大嘗祭は宗教行事(現行憲法解釈上は)に非ず。(しかし精神的には非日常的な敬虔な気持ちがなければ意味がありませんが・・)
大嘗祭は「古俗(習俗)」であり中国、朝鮮半島でも行われてきており、特別に天照大神をお祀りするものではないということができます。そもそも天照大神が新嘗祭を行っておられたのですから。古俗(習俗)であれば宗教とは言えないというのが最高裁の憲法解釈です。
1、「神道は祭天の古俗」(明治24年)で東京大学教授 久 米 邦 武は新嘗祭神嘗祭大嘗祭の原型は支那にあり天を祀るもので、いわば祭天の古俗であり天照大神を祀るものではなかった、としています。
新嘗祭神嘗祭大嘗祭(神道は祭天の古俗(明治24年)文科大学(東京大学)教授 久 米 邦 武 )
「・・・天祖の降跡は二千四五百年前と思はる。周の中葉なり。此時巳に天兒屋命(神産靈の裔)太玉命(高産靈の裔)の二氏。中臣部・忌部を分掌し。中臣は太占・祓除の法を傳へて神に事へ。忌部は齋物を調へて民を率うるは。彼重黎の天地を分掌したるに甚相似たり。其祭天の大典は新嘗祭なり。新嘗祭は天照大神を祭るに非す、天を祭る古典なり。其は神代巻に〔素戔鳴尊見天照大神新嘗時。則陰放屎於新宮。又見天照大神方織神衣居齋服殿。則剥天斑駒。穿殿甍而投納云云〕と見ゆ。是大神窟戸籠りの原因にて、天照大神の親ら新嘗祭神衣祭を行はせられたるにて明證となすべし。且新嘗祭は支那にもあり。爾雅釋天に〔春祭曰祠。夏祭曰礿。秋祭曰嘗。冬祭曰蒸〕。董仲舒は〔祠者以正月始食韮也。礿者以四月食麥也。嘗者以七月嘗黍稷也。蒸者以十月進初稻也〕(『繁露』四祭篇に、祠は正月を以て始めて韭を食するなり。礿は四月を以て麥を食す るなり。嘗は七月を以て黍稷を嘗するなり。蒸は十月を以て初稻を進 むるなり。)と説き郭璞は嘗を嘗新穀也と。蒸を進品物也と注す。然れば嘗蒸は同く新穀を進むる祭にて。我神嘗新嘗兩祭に似たり。我九月に神嘗。十一月に新嘗と分つは。何代比より例なるや。紀(日本書紀)の天武五年九月に。〔神官奏曰。爲新嘗卜國郡〕と。十月に〔發幣帛於相新嘗諸神祇〕とあるは。神嘗例幣のことにて〔十一月乙丑。以新嘗事不告朔〕とある(日本書紀「天武五年(六七六)九月丙戌(二十一日)神官奏曰。爲新甞卜國郡也。齋忌齋忌。此云踰既。則尾張國山田郡。次次。此云須岐也。丹波國訶沙郡。並食卜。十月丁酉(三日)祭幤帛於相新甞諸神祇。十一月乙丑。以新嘗事不告朔」)。是を史に見えたる始めとす。新嘗祭は東洋の古俗にて、韓土も皆然り。後漢書(魏志も同し)に高勾驪は〔以十月祭天。國中大會。名曰東盟。(十月を以て天を祭り、国中が大会し、名は東盟という。)〕とあり。東盟は東明にて。豐明節會のことならん。濊(わい、中国古代民族)は〔常用十月祭天。飲酒歌舞。名之爲舞王。(後漢書東夷伝に「常に十月節をもって天を祭り、昼夜、飲食歌舞をする。 これを名付けて舞天と為す」)〕とあり。馬韓は〔常以五月田竟(魏志は下種訖に作る)祭鬼神。晝夜群聚歌舞。輙數十人相随。踏地爲節。十月農功畢亦如之。(三國志魏書東夷伝馬韓に「常に五月を以て田を竟(お)え、鬼神を祭り、晝夜に群聚は歌舞し、舞い輒(すなわ)ち數十人相い隨い地を踏み節と爲す。十月に農功畢(お)え、亦之(これ)の如くに復す。」)〕とあれば。夏冬兩度の大祭をなし。皆節會を行ふなり。(三國志魏書東夷伝の)夫餘(中国の東北地区から朝鮮半島東北部に前1―後5世紀にあった国および部族の名で,ツングース系の【わい】貊( わいばく)人が建てたとされる。漢文化の影響を受けて前1世紀に国家を形成)ハ〔 臘月を以て天を祭り、大いに會す。連日飲食し歌舞す。名づけて迎鼓と曰う)。 〕とありて。此國のみ十二月なれど。其趣は同し。我國の嘗祭も。固り兩度行はるゝには非す。式に九月の神嘗ハ伊勢神宮の條に記し。十月の新嘗ハ四時祭の條に記す。神祇令の義解に。〔神嘗祭。謂神衣祭日便即祭之(『令集解』6(神祇令)に、季秋条・神嘗祭釈云。即神嘗祭。謂神衣祭日饌食等具祭。宇奈太利。村屋。住吉。津守。古記無レ別。)〕とありて。伊勢神宮に於て擧行せらる。天皇ハ神祇官に行幸ありて。奉幣使を發せらるゝまでなり。(前の天武紀の文を見よ)江家次第に。〔天皇宣常毛奉留長月乃神嘗乃御幣會。汝中臣能申天奉禮。中臣微音稱唯退〕とあり。是を例幣と稱す。十一月の新嘗こそ。令に下卯大嘗祭とありて。天皇神祇官(正式は中和院)に於て親祭ある。職員令義解に〔謂嘗新穀以祭神祇也。朝者諸神之相嘗祭。夕者供新穀於至尊也〕とあり。祭畢て。豐明節會を行はる。格の宇多天皇の詔に。(寛平五年三月)〔二月祈年。六月十二月月次。十一月新嘗等。國家之大事也。欲歳災不起。時令順度。預此祭神。京畿九國大小通計五百五十八社〕とあるにて。其大要を知るべし。古は新嘗祭を大嘗ともいひたれど。令に〔凡天皇即位。惣祭天神地祇。〕又〔凡大嘗者。毎世一年。國司行事〕とある。天子一代一度の大祭に混同するを以て。毎年の嘗を新嘗といふことになりぬ。大嘗會は神祇官に悠紀主基兩神殿を新造せられ。天子天之羽衣をめして親祭ある。其は二條良基公假名文の文和大嘗會記あり。就て其概略を見るへし。今上は明治四年十一月に擧行せられたり。是は世に記臆したる人も多かるべし。余は岩倉全権大使に随ひ米國へ航する船中に在りしに。其日米國公使「デロンク」氏。天皇陛下一代一度の大祭日とて。祝辭を演し。祝杯を擧たり。此の如く新嘗大嘗祭は大神宮も親察し給へる古典にて。皇統と共に繼續し。神道に於て最重の祭なれハ。臣民は皆知らざるべからず。」
2、さらに言えば最高裁でも厳密な政教分離は求めていません。政教分離原則に関する最高裁の代表的判例の1つである愛媛玉串料訴訟判決は、
「憲法の政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである」としています。津地鎮祭訴訟においても、最高裁は、目的の世俗性(他の裁判例では習俗ともいっています)などを理由として、地鎮祭は宗教的活動に当たらないとしています(1977年7月)。