福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

秘密安心往生要集・・1/42

2021-06-01 | 諸経
秘密安心往生要集(蓮體上人著。密教辞典によると著者蓮體上人は浄厳の甥で寛文3年(1663)河内の上田氏に生まれ、浄厳に従って出家、安祥寺流印可を受け、河内延命寺で具足戒を受け元禄4年浄厳が江戸に霊厳寺を開くとそれに従い、元禄7(1694)安流の正嫡となる。元禄15年浄厳寂後延命寺第二世。江戸・中国・四国に広く巡錫布教。著は弘法大師和讃、礦石集、真言開庫集、秘密安心往生要集、観自在菩薩冥応集、役行者霊験記、毘沙門天秘蔵霊験記等。享保11年(1726)8月22日寂。64歳
(叙)
炎旱日久して桂華未だ薫(にほは)ず。蟋蟀の聲悲しき夕べ、一人の翁来り訛たる音して曰く『愚老は遠と鄙の者、仏法の名字をも知らざる業人なり。和尚の徳風を聞きて参りたり。我が心の闇を晴らし、後世助かる法門を授け玉へ』と。予、問く『汝は何国の人ぞ。年は幾許ぞや 』。翁の曰く『国の名は恐れあり。歳は六十六歳なり。事長く慙しけれど懺悔話を聞き玉へ、某乙は幼少にして父母に離れ、兄弟五人の中に季の子なれば親の譲りとては一銭も無かりしを、一生辛苦して二万両の分限に成り、子供七人有りて、わが国にては大福長者と呼ばれて、諸人羨めり。然るに如何なる過去の業障にか、この頃様々の災難起こり、七人の子供、六人は死して、中にも秋の紅葉なる馬鹿め一人残り、妻も孫子も去年八月に死せり。剰さへ賃金して万両餘の損金あり。是さへ悲しきに當春火災に逢ひ家財衣類悉く焼亡して今は一の柴部屋の残りたるを繕ひ住せり。是ばかりかや、冑子(そうりょう)は智慧さかしく父母には孝あり、学問を好み芸能何れか他人に劣れることなかりし故に、国主より郡の触頭を仰せつけられ、諸人の重んずること並びなかりしに、三十三にして逝きぬれば役をも召し離れたる。残りし空虚(うつそり)めは、伊呂波をも書き得ず、癡獃(たくら)の癖に強力任侠して酒色に耽り、悪友を誘ひ、此の老父が愁の中をも顧みず、春より以来博奕して五百両輸(まけ)、あげくには人を殺しければ終には頭を刎ねられぬ。腹がたつやら悔しいやら悲しいやら、悶極として家にも居られねば責めては妻子の菩提の為に高野へ参らんと思立ち国を出たり。嗚呼是は何の報ぞや』とて水精の数珠の切れたるが如き涙をはらはらと零す。予、問く『汝は何宗ぞ。名をば何と號するぞ』。翁涙を揮ふて曰く『代々禅宗にて亡父が名をば立花宗三と號せしに依りて、某乙は二三と付きて候。十五年已前に嫡子に家督を譲り剃髪すといへども、妻もあり肉食をも断たず。本の六右衛門と少しも違目なければ、二三にて候。さて剃りたれば徳多し。先ず袴肩衣を著するむつ゛かしめなく費なく。一つの編綴にて一代すみ、其の上公儀へ出ることも無く村中集会の時は上座に坐し、夫人足にも名代を出して安楽なれば全く利勘の俗入なり。生得文盲なれば今般七難に遇ひ檀那寺に往きて法を問へば、父母未生以前、鐵牛喫盡欄邊の草、など申さるれども、一も合点参らず。一倍心気労瘵の基なり。このごろ田舎にて金壺集と題せる書の在りけるを是は金持ことの教かと思ひ、披閲るに和尚の撰述。愚迷を暁し玉ふ書なれば、ありがたく思ひ、自他の菩提の為に毎日光明真言三千遍の日課懈怠なし。願くあh安心決定臨終正念の用心等委く説き示し玉へ』と。予が曰く『汝の種々の災難に逢へるは皆過去の殺生偸盗慳貪放逸の報ひなり。今生に能く勤め励まさずんば未来永劫地獄を免るることあたはじ』と、種々に教化しぬれば翁感涙を流して三帰五戒を受けて、浄分の伊蒲塞となり、食肉五辛戒等は盡未来際を期し、大金剛輪陀羅尼、光明真言、阿弥陀の大呪小呪、弥勒菩薩、地蔵菩薩不動等の真言を授かり,血脈を稟て大いに喜び、今は胸中の闇晴れて今夜の月の圓輝晴朗なるに異ならず。決定して未来には兜率の内院に往生して不退転の位に到り仏と共に華林國那伽補瑟波の春の花盛りに開るを見んとて顔色怡悦して帰りぬ。因て其の始終の法話を記して秘密安心往生要集と名く。唯邊鄙愚蒙の俗尼女の為にするのみ。豈中華才智の人に挙似せんや。旹に享保三年は八月十五夜。河南九華山六隠士蓮體書す
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日は一粒万倍日 | トップ | 今日と明日ダライ・ラマ法王... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

諸経」カテゴリの最新記事