今朝の瞑想で、この世の中には様々な「心」が時間空間をこえて響きあっているのではないかとふと思いました。つまり過去現在未来の生きとし生けるものの「心」が肉体を離れてとびかっているのです。震災犠牲者の「心」、戦争犠牲者の「心」はじめ不条理な運命の犠牲者の「心」をはじめ50年前30年前になくなった自分の両親の心も飛び交っているし、つい最近亡くなった妻の母の心も、5年前に亡くなった自分の親友の心もあります。
勿体ないことにお釈迦様の御心もありますし、お大師様の御心もあります。こういう「心」(つまり「魂」といったほうがいいかもしれないのですが)が常に現在の空間にも満ち満ちていてわたしが修行をしたりいいことをすると喜んでくれるのだと思いました。随って魂と体とは別なのです。この「心は時空を超えている」ということさえ体験できればすべてが解決するとおもいました。生死もあまり意味がないかもしれませんし、善因楽果のメカニズムもわかりますし、不条理と思えるこの世の現象の意味も分かります、個人や組織、国の栄える原理もわかります。心の本姓、つまり「こころは不滅である」ということさえ体得すればすべてが解決すると思いました。
四国遍路で「宝は心にあり」という信貴山管長の色紙をみましたし、栄西禅師は興禅護国論で「・・大なる哉心や天の高きは極むべからず、而るに心は天の上に出ず。地の厚きは測るべからず、而るに心は地の下に出ず。日月の光は踰ゆべからず、而るに心は日月光明の表に出づ大千沙界は窮むべからず、而るに心は大千沙界の外に出づ。それ太虚か、それ元気か心は太虚を包んで元気を孕むものなり。天地は我を待って覆載し、日月は我を待って運行す。四時は我を待って変化し、萬物は我を待って発生す。大なる哉心や。吾れ已む事を得ずして強いて之を名づく是れを最上乗と名づけ、亦(また)第一義と名づく。亦般若実相と名づけ、亦眞法界と名づく。亦無上菩提と名づけ、楞厳三昧と名づく。亦正法眼蔵と名づけ、亦涅槃妙心と名づく・・」とおっしゃいました。
大日経疏でも「心は虚空の如く三世を離れ、諸相を離れ・・」とあります。こころは過去現在未来を越えているというのです。密教の行でも四無量観という観想があり、そのなかに「・・・(衆生は)生死の苦海に沈溺して自心を悟らず・・」とありました。ここでは逆に「自心をさとれば生死の苦界(この世の苦しみ)を出ることができる」というのです。