「仏子よ、衆生は、如来の教え(経典)により煩悩を断ずるのか、修行により(色受想行識、欲界・色界・無色界の癡愛を知りて)煩悩を断ずるのか。修行に依るのならば経典は意味がないのか。」
「無量の過悪を除こうとするならばつねに勇猛に、大精進をすべきである。教えを聞いても大精進しないものは解脱できない。」
以下、華厳経・明難品・第六段落「正教甚深」の項の和訳と原文。
文殊菩薩は、進首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、衆生は、如来の教え(経典)により煩悩を断ずるのか、修行により(色受想行識、欲界・色界・無色界の癡愛を知りて)煩悩を断ずるのか。修行に依るのならば経典は意味がないのか。」
そのとき、進首菩薩はつぎのように答える。
「仏子よ、よくおききなさい。わたしは真実の意味を説こう。衆生には、すみやかに解脱するものもあれば、できないものもある。もし、無量の過悪を除こうとするならばつねに勇猛に、大精進をすべきである。
たとえば、幽かな火は薪が湿っていると消えてしまうように、仏法の教えを受けても懈怠のものもまた、それとおなじである。
また、木を摺合わせて火をおこす場合に、たびたび休息すると、火勢はおとろえて、ついに消えてしまうように、懈怠のものもまたそれとおなじである。
珠で日光を集めても焦点に物を置かなければ火をつけることは出来ないように、懈怠の者もそれに等しい。
また、目をとじて物をみようとしても見えないように、懈怠のものが仏法をもとめる場合も、それとおなじである。
人が手足を用いないで大地を射抜こうとしても出来ないように懈怠の者もそれに等しい。
大海の水を一すじの毛で汲みつくそうとするようなもので、仏の教法のなかで懈怠する者もそれと等しい。
火劫が起こっても少しの水で消そうとするように懈怠の者もそれに等しい。
人が虚空を見て自分の身が虚空に満ちているというようなもので仏の教法の中で懈怠の者もそれに等しい。」
(原文・華厳経明難品・第六段落・正教甚深
爾時、文殊師利は進首菩薩に問うて言く、「佛子よ、衆生は如來の教を見て諸の煩惱を断ずると為す耶。色・受・想・行・識、欲界・色界・無色界の癡愛を知りて諸の煩惱を断ずと為す耶。若し色・受・想・行・識、欲界・色界・無色界の癡愛を知りて諸の煩惱を断ぜば、如來の教法は何の増損する所やある。」
爾時、進首菩薩は偈を以て答て曰く、
「 佛子よ善く諦聽せよ。 我如實義を説ん。
或は速に出要する有り、 或は難解脱あり。
若は無量の諸過惡を除滅せんことを求め欲せば
應當に一切時に 勇猛大精進すべし。
譬ば微小なる火は樵まき濕ふときは則ち能く滅するが如く、 佛の教法中において 懈怠の者も亦た然り。
譬ば人の火を鑚るに 未だ出ざるに數しばしば休 息せば火勢隨って止滅するが如く 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば淨き火珠も 縁を離れて而も火を求めば
畢竟不可得なるが如く、 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば明淨なる日を 閉目して色を見んと求むるが如く、佛の教法中における 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば人の手足無くして 大地を射過んと欲するも
永く彼の意に從ざるが如く 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば大海水を 一毛を以て汲み盡さんと求るが如 く
佛の教法中における懈怠の者も亦た然なり。
譬ば火劫の起るに 少水を以て滅せんと欲するが如く佛の教法中に於ける 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば人の虚空を見て 便ち我身滿りと言んが如く
佛の教法中における 懈怠の者も亦た然り。」
「無量の過悪を除こうとするならばつねに勇猛に、大精進をすべきである。教えを聞いても大精進しないものは解脱できない。」
以下、華厳経・明難品・第六段落「正教甚深」の項の和訳と原文。
文殊菩薩は、進首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、衆生は、如来の教え(経典)により煩悩を断ずるのか、修行により(色受想行識、欲界・色界・無色界の癡愛を知りて)煩悩を断ずるのか。修行に依るのならば経典は意味がないのか。」
そのとき、進首菩薩はつぎのように答える。
「仏子よ、よくおききなさい。わたしは真実の意味を説こう。衆生には、すみやかに解脱するものもあれば、できないものもある。もし、無量の過悪を除こうとするならばつねに勇猛に、大精進をすべきである。
たとえば、幽かな火は薪が湿っていると消えてしまうように、仏法の教えを受けても懈怠のものもまた、それとおなじである。
また、木を摺合わせて火をおこす場合に、たびたび休息すると、火勢はおとろえて、ついに消えてしまうように、懈怠のものもまたそれとおなじである。
珠で日光を集めても焦点に物を置かなければ火をつけることは出来ないように、懈怠の者もそれに等しい。
また、目をとじて物をみようとしても見えないように、懈怠のものが仏法をもとめる場合も、それとおなじである。
人が手足を用いないで大地を射抜こうとしても出来ないように懈怠の者もそれに等しい。
大海の水を一すじの毛で汲みつくそうとするようなもので、仏の教法のなかで懈怠する者もそれと等しい。
火劫が起こっても少しの水で消そうとするように懈怠の者もそれに等しい。
人が虚空を見て自分の身が虚空に満ちているというようなもので仏の教法の中で懈怠の者もそれに等しい。」
(原文・華厳経明難品・第六段落・正教甚深
爾時、文殊師利は進首菩薩に問うて言く、「佛子よ、衆生は如來の教を見て諸の煩惱を断ずると為す耶。色・受・想・行・識、欲界・色界・無色界の癡愛を知りて諸の煩惱を断ずと為す耶。若し色・受・想・行・識、欲界・色界・無色界の癡愛を知りて諸の煩惱を断ぜば、如來の教法は何の増損する所やある。」
爾時、進首菩薩は偈を以て答て曰く、
「 佛子よ善く諦聽せよ。 我如實義を説ん。
或は速に出要する有り、 或は難解脱あり。
若は無量の諸過惡を除滅せんことを求め欲せば
應當に一切時に 勇猛大精進すべし。
譬ば微小なる火は樵まき濕ふときは則ち能く滅するが如く、 佛の教法中において 懈怠の者も亦た然り。
譬ば人の火を鑚るに 未だ出ざるに數しばしば休 息せば火勢隨って止滅するが如く 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば淨き火珠も 縁を離れて而も火を求めば
畢竟不可得なるが如く、 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば明淨なる日を 閉目して色を見んと求むるが如く、佛の教法中における 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば人の手足無くして 大地を射過んと欲するも
永く彼の意に從ざるが如く 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば大海水を 一毛を以て汲み盡さんと求るが如 く
佛の教法中における懈怠の者も亦た然なり。
譬ば火劫の起るに 少水を以て滅せんと欲するが如く佛の教法中に於ける 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば人の虚空を見て 便ち我身滿りと言んが如く
佛の教法中における 懈怠の者も亦た然り。」