「その時に世尊、また竜王に告げて言給はく、若し菩薩ありて、この善業によりて道を修するときにおいて能く殺害を離れ(不殺生)而も施を行ずるがゆえに常に財宝にとみて、能く侵奪するものなく、長寿にして夭なく一切の怨賊のために損害せられず、不輿取を離れて(不偸盗)而も施を行ずるがゆえに常に財宝に富みて侵奪するものなく、最勝比びなくして悉く能く備さに諸仏の法蔵を集む。」」
(これから以下は十善戒から六度が生ずることを説いてある。この今日の初めに釈迦如来が竜王に仰せられるに「一法あり、能く世間出世間の苦を離れて楽を与えることができる」とこうお説きなされた。その一法とは何であるかというと十善戒である。本業瓔珞経に『理』に順ずるを善といい、『理』に反くを悪という」とある。『理』とは真如法性のことじゃ。真如法性とは即ち自身の心性である。心性とは心の本体で俗にいう本性のことじゃ。その真如をば諸法実相ともいい、法界ともいい、また第一義天ともいふて種々の異名があるが、その体(本質)は一つで心性である。ただこの一の心性を見極めるのが仏教じゃ。・・この目を以て見るとき・・不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語等は真理に順ずるところのものであって、即ち善である。ゆえに仏様はこれを十善戒として勧められたのである。
(これから以下は十善戒から六度が生ずることを説いてある。この今日の初めに釈迦如来が竜王に仰せられるに「一法あり、能く世間出世間の苦を離れて楽を与えることができる」とこうお説きなされた。その一法とは何であるかというと十善戒である。本業瓔珞経に『理』に順ずるを善といい、『理』に反くを悪という」とある。『理』とは真如法性のことじゃ。真如法性とは即ち自身の心性である。心性とは心の本体で俗にいう本性のことじゃ。その真如をば諸法実相ともいい、法界ともいい、また第一義天ともいふて種々の異名があるが、その体(本質)は一つで心性である。ただこの一の心性を見極めるのが仏教じゃ。・・この目を以て見るとき・・不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語等は真理に順ずるところのものであって、即ち善である。ゆえに仏様はこれを十善戒として勧められたのである。