福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

叡尊上人が神風を吹かせた時の記録文書です

2024-08-16 | 法話

異国襲来祈祷注録

一つ、文永元年七月八日。異国の難を防ぐ為、大将軍中務卿宗尊親王、二四歳にして立花洛、壱岐対馬に発向、その軍勢十万騎也。同八月四日壱岐対馬下着也。同八月五日異国降伏の祈祷の為、西大寺に勅使下向これあり。其の宣旨に偁(いう)「天王寺、教興寺の両寺は同時建立の大伽藍、我が朝仏法最初の寺院、よって代々の帝、本朝呉朝異なるといえども朝敵降伏の霊地となす。昔孝謙天皇以来、異国襲来のときは、必ず両寺に行幸あり、仁王大会を行ぜられ、即ち異賊退散す。いま旧例に任せ、亀山院四天王寺教興寺に御幸これあり。八月六日於いて天王寺金堂百坐仁王大会を修せらる。導師は西大寺思円上人、共奉僧百余人也、同七日教興寺に御幸これあり。次八日、講堂千手寶前露地において仁王大会を行ぜらる。この夜威刻大船百余隻破損の由。壱岐対馬より注進これあり。文永元年八月二八日注進の状帝都上着云々。宗尊卿云々。天下安全御祈祷成就の上は両寺本尊の威光ここに異なる也。西大寺上人の面目、一天四海仰ぐこと生身佛の如し。
弘安四年秋七月廿日、異賊調伏祈祷のこと。伏見院御宇勅使光泰卿、南都西大寺下向再三なり。宣旨状に納めらる。同七月廿七日、異賊の船すでに九州大宰府博多金津に入る由注進これあり。同廿八日西大寺思圓上人、勅により教興寺に御下向、次廿九日講堂千手宝前において百坐第仁王会を行ぜらる。即ち坐して千手千眼経御講の時、この経の「陀羅尼神妙章句、外國怨敵即自降伏。各還政治不相擾惱云々」この文句三辺誦の時、四天王同様、千手面目放光のこと、半時の間の御講経おわり本尊光止みたまひぬ。その時貴賤渇仰いたし歎ずること未曾有也云々。

一つ、同晦日に男山八幡宮に参籠、叡尊上人の供奉僧侶八百人余人、同閏七月一日、毎日二時、八百坐仁王講これを行ぜらる。夜分の間、七壇の護摩勤修の間なり。その御修法次第は

愛染明王法。尊勝法。思圓上人。伴僧一豅長禅坊、随覚坊。惣合百人。尊勝陀羅尼千遍。愛染明王大呪一万遍。不動明王法、本照房、伴僧智性房、同七十人。三種呪各千遍。軍荼
利明王法、慈道房。伴僧圓智房同七拾人。大呪三千遍。降三世明王法、興道房、伴僧浄願房、同七十人。大呪三千遍。大威徳法、双圓房。伴僧律道房。同七十人。大呪三千遍。金剛夜叉明王、日浄房、伴僧観玄房、同七十人。大呪三千反。伴僧他三百余人僧侶、仁王経、大般若經。七夜間遍数を限らずこれを誦す。道俗ともに大呪を同音にこれを誦間、山上山下誦の音天に響く云々。七ケ日夜満夜、戌の刻大菩薩玉殿大振動、御殿の御戸を開かれ、内よりいでて微妙の御音にてのたまはく、召新羅與候答。大菩薩重ねて仰せてのたまはく、思圓上人。数百人伴僧と共に異賊調伏の祈祷をおこなふも今夜満足す。異賊調伏のため、鏑矢を送るべし。」即ち御前に弓絃音天に響く。鏑目出光雷響の如し。西を指して飛行するなり。次に自社壇中に白色に輝く光幡三流飛び出す。西に向かって去ること鷹の如し。三流幡皆文字あり。第一流の幡には唯識三十頌。第二流の幡には妙法蓮華経。第三には大般涅槃經。この一一の文字は金色の光を放つ。またお山の振動更にやまず。神火数千万天地を照らす。山上山下社司神人貴賤万民、そのときの僧徒ことごとく歎ずること未曾有。不思議と称す。その座の公家武家、言語道断なりと舌を巻く。そのほか人民道俗等、南律の僧沙弥等、見聞し生身菩薩と輩称す。叡尊上人のことを時の人思圓佛と唱す。

一つ、宇佐八幡宮ご託宣のこと。異賊降伏の為、南京西大寺思圓上人.八百余人の僧徒を引率し、男山に参籠。七日七夜大經大法等種々修法行法これあり。すなわち春日、日吉、家身、総日本国中の大小神祇、只今大宰府博多金津に向かひたまひおわんぬ。異賊破滅の時刻、今夜の夜半なり。御託宣あり。その後神は上たまひぬ。注進これあり。

一つ、注進状にいう、神託畢る亥半、にわかに東方より雷電おこり、飛び去りて天暉大風吹き出す。大雨降る箏車軸の如し。波浪は山の立つがごとくして廿余丈。数万の船中振動すること雷の如し。其の数万船ともに打ちて破損し、船板くだけ失せる事一尺二尺二寸三寸処々散在す。異賊の滅亡は子の刻、船の破損は丑の刻なり。弘安四年閏七月九日注進。

一つ、その時の僧衆交名一巻幷修法録、以上三巻、男山八幡宮玉殿に奉納されおわんぬ。執筆僧瑜本照房。

一つ、かの大菩薩のご託宣にいわく、鏑矢を送るべし。即ち御前の弓絃天にひびき、鏑の目光を出すこと雷響のごとし。しかして西を指して飛行す云々。件の鏑矢は思圓上人年来ご持尊の愛染明王御執持の鏑矢なり。ゆえにいま彼の西大寺の愛染明王は鏑矢一もちたまへり云々。天下安寧、併せて明王の御威光ならびに興正菩薩の御信力、吾朝人民重恩わするべからざるなり。





弘安四年九月廿二日於教興寺為開末

     

         代之不審

         
         阿一記教興寺開山如 圓上人御筆



明応二年正月一六日於いて八幡大乗院摩尼珠坊

         之を寫す   実朝八々歳

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