第五六課 達人の病苦観
釈尊在世の昔、釈尊が滞在せられた毘耶離城びやりじょうに維摩詰ゆいまきつという偉い仏教の体得者がいました。その偉さにおいては釈尊に一目置くだけで、あとの十大弟子などは足元へも寄り付けません。しかし身分は俗士の資格で職業も執り、家庭も形造っていました。
ある日維摩は病気をしたので釈尊は弟子に命じて病気見舞にやられます。ところが維摩は右に述べたような仏教の体得者ですから自分の病苦ぐらいについては立派な心用意があり、今さら、他人から慰めを得る必要もありません。しかし釈尊の弟子ともあろうものが、ただ、形式の見舞いの使者つかいでは物足らなくあります。何か維摩の持っている病気に対する慰め以上の慰めを考えて行って彼に力をつけてやり、実みのある病気見舞をしなくてはなりません。そうなると維摩以上に人間が出来ている人物でなくてはなりません。それはそうでしょう。家庭の苦労に難くるしんでいる人に独身者の慰めはあまり力になりません。好意を感ずるだけであります。その苦労より以上の苦労をした人の一言こそ、得難き薬になるのであります。
そういうわけで十大弟子は自らその資格なしと知って、見舞いの使者を辞退しました。仕方がないので釈尊は文殊菩薩というのを呼び出して、これに使者を命じます。この文殊菩薩というのは実在の人物ではありません。智慧を人間に仕立てて舞台に引出して来た人物です。よくお経はこういうやり方をします。精神的のものに形を与え実在人物と並べて平気で一つ舞台に立たせるのです。それで仏教は迷信だとか、架空な事をいうとか非難されますが、叙述の舞台上の形そのままを信ずるのではありません。その形が含んでいる内容の意味を汲んで取るのです。そういう戯曲的の表現手段ではダンテの神曲でも、ゲーテのファウストでもみな同じことです。現代のバーナード・ショウのものでもよく観察すれば、この象徴手段が採り入れられてあります。一つの便利な文学的の手法です。
智慧の権化である文殊菩薩は、さすがに自信があるものかこれを引受けて出かけます。智慧の横綱文殊と体験の横綱維摩との立合い問答、これこそ見もの聞きものだというので十大弟子はじめ大勢、文殊について行きます。ここのところを天女散華という題で歌劇化して支那の名優梅蘭芳めいらんふぁんが得意の演じものにしています。とても美しいものです。仏教もなるだけ、本来の持つところの活々いきいきと輝かしいものを取り戻し、感覚にも快いものにしたいものです。
文殊と維摩と会いまして病気見舞に事寄せいろいろ人世に対する考え方、生活態度についての問答があります。維摩の説は要するに、この現実に生きている以上、広い包容力と強い浄化の力をもって、あらゆる価値を活いかして行く積極的の態度でなくては人間として役に立たない。誘惑が来たら誘惑に立向って行くだけの力を備えてはじめて現実の理想化が行える。堕落が来たら堕落のまっ只中に割って入り堕落を怖れぬ勇気あってはじめて現実の理想化が行える。誘惑に脅え、堕落に尻込みして、こそこそ逃げ廻って蔭で排斥の口叱言こごとをいってるようでは真に人世に忠実なるものとはいえない。つまらない小善主義を叱って大善主義を高唱するのであります。もちろん、そのためには強烈無比、高潔至極の大生命の光照を享け、その自由暢達な働きによって自己の全能率を総動員して行くのでありますが、この妙用はまた自己一心の性能にも備わっているのであります。そこで、この偉大な大善的働きの源をどうして発見し、自覚するかという問題になりますが、ここに維摩独特の「不二法門ふにほうもん」(道を求むる、二つとない肝心な体得の方法という事)というのが提唱されます。経にここのところをこう書いてあります。
ここにおいて文殊師利もんじゅしり、維摩詰ゆいまきつに問う。我ら各自みなみな説き自おわれり。仁者、まさに説くべし。何等なにをかこれ菩薩、入不二法門という。時に、維摩、黙然。文殊師利嘆じて曰く善哉善哉。これ真の入不二法門。
これでもってみると維摩は言葉でもって説明せずにその生命的活力の源を発するのは理屈や説明ではすでに廻り遠い。無念、無想、無我の心で自照てらし出す。これこそ心の当体だぞと実地のやり方で体験的に示したのであります。そこで文殊は感心して「善き哉」と讃めたのであります。支那の昔の人もこれを維摩の一黙いちもく雷らいのごとしなどと讃めております。
大生命の活きた力の取り出し方は、維摩に在ってはこうでありますが、他の人々に在っては思索するなり、仏を念ずるなり、題目を唱うるなり、坐禅なりいろいろありましょう。必ずしも維摩流に限ったことでもありません。
以上つい、うかうかと維摩の話をしてしまいましたが、肝心の話は私たちがもし病苦に攻められたとき、どう自分で慰めたらいいかという問題であります。維摩は経の中の問疾品もんしつぽんにおいて、文殊の問いに答えて、
衆生病む、故にわれ病む。
と答えております。これは維摩詰が仏陀の自覚に立っていう言葉で、宇宙の大生命は一体のものである。その生命の一箇所の衆生が病めば全体生命の自覚に立つところの仏陀が病んだことになるのは当然であります。故に自分が身代りになって病気をします。仏陀にとっては衆生は自分の身体も同然だからであります。
しかし、この考え方はあまり大き過ぎて早速私たち普通人には間に合いかねます。人々みな仏性を持っている以上、そう自覚する資格はあるのですが、ちょっといま、差当り、その気には大胆になれません。そこで、この意味をもう少し程度を低めて普通の実用程度に解釈したいのです。
それは、病苦というものは、その犠牲を払うことにおいて何らか周囲に利益を与えておるのだと考えることです。
事実、腫物などというものは黴菌が体内へ入って来たのを血液内の白血球が食い止めてともに刺し違えて死んだ筋肉上の塚ですから、肉体の他の部分にとっては感謝すべき無名戦士セネタフの墓です。
また、熱だの痛みなどというものも肉体が不健康状態に陥ったとき、それを知らせる肉体機構の妙用で、いわば警報器です。
私たちは、種痘や、チブスの血清注射によって一部の肉体の犠牲を、故意に要求し、全肉体の健康の冒されるのを防ぐ方法さえ講ずることがあります。
これによって、これを見るに、只今の病苦も何らか犠牲的、利他的の意味があるものと思いこれを忍ばねばなりません。「衆生病む、故にわれ病む」であります。自分に不健康状態があるによってそれに代ってこの病苦が引受けて悩んでくれるとこう考えるのであります。病苦を憎まず、素直に療法、介抱するところに早い恢復があります。
家庭の一員としては、家族の代りに自分が病を引受けているという敬虔な気持ちが必要です。その気持ちからどんなに病人の慎ましさや家族愛が生れることでしょう。
「物は考えよう」と世間のことわざにもいいます。まして生命の不思議は心の持ち方で必ず形を変えて来ます。価値的に考えるに如しくはありません。
但し、心の持ち方に信頼するとて医者の手当を怠っては何にもなりません。それほど犠牲的なことをしてくれる病いであるが故に、あらゆる文化的の手を尽して早くその苦悩を取り除けてやろう。これは当然の人情であります。医者にもかからずわざと病気を重くするようなことをするのは、自分の身体にみすみす犠牲を強いるものであります。それこそ愚の骨頂であります。
(正法眼蔵随問記に病気の修行僧が修業を止めて療養に専念したいというと、道元さんはどうせ皆死ぬのであるから、修業して不病になれと諭すところがあります。「示に云ク、有ル人の云ク、「我レ病者なり、非器なり、学道にたへず。法門の最要をききて、独住隠居して、性をやしなひ、病をたすけて、一生を終へん。」と云フに、示に云ク、先聖必ズしも金骨にあらず、古人豈皆上器ならんや。滅後を思へば幾ばくならず。在世を考フるに人皆俊なるにあらず。善人もあり、悪人もあり。比丘衆の中に不可思議の悪行するもあり、最下品の器量もあり。然れども、卑下して道心をおこさず、非器なりといツて学道せざるなし。今生もし学道修行せずは、何れの生にか器量の物となり、不病の者とならん。ただ身命をかへりみず発心修行する、学道の最要なり。」なんとも小気味の良いお諭です。
そうはいってもなんの罪もない幼子が闘病生活を送っているのを見るのは忍びません。以前ボランチアをしていた慈恵医大にも病気の子供たちがいました。不敏で仕方ありません。こういうときどう考えたらいいのでしょうか。聖路加病院小児科部長の細谷亮太氏も新聞に「足の説段、失明、多くの喪失の末、息を引き取っていく子供たち。病理解剖は身を引きちぎられるほど切ない。・・・さようならした200人の子供たちの名簿をリュックに背負い、毎年四国遍路に。山中風が吹くと子供たちの笑い声が聞こえる。おっ来たなあ、と嬉しくなる。」と書いていました。20年ころ四国遍路で九州の病院のレントゲン技師と出会ったことがありますが、このかたも「癌でレントゲンを受ける子供たちが不敏で仕方なかった。しかし四国を回っている間にこの子たちは実は仏様の仕事をしているのだとわかった。」といいました。かの子のここの記事「病苦も何らか犠牲的、利他的の意味がある」とまったく同じことを言ったのです。)