3月21日はお大師様ご入定の日です。「弘法大師行状絵巻」(南北朝、重要文化財、東寺)に書かれているお大師様のご入定関連の数箇所を書き出します。
「弘法大師行状絵巻」(東寺重要文化財)にみるお大師様のご入定
「巻十第二段、門人遺誡
・ ・・承和二年三月十五日、重ねて諸の御弟子達に遺告あり。『天長9年十一月十二日より、深く穀味を厭ひて専ら座禅を好む。是、皆、令法久住の勝計、ならびに末世・後生の弟子門徒のためなり。
諸の弟子らあきらかに聞け。汝等、慎みて教法を守るべし。吾入滅に擬せんこと来る二十一日寅の刻なり。諸の弟子ら、悲泣すること勿れ。吾仮令世を去るというとも両部の諸尊を信敬せば、自然に吾に代わりて拳顧し給うべし。
吾始は思いき、一百歳世に住して教法を守らんと。然れども汝達を憑みていそぎて永く即世に擬するなり。門徒数千万なりというとも、併わせて吾が後生の弟子たらん。祖師吾が顔を見ずというとも心あらんもの必ず吾が名号を聞きて、恩徳の深きことを知れ。是、吾が白屍の上に人の労わりを得んと思ふにあらず。密教の寿命を守り継ぎて、龍華の三庭にいたらしむべき謀なり。
吾閉眼の後、必ずまさに都率陀天に往生して、弥勒慈尊の御前に下生して、吾が先跡を問うべし。又、且且いまだ下らざる間も、微雲菅より見て、信非を察すべし。この時、勤めあるものは佑を得、不信のものは不幸ならん。』
」
・ 「巻十第三段、真影図画・・・(真如親王・・・御影を写し留め奉らんとおぼしめして、密かに描かせ給いてける・・)」
・ 「巻十第四段、南山入定、承和二年(乙卯)、三月二十一日寅の刻に、宴座して秘印を結び、恬然として禅定にいり給う。その間お弟子達、弥勒の宝号をとなう。只、御眼の閉じるをもって入定の期とす。ひとえに生身のごとし。春秋六十二、夏臘四十一なり。
則ち、御庵室より奥の院へ移し奉るに、実恵、真雅、真如,真済、真然御輿をかかせ給う。世間の法に準えて七七日の御斎忌をおこなわる。七日ごとにお弟子達参りて、拝み参らせければ、顔色衰えず、鬚髪長くならせたまひけり。
のちに石壇を畳て、わずかに人の出入りするほどにせり。その上に石の五輪の塔を立て、種々の梵本の陀羅尼を納め、又、さらに宝塔を立て、仏舎利をぞ安置せられける。
かようのことども皆真然僧正の営みなり。
同二十五日、公家、勅ありて、内舎人をつかわされて、大師の終儀を問わしめたまふ。微音(きいん)永く隔たりて、縄床空しく存し、慧炬光を隠して、法雷響きを止む。三密寂寥として四衆哀慟せり。中使奏聞するに、宸悼(しんとう)殊に深くして政を廃したまふこと三日を経たり。太上天皇、忝く宸筆を染めて弔書を下され、遺弟孤露の愁緒を慰労したまふ事ねんごろなり。
大凡、法体堅固にして無来無去なり。しかあれども機縁に応じては人世に出で、道品を証じては円寂に帰る。これ聖人化度の常の風なり。ここに定力を催して永く依身を留ること、大士利生の方便、誠にもって奇なるかな。
『宝積経』に菩薩の修定に十種の勝利を挙ぐる中に、第十には「よく正法を興し、三宝を紹隆して断絶せざらしむ」と説けり。古の叡匠も法を守り世を救う心の疎かなるにあらざれども目の当たり生死分段の膚依を改めずして、遥かに当来慈尊の会に相継がしむ。その例、尤も稀なるをや。
雲居寺の瞻西上人所持の大師御筆の『金剛般若経』批文にいわく、『我昔、薩埵遭い、親しく印明を伝う。無比の誓願を発し、片地異域に陪す。昼夜に万民を愍れみ、普賢の悲情に住す。肉身に三昧を証し、慈氏の下生を待つ。』といえり。弘誓の甚だ深く、定力のしばしば感ずる所、もって知りぬべし。
ひそかにおもんみれば修定多途にして顕密岐を異にせり。一心の利刀をもてあそぶは顕教なり。三密の金剛を揮うは密蔵なり。
昔、飲光尊者の釈迦の附属を得し、定室を鶏足の洞に点じ、今、発光大士の遮那の秘教を守る禅窟を馬台のくきに占む。令法久住の芳猷、入定留身の体儀、やや相似たりといえども、彼はついに化火膚を焚きて正に三会の説時に滅尽し、是は目の辺り金剛の身を成じて、妙に五智の覚位に安住す。
境辺域にして佛生の地を去り、代堯季にして正法の時を隔つと雖も、金剛定の巨益、猶しこれ同日の談にあらざるをや。
只、全身を禅窟にとどむるのみにあらず。とこしえに影向を遺跡に加えて擁護を、迦じに及ぼし、利益を華夷に蒙らしめたまふ事、真跡の文に残れり。
去る寛治年中の事にや、東寺の定額僧、勝実といいし人、讃州善通寺の別当に補せられてぞ下向しける。かの寺にして大師の筆跡を感得せり。その文に曰、「居を高野の樹下に卜して、神を兜率の雲上に遊ばしむ。日々の影向をかかさず。処処の遺跡を検知す。」と書かせ給いけり。されば高祖草創の砌、棲息経行の所、その地に臨む人は、芳縁浅からざるにやと、頼もしくも侍るかな。」
「弘法大師行状絵巻」(東寺重要文化財)にみるお大師様のご入定
「巻十第二段、門人遺誡
・ ・・承和二年三月十五日、重ねて諸の御弟子達に遺告あり。『天長9年十一月十二日より、深く穀味を厭ひて専ら座禅を好む。是、皆、令法久住の勝計、ならびに末世・後生の弟子門徒のためなり。
諸の弟子らあきらかに聞け。汝等、慎みて教法を守るべし。吾入滅に擬せんこと来る二十一日寅の刻なり。諸の弟子ら、悲泣すること勿れ。吾仮令世を去るというとも両部の諸尊を信敬せば、自然に吾に代わりて拳顧し給うべし。
吾始は思いき、一百歳世に住して教法を守らんと。然れども汝達を憑みていそぎて永く即世に擬するなり。門徒数千万なりというとも、併わせて吾が後生の弟子たらん。祖師吾が顔を見ずというとも心あらんもの必ず吾が名号を聞きて、恩徳の深きことを知れ。是、吾が白屍の上に人の労わりを得んと思ふにあらず。密教の寿命を守り継ぎて、龍華の三庭にいたらしむべき謀なり。
吾閉眼の後、必ずまさに都率陀天に往生して、弥勒慈尊の御前に下生して、吾が先跡を問うべし。又、且且いまだ下らざる間も、微雲菅より見て、信非を察すべし。この時、勤めあるものは佑を得、不信のものは不幸ならん。』
」
・ 「巻十第三段、真影図画・・・(真如親王・・・御影を写し留め奉らんとおぼしめして、密かに描かせ給いてける・・)」
・ 「巻十第四段、南山入定、承和二年(乙卯)、三月二十一日寅の刻に、宴座して秘印を結び、恬然として禅定にいり給う。その間お弟子達、弥勒の宝号をとなう。只、御眼の閉じるをもって入定の期とす。ひとえに生身のごとし。春秋六十二、夏臘四十一なり。
則ち、御庵室より奥の院へ移し奉るに、実恵、真雅、真如,真済、真然御輿をかかせ給う。世間の法に準えて七七日の御斎忌をおこなわる。七日ごとにお弟子達参りて、拝み参らせければ、顔色衰えず、鬚髪長くならせたまひけり。
のちに石壇を畳て、わずかに人の出入りするほどにせり。その上に石の五輪の塔を立て、種々の梵本の陀羅尼を納め、又、さらに宝塔を立て、仏舎利をぞ安置せられける。
かようのことども皆真然僧正の営みなり。
同二十五日、公家、勅ありて、内舎人をつかわされて、大師の終儀を問わしめたまふ。微音(きいん)永く隔たりて、縄床空しく存し、慧炬光を隠して、法雷響きを止む。三密寂寥として四衆哀慟せり。中使奏聞するに、宸悼(しんとう)殊に深くして政を廃したまふこと三日を経たり。太上天皇、忝く宸筆を染めて弔書を下され、遺弟孤露の愁緒を慰労したまふ事ねんごろなり。
大凡、法体堅固にして無来無去なり。しかあれども機縁に応じては人世に出で、道品を証じては円寂に帰る。これ聖人化度の常の風なり。ここに定力を催して永く依身を留ること、大士利生の方便、誠にもって奇なるかな。
『宝積経』に菩薩の修定に十種の勝利を挙ぐる中に、第十には「よく正法を興し、三宝を紹隆して断絶せざらしむ」と説けり。古の叡匠も法を守り世を救う心の疎かなるにあらざれども目の当たり生死分段の膚依を改めずして、遥かに当来慈尊の会に相継がしむ。その例、尤も稀なるをや。
雲居寺の瞻西上人所持の大師御筆の『金剛般若経』批文にいわく、『我昔、薩埵遭い、親しく印明を伝う。無比の誓願を発し、片地異域に陪す。昼夜に万民を愍れみ、普賢の悲情に住す。肉身に三昧を証し、慈氏の下生を待つ。』といえり。弘誓の甚だ深く、定力のしばしば感ずる所、もって知りぬべし。
ひそかにおもんみれば修定多途にして顕密岐を異にせり。一心の利刀をもてあそぶは顕教なり。三密の金剛を揮うは密蔵なり。
昔、飲光尊者の釈迦の附属を得し、定室を鶏足の洞に点じ、今、発光大士の遮那の秘教を守る禅窟を馬台のくきに占む。令法久住の芳猷、入定留身の体儀、やや相似たりといえども、彼はついに化火膚を焚きて正に三会の説時に滅尽し、是は目の辺り金剛の身を成じて、妙に五智の覚位に安住す。
境辺域にして佛生の地を去り、代堯季にして正法の時を隔つと雖も、金剛定の巨益、猶しこれ同日の談にあらざるをや。
只、全身を禅窟にとどむるのみにあらず。とこしえに影向を遺跡に加えて擁護を、迦じに及ぼし、利益を華夷に蒙らしめたまふ事、真跡の文に残れり。
去る寛治年中の事にや、東寺の定額僧、勝実といいし人、讃州善通寺の別当に補せられてぞ下向しける。かの寺にして大師の筆跡を感得せり。その文に曰、「居を高野の樹下に卜して、神を兜率の雲上に遊ばしむ。日々の影向をかかさず。処処の遺跡を検知す。」と書かせ給いけり。されば高祖草創の砌、棲息経行の所、その地に臨む人は、芳縁浅からざるにやと、頼もしくも侍るかな。」