孫がこんなに愛おしいものとは初めて知りました。『なんでこんなにかわいいのか、孫という名の宝物・・』という歌がありましたがまさにその通りの気持ちです。団塊世代が孫を持つようになって一挙に孫ブームとなったのでしょう、最近では「孫の力」という雑誌まで現れています。柳田国男は「妹の力」で女性の持つ巫女性・神秘性を説きましたが孫の寝顔に見入っていると、まさに孫にもこの神秘な「孫の力」があるような気がしてきます。
山上憶良に有名な「子等を思ふ歌一首 」というのがあり、 「釋迦如来金口、正に説きたまへらく、等しく衆生を思ふこと、羅睺羅の如しと。また説きたまへらく、愛は子に過ぐること無しと。至極の大聖すら、子を愛しむ心有り。まして世間の蒼生(あをひとぐさ)、誰か子を愛しまざらめや。
瓜食はめば 子ども思ほゆ 栗食はめば まして偲はゆ いづくより 来たりしものぞ 眼交ひに もとなかかりて 安眠し寝さぬ
反歌
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝 子にしかめやも」と詠っています。これを孫に当てはめてもぴったりという気がします。
しかしここで仏教ではこういう渇愛といわれるものは克服さるべき心とされているのではないかと心配になります。たとえば倶舎論では「愛に二種あり。一は有染門、二は無染門なり。有染の愛とは謂はく貧なり。妻子等を愛するが如く、無染の愛とは謂はく信なり。師長等を愛するが如し。(倶舎論巻第四)」とあり、大宝積経では「在家の菩薩は自子の所においては応に極めて愛すべからず。・・菩薩の道は平等の心にて不平等の心に非ず。・・応にこの観をなすべし、我はことなるところより来たり、子も異なるところより来たれり。なにをもってのゆえぞ、一切の衆生は曾って我が子なり、我もまた是れ彼の諸々の衆生の子たり。・・(大宝積経巻第八十二)」とあります。要は子「煩悩」といわれるように子を思う心は煩悩であるといっているのです。ただこれは他の子供と区別して我が子のみを可愛いとする心を言ったものであり、これを普遍化すれば煩悩とは言えないのではないかと思い経典を探しました。そもそもさきの山上憶良の歌の最初にも「釋迦如来金口、正に説きたまへらく、等しく衆生を思ふこと、羅睺羅の如しと」とあるくらいですから。
すると「央掘魔羅経」には「等しく衆生をみること羅睺羅の如しと」あり、大乗本生心地観経には「衆生を憐愍すること羅睺羅の如しと」あり、金光明経にも「衆生を愛するに偏愛なきこと羅睺羅の如し」「救護せんとして慈のこころを運んで等しく衆生を視そなわすこと一子の如し」維摩経には「一切衆生を視ること母の子を愛するがごとく」とあり、法華経譬喩品にも有名な「今、この三界は、皆これ我が有なり、其の中の衆生は、悉くこれ吾が子なり、しかも今此処は多くの患難あり、唯だ我れひとりのみ、能く救護をなすなり」ということばがあります。仏典には要は差別して自分の子や孫のみを可愛いとする心を戒めているのであり、むしろ子や孫を可愛いとする心を一切衆生にも平等に及ぼしなさいというのがお経の趣旨でありました。
これらの経典を調べて安心して孫を可愛がることができると思うとともに、仏様の御心の有難さをしみじみと身近に感じることができるようになりました。仏様は実はこんなに自分達のことを親身になって心配してくださっていたのだということが自分の孫への愛情体験を通して皮膚感覚で感じられるようになりました。
我々はもったいないほど仏様から思われていたのです。
山上憶良に有名な「子等を思ふ歌一首 」というのがあり、 「釋迦如来金口、正に説きたまへらく、等しく衆生を思ふこと、羅睺羅の如しと。また説きたまへらく、愛は子に過ぐること無しと。至極の大聖すら、子を愛しむ心有り。まして世間の蒼生(あをひとぐさ)、誰か子を愛しまざらめや。
瓜食はめば 子ども思ほゆ 栗食はめば まして偲はゆ いづくより 来たりしものぞ 眼交ひに もとなかかりて 安眠し寝さぬ
反歌
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝 子にしかめやも」と詠っています。これを孫に当てはめてもぴったりという気がします。
しかしここで仏教ではこういう渇愛といわれるものは克服さるべき心とされているのではないかと心配になります。たとえば倶舎論では「愛に二種あり。一は有染門、二は無染門なり。有染の愛とは謂はく貧なり。妻子等を愛するが如く、無染の愛とは謂はく信なり。師長等を愛するが如し。(倶舎論巻第四)」とあり、大宝積経では「在家の菩薩は自子の所においては応に極めて愛すべからず。・・菩薩の道は平等の心にて不平等の心に非ず。・・応にこの観をなすべし、我はことなるところより来たり、子も異なるところより来たれり。なにをもってのゆえぞ、一切の衆生は曾って我が子なり、我もまた是れ彼の諸々の衆生の子たり。・・(大宝積経巻第八十二)」とあります。要は子「煩悩」といわれるように子を思う心は煩悩であるといっているのです。ただこれは他の子供と区別して我が子のみを可愛いとする心を言ったものであり、これを普遍化すれば煩悩とは言えないのではないかと思い経典を探しました。そもそもさきの山上憶良の歌の最初にも「釋迦如来金口、正に説きたまへらく、等しく衆生を思ふこと、羅睺羅の如しと」とあるくらいですから。
すると「央掘魔羅経」には「等しく衆生をみること羅睺羅の如しと」あり、大乗本生心地観経には「衆生を憐愍すること羅睺羅の如しと」あり、金光明経にも「衆生を愛するに偏愛なきこと羅睺羅の如し」「救護せんとして慈のこころを運んで等しく衆生を視そなわすこと一子の如し」維摩経には「一切衆生を視ること母の子を愛するがごとく」とあり、法華経譬喩品にも有名な「今、この三界は、皆これ我が有なり、其の中の衆生は、悉くこれ吾が子なり、しかも今此処は多くの患難あり、唯だ我れひとりのみ、能く救護をなすなり」ということばがあります。仏典には要は差別して自分の子や孫のみを可愛いとする心を戒めているのであり、むしろ子や孫を可愛いとする心を一切衆生にも平等に及ぼしなさいというのがお経の趣旨でありました。
これらの経典を調べて安心して孫を可愛がることができると思うとともに、仏様の御心の有難さをしみじみと身近に感じることができるようになりました。仏様は実はこんなに自分達のことを親身になって心配してくださっていたのだということが自分の孫への愛情体験を通して皮膚感覚で感じられるようになりました。
我々はもったいないほど仏様から思われていたのです。