第十二 真言安心章(真言宗各派聯合法務所編纂局 1916)等より・・13
(真言行者は大日経の「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」(誰でも、菩提心を発し慈悲心をもって利他行を成就すれば仏果を得ることになる)という句を信じて心を安んずるべきである)
- 要略念誦経に「心常に菩提所に安住せよ」(大毘盧遮那仏説要略念誦経に「以四無量攝群生 若由無力或得時 心常安住菩提所・」)と説き、陀羅尼集経には「安心定意」(陀羅尼集経に「爾時觀世音像正前菩薩面出大雷聲。爾時行者安心定意不得恐怖。雷聲出時一切振動。爾時行者口常誦呪。雷聲出時即當乞願。發聲唱言。南無觀世音菩薩。弟子何時能救一切衆生種種苦惱。何時當滿一切衆願 」)。念誦結護にも「この故に智者この門に安心して秘密を行とせよ」といひ、大疏には「當に一向に諦理に安心して務めて穿徹ならしむべし」(大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一に「復念此推求之慮有何因縁。如是則無窮盡也。既覺知已。當一向安心諦理務。使穿徹。」)と釈し給へる等、その文頗る多し。これらの仏説祖訓によらば安心とは心を安住する義にして心を据えることなり。心を据えたならば心安らかなる故、心を安ずる義もその内に含めり。心を置くと訓むは始めにつき、心を安んずると訓むは終わりに就く。また心を据えるということは疑を離れることなり。真言行者尚ほいまだ真言の法門を開かざる時、自ら生死の苦患に堪へずして究竟最上の楽果を求めんとすれども何れのところに楽果ありとも知らず。如何なる修行によりて其の楽果を得べしとも知らず、疑いの心のみ起こりて悶ゆる時、法身如来の最上乗教に値遇し善智識より詳らかに其の帰趨を示さるるを得ば、ここにおいて始めて一切の疑いを離れて深く之を信ずることを得べし。若し其の時、凡夫の分別工夫を巡らしてなほ疑念の心を生ずる時は心定まらず心安らかならずして遂には空しく二世の大利を失ふことあるべし。
真言行者は法身如来の直説たる凡聖不二の宗意を信じて之に安住して動かざるにあり。この宗意は甚深広大なれば凡夫の計らひにて種々の法門を建立して之を了解せんとすとも終に之を知る事能わず。しかるに大日経に教主大日如来自ら「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」(大毘盧遮那成佛神變加持經卷第一入眞言門住心品第一「佛言菩提心爲因悲爲根本方便爲究竟祕密主云何菩提謂如實知自心」)と説きて三句の法門を建立し給へり。凡聖不二の宗意悉くこの中に説き尽くさずといふことなし。故に高祖の「吽字義」に之を歎じて「(この一字(吽)をもって、通じて諸経論等に明かすところの理を摂することを明かさば、)しばらく『大日経』および『金剛頂経』に明かすところ、みなこの菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となすの三句に過ぎず。もし広を摂して略につき、末を摂して本に帰すれば、すなわち一切の教義この三句に過ぎず。この三句を束ねてもって一の吽となす。広すれども乱れず、略すれども漏れず。これすなわち如来不思議の力、法然加持のなすところなり。千経万論といえどもまたこの三句(菩提心爲因・大悲爲根・方便爲究竟の三句)は「吽」の)一字を出ず」.と釈し給へり。しかるにこの三句は即ちこれ行者の従因至果・従凡入聖の次第なり。故に吽字義に曰く「(菩薩を明さば)『遮那経』『金剛頂経』等に菩薩の人は、菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となす(と説く。今この吽字の本体は訶字なり、これすなわち一切如来の菩提心をもつて因となすなり・・)」と。これによりて之を観れば行者趣入の次第は両部大経の所説共に皆この三句を出ざることを知るべし。されば真言の安心を論ずる者は皆必ずこれに依るべし。初めに菩提心爲因とは発菩提心なり。次に大悲爲根とは大悲の行にして修行なり。後に方便爲究竟とは二利(自利利他)方便の果にして仏果なり。この三、順次に生起して次第乱れず、菩提心を発するがゆえに菩提の行を修することを得、菩提の行を修するがゆえに菩提の果に契ふことを得るなり。たとえば財宝を求むる者は財宝を求むる心を発して計を作し而して後に財宝を得るがごとし。真言行者の菩提心とは凡聖不二の理を信じて無上菩提を期する也。凡聖不二の理を信ずる所以はこの理は法身如来の極説にして最妙最尊なり。この理を信ずるに非ずんば無上菩提を期すること能はざるがゆえなり。
次に修行とは三密の妙行を修するなり。或は一密、或は二密、或は三密、力の堪ふるに随って之を修すべし。是すなわち凡聖不二の行を修するなり。三密の妙行を修する所以はこの行は是れ如来内証の所行にして最妙最尊なり、この行を修するに非ずんば無上菩提を証すること能はざるが故也。証果とは三密平等毘盧遮那三身の妙果にして凡聖不二の智見開発する位なり。三密平等毘盧遮那三身の位を極果とする所以は此の境に至らずんば無上菩提にあらざるが故也。彼の顕教諸宗は随他方便遮情門の教えなるがゆえに真如法身は無色無形無言無説と説きて、ただ意密のみありて身語二密あることなし。この故に色相言語の化法を捨てて無相の真如法身を証すといふ。今真言密教は法身如来自受法楽の法門なるがゆえに,経の中に法身如来自ら身語意平等句の法門と説き給ひて色相言語共に有りて三密平等なり。父母所生の吾ら凡夫の三業の當相を動ぜずして究竟法身の果を成ずることを得といふも法身に平等の三密を具したまへるが故なり。法身もし無色無形無言無説ならば豈に吾ら凡夫の身を捨てずして法身の果を成ずるの理あらんや。真言行者は最初発心の時に凡聖不二の理を信じ、修行の時は凡聖不二の行を修し、証果の時は凡聖不二の理に住す。因より果に至るまで凡聖不二の安心を離れず、但し最初発心の時は凡聖不二の理を聞きて未だ明らかに解すること能わざれども是法身如来の直説なるがゆえに偏に如来の聖説を仰ぎてはるかにこれを信ずるのみ。次に三密の妙行を修する時は三力不思議の加持力によりて法験漸く現れるがゆえに凡聖不二の理に信心倍増す。たとへば井を掘るに已に湿へる泥を見るときは未だ水を見ずとも、水必ず近きにありと知るがごとし。故に増々はげんで必ず水を得んと望むが如し。次に三密の行成就して一切智智を得、遍一切処の身を成じて身語意の三業無礙自在なり。常情のよく測る所に非ず。凡聖不二の宗意略してかくの如し。この故にわが宗の行者は道俗、上極下根を分かたず皆能く分に応じて凡聖不二の理を信じ凡聖不二の行を修し凡聖不二の果を期するを以て安心とすと意得るべし。