福本: 先ほどちょっと触れたんでございますが、終戦の詔勅の中に「忍び難きを忍び」という、あの言葉の本(もと)が老師のお手紙の中にあるという、この辺の話をちょっと聞かせて頂きたいんですが。
平井: これちょっと長くなるかも知れませんがね、四元義隆(よしもとよしたか)(右翼、実業家。元三幸建設工業社長。政界の指南役。血盟団のメンバーの一人。近衛文麿、鈴木貫太郎首相秘書を務め、戦後は政界の黒幕的な存在として歴代総理、特に中曽根康弘、細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された:1908-2004)と言われまして、現在でもそうでございますが、歴代の総理大臣のご意見役のような方がおられましてね、この方はもともと血盟団(けつめいだん)―東京大学を卒業されまして、昭和の初めに井上日召(いのうえにっしょう)という血盟団があった。それに荷担せられまして、十何年刑務所におられたんでしょうね。それで昭和十六、七年頃に出て来られて、そして龍沢寺へ来て玄峰老師の元で修行をしておられる。私、終戦当時、四元(よしもと)さんは近衛さんの非常に知遇を受けまして、翼賛壮年団の幹部をしておった。そして四元(よしもと)さんは何とかして早く戦争を終結しなくちゃいけない。その任にあたるのは誰がいいか、と思って、当時の重臣を個別に訪ねられたらしいですね。そうすると鈴木貫太郎(すずきかんたろう)(海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、爵位は男爵:1868-1948)さん以外にはない。枢密院(すうみついん)議長をしておられました鈴木貫太郎さんが一番適任であるということに気が付かれまして、まあ自分だけでは説得力がないので、それで玄峰老師に、「是非鈴木さんを総理大臣になって、戦争を終結するように勧めて貰いたい」と、そう言った。玄峰老師を鈴木さんのところへ案内して行かれたんですね。その時に玄峰老師が開口一番、「あなたは非常に正直な軍人であって、政治には向かないお方だけれども、もう今日のような時代には、あなたがお出(い)でにならなくちゃいけない。日本は相撲で言うならば大関みたいなものだ。負ける時には、サラッと負けて、もうことここに至っては、負けて勝つということを考えなくちゃいけない。負ける時にはさらっと大関らしく負けて、そしてその後の再建を考えなくちゃいけない。それにはあんたが一番適任であるから、どうしてもあなたが一つお出(い)でになって頂きたい」そう言って勧められたんですね。そういうと、どういう仕組みになっておりましたもんですか、一週間か十日の後に、鈴木貫太郎大将に大命降下(たいめいこうか)(大日本帝国憲法における憲法慣例の一つ。内閣及び内閣総理大臣の決定方法が明記されていない同憲法下において、天皇が元老や重臣会議などの推挙に基づいて、内閣総理大臣候補者に対して組閣を命じることである)しまして、総理大臣になられた。これは昭和二十年の四月頃の話ですね。そして八月の確か十二日頃であったと思いますが、朝雨の酷い日に、一人の青年が朝早く龍沢寺を訪ねて来ましてね―その当時、私は玄峰老師の侍者をしておったんですが、「是非玄峰老師に直接お会いしたい」と、そういうものですから、老師のところへ案内をしましたところが、老師は、早速手紙を書き出しましてね、「この人はすぐこれから東京へ帰らんならんから、朝早いけれども、朝飯を食べさしてあげてくれ」そう言って、老師は自分で手紙を―当時大事な手紙は老師は自分で書かれましたが、まあほとんど私や宗淵老師が代筆をしておりましてね。しかし老師は自分で手紙を書かれて、それまであまり自分の手紙を人に見せたことはなかったんですが、老師は、「これは非常に大事な手紙で、もしあまり字が間違ったり、文章の意が届かないと悪いから、お前、一度見直してくれ」と、そう言って私に見せられましてね。それで拝見してみますと、「忍び難きをよく忍び 行じ難きをよく行じ」という言葉がありました。話は前後しますが、これは結局、鈴木総理が四元さんを介しまして、「老師がご心配くださっておりました、いよいよ戦争終結をすることになりました」と言って、十二日ぐらいでしたね、書簡を松岡という青年が持って来られた。それに対する返事を老師が書かれて、そしてそれを拝見していますと、「いよいよ戦争終結することになって結構なことだ。しかしあなたの本当のご奉公はこれからであるから、まあ忍び難いをよく忍び、行じ難きをよく行じて、一つ身体に気を付けて、今後の日本の再建のために尽くして頂きたい」そういう手紙でございまして、それを四元さんを介して鈴木(総理)さんのところへ届けられたわけですね。それですから、四月に玄峰老師が、鈴木貫太郎大将に、「あなたがひとつ出て、大関らしくあっさり負けて、そして負けて勝つということを考えなさい」この言葉が非常に鈴木さんの力になり、頼りにしておられて、それを戦争終結を一刻も早く玄峰老師に知らせたい。そう思って老師のところへ寄越された使者だったんでしょうね。果たしてこの言葉が終戦の詔勅にそのまま使われたかどうか知りませんけれども、まあおそらくこれは鈴木さんにとっては、非常に意義の深い、感銘の深い言葉であり、それが影響したと言ってもいいと思いますね。この言葉は、玄峰老師が創られた言葉ではなくって、達磨さんの言葉に、「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、修行をせよ」という有名な言葉があるんです。それを引いて玄峰老師が手紙の一節に書かれたわけですね。これが巷間(こうかん)伝えられておるところですね。
平井: これちょっと長くなるかも知れませんがね、四元義隆(よしもとよしたか)(右翼、実業家。元三幸建設工業社長。政界の指南役。血盟団のメンバーの一人。近衛文麿、鈴木貫太郎首相秘書を務め、戦後は政界の黒幕的な存在として歴代総理、特に中曽根康弘、細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された:1908-2004)と言われまして、現在でもそうでございますが、歴代の総理大臣のご意見役のような方がおられましてね、この方はもともと血盟団(けつめいだん)―東京大学を卒業されまして、昭和の初めに井上日召(いのうえにっしょう)という血盟団があった。それに荷担せられまして、十何年刑務所におられたんでしょうね。それで昭和十六、七年頃に出て来られて、そして龍沢寺へ来て玄峰老師の元で修行をしておられる。私、終戦当時、四元(よしもと)さんは近衛さんの非常に知遇を受けまして、翼賛壮年団の幹部をしておった。そして四元(よしもと)さんは何とかして早く戦争を終結しなくちゃいけない。その任にあたるのは誰がいいか、と思って、当時の重臣を個別に訪ねられたらしいですね。そうすると鈴木貫太郎(すずきかんたろう)(海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、爵位は男爵:1868-1948)さん以外にはない。枢密院(すうみついん)議長をしておられました鈴木貫太郎さんが一番適任であるということに気が付かれまして、まあ自分だけでは説得力がないので、それで玄峰老師に、「是非鈴木さんを総理大臣になって、戦争を終結するように勧めて貰いたい」と、そう言った。玄峰老師を鈴木さんのところへ案内して行かれたんですね。その時に玄峰老師が開口一番、「あなたは非常に正直な軍人であって、政治には向かないお方だけれども、もう今日のような時代には、あなたがお出(い)でにならなくちゃいけない。日本は相撲で言うならば大関みたいなものだ。負ける時には、サラッと負けて、もうことここに至っては、負けて勝つということを考えなくちゃいけない。負ける時にはさらっと大関らしく負けて、そしてその後の再建を考えなくちゃいけない。それにはあんたが一番適任であるから、どうしてもあなたが一つお出(い)でになって頂きたい」そう言って勧められたんですね。そういうと、どういう仕組みになっておりましたもんですか、一週間か十日の後に、鈴木貫太郎大将に大命降下(たいめいこうか)(大日本帝国憲法における憲法慣例の一つ。内閣及び内閣総理大臣の決定方法が明記されていない同憲法下において、天皇が元老や重臣会議などの推挙に基づいて、内閣総理大臣候補者に対して組閣を命じることである)しまして、総理大臣になられた。これは昭和二十年の四月頃の話ですね。そして八月の確か十二日頃であったと思いますが、朝雨の酷い日に、一人の青年が朝早く龍沢寺を訪ねて来ましてね―その当時、私は玄峰老師の侍者をしておったんですが、「是非玄峰老師に直接お会いしたい」と、そういうものですから、老師のところへ案内をしましたところが、老師は、早速手紙を書き出しましてね、「この人はすぐこれから東京へ帰らんならんから、朝早いけれども、朝飯を食べさしてあげてくれ」そう言って、老師は自分で手紙を―当時大事な手紙は老師は自分で書かれましたが、まあほとんど私や宗淵老師が代筆をしておりましてね。しかし老師は自分で手紙を書かれて、それまであまり自分の手紙を人に見せたことはなかったんですが、老師は、「これは非常に大事な手紙で、もしあまり字が間違ったり、文章の意が届かないと悪いから、お前、一度見直してくれ」と、そう言って私に見せられましてね。それで拝見してみますと、「忍び難きをよく忍び 行じ難きをよく行じ」という言葉がありました。話は前後しますが、これは結局、鈴木総理が四元さんを介しまして、「老師がご心配くださっておりました、いよいよ戦争終結をすることになりました」と言って、十二日ぐらいでしたね、書簡を松岡という青年が持って来られた。それに対する返事を老師が書かれて、そしてそれを拝見していますと、「いよいよ戦争終結することになって結構なことだ。しかしあなたの本当のご奉公はこれからであるから、まあ忍び難いをよく忍び、行じ難きをよく行じて、一つ身体に気を付けて、今後の日本の再建のために尽くして頂きたい」そういう手紙でございまして、それを四元さんを介して鈴木(総理)さんのところへ届けられたわけですね。それですから、四月に玄峰老師が、鈴木貫太郎大将に、「あなたがひとつ出て、大関らしくあっさり負けて、そして負けて勝つということを考えなさい」この言葉が非常に鈴木さんの力になり、頼りにしておられて、それを戦争終結を一刻も早く玄峰老師に知らせたい。そう思って老師のところへ寄越された使者だったんでしょうね。果たしてこの言葉が終戦の詔勅にそのまま使われたかどうか知りませんけれども、まあおそらくこれは鈴木さんにとっては、非常に意義の深い、感銘の深い言葉であり、それが影響したと言ってもいいと思いますね。この言葉は、玄峰老師が創られた言葉ではなくって、達磨さんの言葉に、「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、修行をせよ」という有名な言葉があるんです。それを引いて玄峰老師が手紙の一節に書かれたわけですね。これが巷間(こうかん)伝えられておるところですね。