「唯識のすすめー仏教の深層心理(岡野守也)」で集合的無意識を取り上げています。
「・・・さらにユングでは集合的無意識のレベルまで含んだ無意識と意識の統合による自己実現・個性化が目指されていますが、これはつながり・かかわりを他者や民族といったレベルまで深め、広げていく視点だとみることができますから、有る意味では宇宙意識のレベルに達しているといっていいでしょう。さらに「空」のレベルにも近ずいていると思います。
しかしやはりふつうにいう自我よりははるかに広く深いレベルではあるにしても、ある種他との分離性が残った自己のところまでといっていいと思います。・・・
「空」は決して仏教の教義を信じている人にだけ通用するような思想・イデオロギーではありません。・・・普遍的事実を非常に的確に自覚認識して言葉にしたものが「空」の思想です。・・・
教えられて、しかし自分自身の目でみると心自体、世界とつながって一つであり、心の奥底にはその事実に目覚めることのできるレベル・領域がある。あるいは「空」そのものと一つであるといえるようなレベル・領域がある。それは実に納得できる、何の不思議もないことだと実感するのです。・・・
私たち普通の人間の日常生活は、煩悩の種子が意識からマナ識、阿頼耶識、と経過して、また阿頼耶識からマナ識、意識と悪循環している。にも拘らず、悟りの種子を意識から入れて阿頼耶識に薫習することができる。よい循環に転換することによってすこしずつ悟りに向かって進歩していく。そういうことが可能なのです。・・・」
(注釈です。・・・唯識ではあらゆる諸存在が、八種類の識によって成り立っているとする。八種類の識とは、眼・耳・鼻・舌・身・意識と二層の無意識つまり末那識と阿頼耶識である。これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。)
「・・・さらにユングでは集合的無意識のレベルまで含んだ無意識と意識の統合による自己実現・個性化が目指されていますが、これはつながり・かかわりを他者や民族といったレベルまで深め、広げていく視点だとみることができますから、有る意味では宇宙意識のレベルに達しているといっていいでしょう。さらに「空」のレベルにも近ずいていると思います。
しかしやはりふつうにいう自我よりははるかに広く深いレベルではあるにしても、ある種他との分離性が残った自己のところまでといっていいと思います。・・・
「空」は決して仏教の教義を信じている人にだけ通用するような思想・イデオロギーではありません。・・・普遍的事実を非常に的確に自覚認識して言葉にしたものが「空」の思想です。・・・
教えられて、しかし自分自身の目でみると心自体、世界とつながって一つであり、心の奥底にはその事実に目覚めることのできるレベル・領域がある。あるいは「空」そのものと一つであるといえるようなレベル・領域がある。それは実に納得できる、何の不思議もないことだと実感するのです。・・・
私たち普通の人間の日常生活は、煩悩の種子が意識からマナ識、阿頼耶識、と経過して、また阿頼耶識からマナ識、意識と悪循環している。にも拘らず、悟りの種子を意識から入れて阿頼耶識に薫習することができる。よい循環に転換することによってすこしずつ悟りに向かって進歩していく。そういうことが可能なのです。・・・」
(注釈です。・・・唯識ではあらゆる諸存在が、八種類の識によって成り立っているとする。八種類の識とは、眼・耳・鼻・舌・身・意識と二層の無意識つまり末那識と阿頼耶識である。これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。)