福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

終戦の詔勅

2024-08-14 | 法話

終戦の詔勅には様々な人がかかわっていると思われますが山本玄峰老師と安岡正篤師がかかわっていることは明らかです。
終戦の詔勅の関係部分です。「抑々、帝国臣民の康寧を図り万邦共栄の楽を偕にするは、皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々措かざる所、・・・而も尚、交戦を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せむや。・・・朕は時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ(注1)、以て万世の為に太平を開かむと欲す(注2)。
・・・宜しく挙国一家子孫相伝へ、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念ひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操を鞏くし誓って国体の精華を発揚し、・・・
御名御璽
昭和二十年八月十四日」


・(注1)「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ」の部分、は全生庵・平井玄恭師がNHK心の時間で、稀代の禅僧山本玄峰老師の言葉であるとされています。「心の時間」の引用です。「・・結局、鈴木総理が四元さんを介しまして、「老師がご心配くださっておりました、いよいよ戦争終結をすることになりました」と言って、十二日ぐらいでしたね、書簡を松岡という青年が持って来られた。それに対する返事を老師が書かれて、そしてそれを拝見していますと、「いよいよ戦争終結することになって結構なことだ。しかしあなたの本当のご奉公はこれからであるから、まあ忍び難いをよく忍び、行じ難きをよく行じて、一つ身体に気を付けて、今後の日本の再建のために尽くして頂きたい」そういう手紙でございまして、それを四元さんを介して鈴木(総理)さんのところへ届けられたわけですね。それですから、四月に玄峰老師が、鈴木貫太郎大将に、「あなたがひとつ出て、大関らしくあっさり負けて、そして負けて勝つということを考えなさい」この言葉が非常に鈴木さんの力になり、頼りにしておられて、それを戦争終結を一刻も早く玄峰老師に知らせたい。そう思って老師のところへ寄越された使者だったんでしょうね。果たしてこの言葉が終戦の詔勅にそのまま使われたかどうか知りませんけれども、まあおそらくこれは鈴木さんにとっては、非常に意義の深い、感銘の深い言葉であり、それが影響したと言ってもいいと思いますね。この言葉は、玄峰老師が創られた言葉ではなくって、達磨さんの言葉に、「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、修行をせよ」という有名な言葉があるんです(注1-1)。それを引いて玄峰老師が手紙の一節に書かれたわけですね。・・」

注1-1)正法眼蔵・行持に、「初祖(達磨)、あはれみて、昧旦(まいたん、二祖慧可)にとふ、『汝、久しく雪中に立つて、当に何事をか求むる』。かくのごとくきくに、二祖(慧可)、悲涙ますますおとしていはく、《惟(ただ)願はくは和尚、慈悲をもて甘露門を開き、広く群品(ぐんぽん)を度すべし》。
 かくのごとくまうすに、初祖曰く、《諸仏無上の妙道は、曠劫に精勤(しようごん)して、行じがたきを能く行じ、忍び難きを能く忍ぶ、豈(あに)小徳小智、軽心慢心を以て、真乗を冀(ねが)はんとせん、徒労(いたずら)に勤苦(ごんく)ならん》。
 このとき、二祖ききて、いよいよ誨励(かいれい)す。ひそかに利刀をとりて、みずから左臂(さひ)を断て、置于師前(ちうしぜん)するに、初祖ちなみに、二祖これ法器なりとしりぬ。・・・」

注2)「万世の為に太平を開かむと欲す」のところについては、安岡正篤記念館名誉館長・林 繁之氏が「月刊『致知』1984年3月号」に次のようにのべられており、安岡正篤師の言葉であるといっておられます。
「・・私も師のお側にあって45、6年になるが、自分にその学問を語る資格はない。ここでは、人口に膾炙されている終戦の詔勅刪修について正確に記しておきたいと思う。
毎年8月15日、終戦の日が近づくと、マスコミはその秘話を語ってほしいと、先生に面会を求めて止まなかった。そのつど先生は決まって、

「“綸言りんげん・汗の如し”という。詔勅は、陛下のお言葉で絶対のものである。これがひとたび渙発されたなら、その起草にどういうことがあったかなど当事者が語ってはならない」
といって決して語ろうとはされなかった。その先生が、
「この詔勅には多少の誤伝があり、私が刪修したと語られるなら、私の学者として後世より問われる悔いも残るので、君たちだけには話しておく」
と、側近の者に一晩しみじみと語られたことがある。

先生はその刪修に当たって、「義命の存する所」と、「万世の為に太平を開かむと欲す」の二点を挿入されたほか、陛下の重いお言葉として文章についても手を入れられた。
「義命」については詔勅の中で、陛下が「堪へ難きを堪へ」よ、とおおせられておられる宸襟を拝察して、それにふさわしい天子としての重いお言葉がなくてはならない。そこで「義命」という言葉を選ばれた。

出典は中国の古典である『春秋左氏伝』。その中の成公八年の条に「信以て義を行い、義以て命を成す」とある。従って、普通にいわれる大義名分よりもっと厳粛な意味を持っている。
国の命運は義によって造られて行かねばならない。その義は列国との交誼においても、国民との治政においても信でなければならない。その道義の至上命令の示す所によって終戦の道を選ぶのである。
「万世の為に太平を開かむと欲す」も「永遠の平和を確保せむることを期す」より強く重々しい。これは宋初の碩学・張横渠の有名な格言「天地のために心を立て、生民の為に命を立て、往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く」からそのままとったものである。

いずれにしても先生は、終戦の詔勅の眼目は、「義命の存する所」と「万世の為に太平を開かむ」の二つにあると考えられた。
わが国は、何が故に戦いを収めようとしているのか、その真の意義を明確にしておかなければならない。

従って、内閣書記長官をしていた迫水氏には、どのような理由や差し障りがあっても、この二つの眼目は絶対に譲ってはならない、とくれぐれも念を押されたのだが、閣議の席で、閣僚から二つとも難しくて国民には分りにくいから変えてはとの意見が出されたのである。

結局、「義命の存する所」という一番の眼目を、「時運の趨く所」という最も低俗というより不思議な言葉に改められてしまった。これは永久にとりかえしのつかない、時の内閣の重大な責任といわねばならない。
「時運の趨く所」の意味はいってみれば成り行き任せ。終戦が成り行き任せで行われたということは、天皇道の本義に反する。時運はどうあれ、勝敗を超越して「義命」という両親の至上命令に従うことで、はじめて権威が立つのである。

戦後、日本は大きく繁栄した。しかしこの繁栄の基礎に、「信以て義を行い、義以て命を成す」。義命が存していたならば、物が栄えて心が亡ぶと識者が顰蹙するほど、人の心は荒廃せずに済んだであろう。・・・」

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