「神祇秘抄」・・20/22
廿、天照と大日と本迹の事。
問、或人云、神は本地無しと云々(第十二では「天照大神は本覚の正神、周辺法界
無始無終の體なり。都て本地あるべからず」とある)。而して今、大日を以て天照大神の本地と為す云々、其の義如何。
答、法性神に於いては都て本地あるべからざる也。上に載せる所、元気より二果珠を生じ、天地両盤と為す。或いは因果、或いは日月、或いは理智也(第二条に「元初は鶏卵なり云々。彼の鶏卵とは諸法不生の空體を指す。其の裏より天地の両盤を建立す。是則ち二果の寶珠(天と地)也。法には因果と顕はれ、世界には日月と現れ、人には両眼となり、鎮まりて天地人の化用を彰はす。皆是神の力用、無體を體とし無名を名とするなり。故に天照太神、又大日と號すなり」)。名は徳に依り、徳は名を顕す故に本有所具の名字に非ず。或論に云く、名に得物の功無く、物に當名の實無しと、此の意也(肇論・不眞空論第二「夫以名求物。物無當名之實。以物求名。名無得物之功。物無當名之實。非物也。名無得物之功。非名也。是以名不當實。實不當名。名實無當。」)。五蘊と云ひ五根と云ふ、皆假名言也。此の義を以て大日は天照神の徳號なるが故に、全く一體の上の異名也、何ぞ本迹を論ぜんや。然れば則ち、佛は一智より無邊の機に対して説法し化導す。本来、法自性に非ず、機感を以て所得する名なり。各々法然として能説なるも全く一體一理なり。之を隋機に説く、と名く云々。風は樹を吹き、浪は岸を打つは自然の道理、法身説法也(眞言宗教時義「五大響當體是眞言也。故眞言人直聞風聲水音即知是法身聲。亦能悟入阿字本不生
理」)。此の位に於いて何ぞ建立を用ひんや。無明無體にして而も有體有響なり。大師云く、五大に皆な響き有り、十界言語を具す、六大悉く文字なり、法身は是れ實相なり(「聲字實相義」)。