煩悩は心を離れないものであるのでもし心の働きをなくすれば煩悩を断つことができるのではないか?しかし仏法を聞いて心を働せて煩悩を断ずる、というならば矛盾するが如何。」

 そのとき、法首菩薩は、つぎのように答える。
「仏子よ、ただ多聞だけでは仏法を体得することはできない。
例えば水に漂はされた人が溺死を恐れて渇死するようなもので,多聞もこれに等しい。

 たとえば、山海の珍味を出されても、口にしなければ餓死するように、多聞のものもまた、それとおなじである。
 また、良医が具に良薬を知っていてもみずから病んで救うことができないように、多聞のものもまた、それとおなじである。
 また、まずしいひとが、日夜他人のたからをかぞえても、みずから半銭のもちあわせもないように、多聞ものもまた、それとおなじである。
無量の楽しみを受くべき帝王の子が業障のために貧苦なるが如く、多聞のものもまたおなじ。
 また、盲聾の人が昔習った通りに絵をかいて他人に示してもみずからはみることができないように、多聞のものもまたおなじ。
海の船頭が他人を渡しながら自分は渡さないように、多聞のものもまたおなじ。
人が大衆の前で立派なことを説きながら自らは徳がない人のように、多聞のものもまたおなじ。」

(華厳経・明難品・第七段正行甚深について
爾時、文殊師利は法首菩薩に問うて言く、「佛子よ、佛の所説の如く、法を聞受する者は能く煩惱を断ずるに、云何が衆生は等しく正法を聞きて而も斷ずること能わざるや。婬怒癡に随ひ、慢に随ひ、愛に隨ひ、忿に隨ひ、慳嫉に随ひ、恨に随ひ、諂曲に随ふや。是の諸の垢法は悉く心を離れず。心無所行なれば能く結使を断ぜん。」

爾時、法首菩薩は偈を以て答て曰く、
「 佛子よ、善く諦聽せよ。 所問の如實義は
但だ多聞を積むのみにて 能く如來の法に入ること能はず。
譬ば人の、水に漂され溺んことを懼て而も渇して死する如く、 如説に行ずること能はず。 多聞も亦た如是なり。
譬ば人の大に種種諸の肴膳を惠施さるるも
不食にて自ら餓死するが如く、 多聞も亦た如是なり。
譬ば良醫有りて 具に諸方藥を知るも 自ら疾みて救うこと能ざるが如し。 多聞も亦た如是なり。
譬ば貧窮人の 日夜他寶を數るも
自らは半錢分も無きが如し 多聞も亦た如是なり。
譬ば帝王子の 應に極み無き樂を受るべきも
業障の故に貧苦なるが如く 多聞も亦た如是なり。
譬ば聾聵人の 善く諸音聲を奏して彼を悦しむるも自らは聞かざるが如く 多聞も亦た如是なり。
譬ば盲瞽人の 本と習しが故に能く畫きて彼に示すも自らは見ざるが如く 多聞も亦た如是なり。
譬ば海の導師の 能く無量の衆を渡し彼をすくふも自らは濟はざるが如し。 多聞も亦た如是なり。
譬ば人の大衆に処して 善く勝妙の事を説けども
内に自らは實徳無きが如く 多聞も亦た如是なり。」

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