密教大辞典に以下のようにありました。「越三昧耶に二意あり。一は三昧耶の境界を軽んずる罪。二には三昧耶に違越する罪。真言家にはこれを越法罪といい、行者の第一の重罪として特に誡むる所なり。
一の三昧耶の境界を軽んずる罪とは未灌頂の者に灌頂の大事を明かし、諸尊の内証を談じ、印言の秘義を説き、或いは悲器の者に灌頂を許し師傳を受けずして又瑜伽を成せずして妄りに曼荼羅を造立し、阿闍梨の印可を得ずして濫りに聖教口訣等を繙き、法則に背きて法を行ずるが如き非法の罪を云う。・・
二に三昧耶に違越する罪とは、仏心の境界を違う罪なり。越とは「たがふ」と訓ず。三昧耶は平等・本誓・除障・驚覚の四義を有す。この四義は仏心の境界を示す。三昧耶を証得する時は即身に成仏することを得、故に三昧耶に違越せばその罪五逆罪よりも重し。大疏に広くこの四義について越三昧耶の義を説けり」。以下大日経疏、
「衆生に於いて諸法の中に種々不平等の見を作すは則ち三昧耶の法を越ゆ。若し此の平等誓の中に於いて種々限量の心を作すも亦三昧耶の法を越ゆ。あらゆる所作世間の名利に随順して大事の因縁の為にならざるも亦三昧耶の法を越ゆ。放逸懈怠にして其の心を警悟する能ざるも亦三昧耶の法を越ゆ。( 大毘盧遮那成佛經疏卷第九入漫荼羅具縁品第二之餘)。
ここでいう「平等」とは我々が日々悩んでいる世俗的皮相的平等ではなく「法(真理)」の下の平等つまり本質的平等とでもいうべきものを指すことは我々が修法する「四無量観」にある通りです。物理的世界でも「時間」「日光」などは総ての存在に平等に与えられています。
「月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ」(法然上人)という歌も思い出します。