昨日鈴木さんより毎日新聞の多川俊映師の「仏像・みる・みられる」という本の紹介記事を送っていただきました。私が常日頃感じていたことがすっかり書かれていて深い感銘を受けたので少し書き出しておきます。
まず「仏像の目を見つめるとあちらも自分を見つめているように感じる、見守ってくれている・・、仏像の見方とは双方向性の関係だ」とあります。わたしも昨年上野の展覧会で弁天様のお顔を拝しているとき、義理の叔母に似ているとふと思ったことがありましたが、その時間に叔母は92歳の天寿を全うしていました。仏様の視線は不思議です。
そして私が仏像の展覧会にいくのを躊躇するのは仏像に跪拝してちゃんと拝めないからでした。多川師も「貞慶の言葉に『自ら人目を慎むといえども、まったく冥の照覧を忘れぬ』という言葉がある・・展覧会でも仏像に手を合わせる人はまれだ、人目を気にしているくせに本当に意識すべき神仏の視線を忘れている・・」と言っておられます。我が意を得たりの思いです。しかしそもそも仏像の展覧会はやめるべきかもしれないと思う時がありますが・・・
まず「仏像の目を見つめるとあちらも自分を見つめているように感じる、見守ってくれている・・、仏像の見方とは双方向性の関係だ」とあります。わたしも昨年上野の展覧会で弁天様のお顔を拝しているとき、義理の叔母に似ているとふと思ったことがありましたが、その時間に叔母は92歳の天寿を全うしていました。仏様の視線は不思議です。
そして私が仏像の展覧会にいくのを躊躇するのは仏像に跪拝してちゃんと拝めないからでした。多川師も「貞慶の言葉に『自ら人目を慎むといえども、まったく冥の照覧を忘れぬ』という言葉がある・・展覧会でも仏像に手を合わせる人はまれだ、人目を気にしているくせに本当に意識すべき神仏の視線を忘れている・・」と言っておられます。我が意を得たりの思いです。しかしそもそも仏像の展覧会はやめるべきかもしれないと思う時がありますが・・・