福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

幸田露伴『努力論』その1

2013-10-01 | 法話


幸田露伴『努力論』
自序
努力は一である。併し之を察すれば、おのづからにして二種あるを觀る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は當面の努力で、盡心竭力の時のそれである。人はやゝもすれば努力の無效に終ることを訴へて嗟歎するもある。然れど努力は功の有と無とによつて、之を敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。ただ時あつて努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が惡いからであるか、然らざれば間接の努力が缺けて、直接の努力のみが用ひらるゝ爲である。無理な願望に努力するのは努力の方向の惡いので、無理ならぬ願望に努力して、そして甲斐の無いのは、間接の努力が缺けて居るからだらう。瓜の蔓に茄子を求むるが如きは、努力の方向が誤つて居るので、詩歌の美妙なものを得んとして、徒らに篇を連ね句を累ぬるが如きは、間接の努力が缺けて居るのである。誤つた方向の努力を爲すことは寧ろ少いが、間接の努力を缺くことは多い。詩歌の如きは當面の努力のみで佳なるものを得べくは無い。不勉強が佳なる詩歌を得る因ちなみにはならぬが、たゞ當面の勉強のみに因つて佳なる詩歌が得らるゝものでは無い。朝より暮に至るまで、紙に臨み筆を執つたからとて、字や句の百千萬をば連ね得はするだらうが、それで詩歌の逸品は出來ぬ。此意に於て勉強努力は甚だ價が低い。で、努力を喜ばず、勉強を斥ける人もある。特に藝術の上に於ては自然の生成を尚び、努力を排する者も多い。それも有理の説である。努力萬能なりとは斷じ得ぬ。印度の古傳の如く、技藝天即ち藝術の神は六欲の圓滿を得た者の美睡の頭腦中よりおのづからにして生なり出づる者であるかも知れぬ。當面の努力のみで、必らず努力の好果が得らるゝならば、下手の横好といふ諺は世に存せぬであらう。併しそれにしても其は努力の排斥すべき所以にはならないで、卻つて間接の努力を要求する所以になつてゐる。努力無效果の事實は、藝術の源泉となり基礎となる準備の努力、即ち自性の醇化、世相の眞解、感興の旺溢、製作の自在、それ等のものを致すの道を講ずることが重要であるといふことを、徒らに紙に臨み筆を執るのみの直接努力を敢てしてゐるものに明示して居るのである。努力はよしや其の效果が無いにせよ、人の性の本然が、人の生命ある間は、おのづからにして人の敢へてせんとするものである。厭ふことは出來ぬものである。
併し努力を喜ばぬ傾の人に存することを否定することは出來ぬ。將に睡らんとする人と漸く死せんとする人とは、直接の努力をも間接の努力をも喜ばぬ。それは燃ゆべき石炭が無くなつて、火が、第4水準を擧げることを辭退して居るのである。
努力は好い。併し人が努力するといふことは、人としては猶不純である。自己に服せざるものが何處かに存するのを感じて居て、そして鐡鞭を以て之を威壓しながら事に從うて居るの景象がある。
努力して居る、若くは努力せんとして居る、といふことを忘れて居て、そして我が爲せることがおのづからなる努力であつて欲しい。さう有つたらそれは努力の眞諦であり、醍醐味である。
此の册の中、運命と人力と、自己革新論、幸福三説、修學の四標的、凡庸の資質と卓絶の事功と、接物宜從厚、四季と一身と、疾病説、以上數篇は明治四十三年より四十四年に於て成功雜誌の上に、着手の處、努力の堆積二篇は同じ頃の他の雜誌に、靜光動光は四十一年成功雜誌に、進潮退潮、説氣山下語は此の書の刊に際して草したのである。努力に關することが多いから、此の書を努力論と名づけた。
努力して努力する、それは眞のよいものでは無い。努力を忘れて努力する、それが眞の好いものである。併し其の境さかひに至るには愛か捨しやかを體得せねばならぬ、然らざれば三阿僧あそう祗劫ぎごふの間なりとも努力せねばならぬ。愛の道、捨の道を此の册には説いて居らぬ、よつて猶且努力論と題してゐる。



壬子(大正元年)の夏
著者識
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