四国88カ所お遍路の旅その17~第85番八栗寺~
お遍路の旅も香川県「涅槃の道場」に入り、御大師様に助けられて巡拝する札所も残り少なくなった。巡礼一行を乗せたバスは、志度インターチェンジから国道11号線、県道36号線を経て、ケーブル登山口駅まで進む。
第85番札所 八栗寺は、屋島から、壇ノ浦を隔てて向かいにある五剣山の中腹にある。山の麓からお寺までは、急坂が1キロあまり。歩き遍路の方は、ケーブル駅の左手の遍路道を20分ぐらいかけて急坂を登る。私たちはケーブルで約4分。ケーブルを降りてすぐに、大きな鳥居を潜る(神仏混淆の名残)。少し歩くと、緑を背景に土産物店などが並び、門前町の雰囲気。そこを過ぎると、左右に大きな木々が茂り、力強い樹木の命が木々の香りとともに、快く体を包む。5分近く歩くと寺の境内に入る。右手には、黄緑の重なり合った葉の中に、綺麗に映えている朱色の多宝堂。その先に大師堂、本堂、聖天堂等が見える。
第85番 五剣山 観自在院 八栗寺
宗 派: 真言宗大覚寺派
本 尊: 聖観世音菩薩
開 基: 弘法大師
創 建: 天長6年(829)
お寺の歴史は弘法大師が山に登り求聞持法を修めた時に、五振りの剣が振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れ「この山は仏教相応の霊地なり」と告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし五剣山と名づけた。
五剣山の頂上からは、讃岐、阿波、備前など四方八国が見渡すことができたので、もともと八国寺という寺名。大師は唐へ留学する前に、再度この山に登り、8個の焼き栗を植えた。無事帰国し、再び訪れると、芽の出るはずのない焼き栗が芽吹いたので、八国寺を八栗寺へ改名した。寺は長宗我部元親による八栗攻略の兵火により全焼したが、江戸時代に無辺上人が本堂(三間四面)、さらに高松藩主松平頼重が現在の本堂を再興、弘法大師作の聖観自在菩薩を本尊として安置し、観自在院と称した。「霊場公式ホームページより」
広い境内の中には本堂より先に、大師堂が在る。本堂は五剣山に抱かれているように建つ。目を上げれば、本堂奥の木々の上に青い空をバックに五剣山の岩峰が今にも迫ってきそうに見える。本堂、大師堂で納経。
本堂の左手前には聖天堂があり。木喰僧・以空上人が後水尾天皇后の東福門院から下賜された歓喜天像が祀られている。歓喜天は商売繁盛、家内安全、夫婦和合に霊験あらたかで、「お聖天さん」と呼ばれて親しまれている。「お聖天さん」の好物は大根で聖天堂の前には石造りの大根が供えられている。
本堂左手の石段を100段ほど上がった所には、大黒天中将坊大権現という天狗が祀られている。こちらは讃岐の三天狗の一人で、商売繁盛、病気平癒などのお陰がいただけるという。拝殿の回りには天狗の履く一本歯の下駄が奉納されている。
八栗寺巡拝で特に印象に残ったことがある。それはお寺に向かうケーブルカーでのこと。左右に立ち並ぶ木々の緑を眺めながら、耳に響いてくる、もの悲しい女性の歌声。よく聞いているとその歌は「いろは歌」。優しい声に癒されて時間が遅くなったように流れていく。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
昔この歌は読み書きの最初に習う手本だった。人の一生は夢を見ているようにあっという間に終わってしまう。全ては生じても、必ず滅する存在。実体のない意識や執着にとらわれ煩悩を抱かないように…。そのような内容だったと思う。物事にとらわれ、いたずらに時を送り、心を乱して生活していた。少しでも楽になりたくて、お遍路の旅に出た当初の気持ちが、思い出される。
巡礼を通して、少しずつ気持ちにゆとりを持つことが出来たことは、ありがたいお陰である。まだまだ修行が足りず、時に悩み、苦しむが。巡礼の最後近くに「いろは歌」に出会ったことは不思議なご縁と感謝。
~つづく~ K&K
お遍路の旅も香川県「涅槃の道場」に入り、御大師様に助けられて巡拝する札所も残り少なくなった。巡礼一行を乗せたバスは、志度インターチェンジから国道11号線、県道36号線を経て、ケーブル登山口駅まで進む。
第85番札所 八栗寺は、屋島から、壇ノ浦を隔てて向かいにある五剣山の中腹にある。山の麓からお寺までは、急坂が1キロあまり。歩き遍路の方は、ケーブル駅の左手の遍路道を20分ぐらいかけて急坂を登る。私たちはケーブルで約4分。ケーブルを降りてすぐに、大きな鳥居を潜る(神仏混淆の名残)。少し歩くと、緑を背景に土産物店などが並び、門前町の雰囲気。そこを過ぎると、左右に大きな木々が茂り、力強い樹木の命が木々の香りとともに、快く体を包む。5分近く歩くと寺の境内に入る。右手には、黄緑の重なり合った葉の中に、綺麗に映えている朱色の多宝堂。その先に大師堂、本堂、聖天堂等が見える。
第85番 五剣山 観自在院 八栗寺
宗 派: 真言宗大覚寺派
本 尊: 聖観世音菩薩
開 基: 弘法大師
創 建: 天長6年(829)
お寺の歴史は弘法大師が山に登り求聞持法を修めた時に、五振りの剣が振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れ「この山は仏教相応の霊地なり」と告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし五剣山と名づけた。
五剣山の頂上からは、讃岐、阿波、備前など四方八国が見渡すことができたので、もともと八国寺という寺名。大師は唐へ留学する前に、再度この山に登り、8個の焼き栗を植えた。無事帰国し、再び訪れると、芽の出るはずのない焼き栗が芽吹いたので、八国寺を八栗寺へ改名した。寺は長宗我部元親による八栗攻略の兵火により全焼したが、江戸時代に無辺上人が本堂(三間四面)、さらに高松藩主松平頼重が現在の本堂を再興、弘法大師作の聖観自在菩薩を本尊として安置し、観自在院と称した。「霊場公式ホームページより」
広い境内の中には本堂より先に、大師堂が在る。本堂は五剣山に抱かれているように建つ。目を上げれば、本堂奥の木々の上に青い空をバックに五剣山の岩峰が今にも迫ってきそうに見える。本堂、大師堂で納経。
本堂の左手前には聖天堂があり。木喰僧・以空上人が後水尾天皇后の東福門院から下賜された歓喜天像が祀られている。歓喜天は商売繁盛、家内安全、夫婦和合に霊験あらたかで、「お聖天さん」と呼ばれて親しまれている。「お聖天さん」の好物は大根で聖天堂の前には石造りの大根が供えられている。
本堂左手の石段を100段ほど上がった所には、大黒天中将坊大権現という天狗が祀られている。こちらは讃岐の三天狗の一人で、商売繁盛、病気平癒などのお陰がいただけるという。拝殿の回りには天狗の履く一本歯の下駄が奉納されている。
八栗寺巡拝で特に印象に残ったことがある。それはお寺に向かうケーブルカーでのこと。左右に立ち並ぶ木々の緑を眺めながら、耳に響いてくる、もの悲しい女性の歌声。よく聞いているとその歌は「いろは歌」。優しい声に癒されて時間が遅くなったように流れていく。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
昔この歌は読み書きの最初に習う手本だった。人の一生は夢を見ているようにあっという間に終わってしまう。全ては生じても、必ず滅する存在。実体のない意識や執着にとらわれ煩悩を抱かないように…。そのような内容だったと思う。物事にとらわれ、いたずらに時を送り、心を乱して生活していた。少しでも楽になりたくて、お遍路の旅に出た当初の気持ちが、思い出される。
巡礼を通して、少しずつ気持ちにゆとりを持つことが出来たことは、ありがたいお陰である。まだまだ修行が足りず、時に悩み、苦しむが。巡礼の最後近くに「いろは歌」に出会ったことは不思議なご縁と感謝。
~つづく~ K&K