神道(注)の新しい方向
(注、神道の定義について
津田左右吉「日本の神道」では神道の定義として
1、日本の民族的風習としての神道
2、神の権威・力・はたらき・しわざ・神としての地位・神であること・神そのもの
3、民族的風習としての宗教に何らかの思想的解釈を加えたもの(例、両部神道、唯一神道、垂加神道)
4、特定の神社で喧伝されているもの(例、伊勢神道、山王神道)
5、日本に特殊な政治もしくは道徳の規範としての意義に用いられるもの
6、宗派神道(例、天理教・金光教)
をあげるがここでは主に1の意味か)
折口信夫
昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄つてゐようとは考へもつきませんでしたが、その或日、ふつと或啓示が胸に浮んで来るやうな気持ちがして、愕然と致しました。それは、あめりかの青年たちがひよつとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費した、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、もしさうだつたら、われ/\は、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起つて来ました。
けれども、静かだとはいふものゝ、われ/\の情熱は、まさにその時烈しく沸つてをりました。しかしわれ/\は、どうしても不安で/\なりませんでした。それは、日本の国に、果してそれだけの宗教的な情熱を持つた若者がゐるだらうかといふ考へでした。
日本の若者たちは、道徳的に優れてゐる生活をしてゐるかも知れないけれども、宗教的の情熱においては、遥かに劣つた生活をしてをりました。それは歯に衣を着せず、自分を庇はなければ、まさにさう言へることです。われ/\の国は、社会的の礼譲などゝいふことは、何よりも欠けてをりました。
それが幾層倍かに拡張せられて現れた、この終戦以後のことで御覧になりましても訣りますやうに、世の中に、礼儀が失はれてゐるとか、礼が欠けてゐるところから起る不規律だとかいふやうなことが、われ/\の身に迫つて来て、われ/\を苦痛にしてゐるのですが、それがみんな宗教的情熱を欠いてゐるところから出てゐる。宗教的な、秩序ある生活をしてゐないから来るのだといふ心持ちがします。心持ちだけではありません。事実それが原因で、かういふ礼譲のない生活を続けてゐる訣です。これはどうしても宗教でなければ、救へません。・・
ところが、たゞ一ついゝことは、われ/\に非常に幸福な救ひの時が来た、といふことです。われ/\にとつては、今の状態は決して幸福な状態だとは言へませんが、その中の万分の一の幸福を求めれば、かういふところから立ち直つてこそ、本当の宗教的な礼譲のある生活に入ることが出来る。義人のゐる、よい社会生活をすることが出来るといふことです。
しかし時々ふつと考へますのに、日本は一体宗教的の生活をする土台を持つてをるか、日本人自身は宗教的な情熱を持つてゐるか、果して日本的な宗教をこれから築いてゆくだけの事情が現れて来るか、といふことです。
事実、仏教徒の行動などを見ますと、実際宗教的な慣例に従つて宗教的な行動をして、宗教的な情熱を持つて来たやうにも見えますけれども、それは多くやはり、慣例に過ぎなかつたり、または啓蒙的な哲学を好む人たちが、享楽的に仏教思想を考へ、行動してゐるにすぎないといふやうな感じのすることもございます。殊に、神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けてゐるといふことが出来ます。
神道では、これまで宗教化するといふことをば、大変いけないことのやうに考へる癖がついてをりました。つまり宗教として取り扱ふことは、神道の道徳的な要素を失つて行くことになる。神道をあまり道徳化して考へてをります為に、それから一歩でも出ることは道徳外れしたものゝやうにしてしまふ。神道は宗教ぢやない。宗教的に考へるのは、あの教派神道といはれるもの同様になるのと同じだといふ、不思議な潔癖から神道の道徳観を立てゝ、宗教に赴くことを、極力防ぎ拒みして来てゐました。(戦前の国家神道は神道を非宗教と規定することによってすべての国民に強制した(中世の神と仏、末木文美士))
(注、神道の定義について
津田左右吉「日本の神道」では神道の定義として
1、日本の民族的風習としての神道
2、神の権威・力・はたらき・しわざ・神としての地位・神であること・神そのもの
3、民族的風習としての宗教に何らかの思想的解釈を加えたもの(例、両部神道、唯一神道、垂加神道)
4、特定の神社で喧伝されているもの(例、伊勢神道、山王神道)
5、日本に特殊な政治もしくは道徳の規範としての意義に用いられるもの
6、宗派神道(例、天理教・金光教)
をあげるがここでは主に1の意味か)
折口信夫
昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄つてゐようとは考へもつきませんでしたが、その或日、ふつと或啓示が胸に浮んで来るやうな気持ちがして、愕然と致しました。それは、あめりかの青年たちがひよつとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費した、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、もしさうだつたら、われ/\は、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起つて来ました。
けれども、静かだとはいふものゝ、われ/\の情熱は、まさにその時烈しく沸つてをりました。しかしわれ/\は、どうしても不安で/\なりませんでした。それは、日本の国に、果してそれだけの宗教的な情熱を持つた若者がゐるだらうかといふ考へでした。
日本の若者たちは、道徳的に優れてゐる生活をしてゐるかも知れないけれども、宗教的の情熱においては、遥かに劣つた生活をしてをりました。それは歯に衣を着せず、自分を庇はなければ、まさにさう言へることです。われ/\の国は、社会的の礼譲などゝいふことは、何よりも欠けてをりました。
それが幾層倍かに拡張せられて現れた、この終戦以後のことで御覧になりましても訣りますやうに、世の中に、礼儀が失はれてゐるとか、礼が欠けてゐるところから起る不規律だとかいふやうなことが、われ/\の身に迫つて来て、われ/\を苦痛にしてゐるのですが、それがみんな宗教的情熱を欠いてゐるところから出てゐる。宗教的な、秩序ある生活をしてゐないから来るのだといふ心持ちがします。心持ちだけではありません。事実それが原因で、かういふ礼譲のない生活を続けてゐる訣です。これはどうしても宗教でなければ、救へません。・・
ところが、たゞ一ついゝことは、われ/\に非常に幸福な救ひの時が来た、といふことです。われ/\にとつては、今の状態は決して幸福な状態だとは言へませんが、その中の万分の一の幸福を求めれば、かういふところから立ち直つてこそ、本当の宗教的な礼譲のある生活に入ることが出来る。義人のゐる、よい社会生活をすることが出来るといふことです。
しかし時々ふつと考へますのに、日本は一体宗教的の生活をする土台を持つてをるか、日本人自身は宗教的な情熱を持つてゐるか、果して日本的な宗教をこれから築いてゆくだけの事情が現れて来るか、といふことです。
事実、仏教徒の行動などを見ますと、実際宗教的な慣例に従つて宗教的な行動をして、宗教的な情熱を持つて来たやうにも見えますけれども、それは多くやはり、慣例に過ぎなかつたり、または啓蒙的な哲学を好む人たちが、享楽的に仏教思想を考へ、行動してゐるにすぎないといふやうな感じのすることもございます。殊に、神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けてゐるといふことが出来ます。
神道では、これまで宗教化するといふことをば、大変いけないことのやうに考へる癖がついてをりました。つまり宗教として取り扱ふことは、神道の道徳的な要素を失つて行くことになる。神道をあまり道徳化して考へてをります為に、それから一歩でも出ることは道徳外れしたものゝやうにしてしまふ。神道は宗教ぢやない。宗教的に考へるのは、あの教派神道といはれるもの同様になるのと同じだといふ、不思議な潔癖から神道の道徳観を立てゝ、宗教に赴くことを、極力防ぎ拒みして来てゐました。(戦前の国家神道は神道を非宗教と規定することによってすべての国民に強制した(中世の神と仏、末木文美士))