福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんが先日の秩父巡拝記録をつくってくださいました。

2014-10-05 | 定例会のお知らせ
福聚講秩父三十四観音霊場参拝記録

福聚講(高原耕昇講元)の第四回秩父観音霊場参拝行は、9月28日(日)催行した。早いもので、秩父観音霊場の巡拝も、もう、四回目をむかえた。この日は、真夏日の強烈な暑さもなく、秋晴れの青空が広がる、絶好の巡拝日和だった。久々に参加する、S講員を迎え、もうすっかり、巡拝呼吸の合った講員チームで午前10時、西武秩父駅前から、巡礼バスに乗る.今年の秩父観音霊場は、午歳総開帳の年に当たっており秩父霊場一帯の市町村はもとより、観光組合や物産連合、文化施設連絡会などの団体が、総力を挙げて、秩父札所の総開帳を盛り上げるため、霊場を訪れるべく大勢の人に呼びかけている。昔と言っても、戦前戦後、私たちが利用した、前面にエンジン装置のついた、木炭バス仕様の懐かしいレトロバスが、巡拝コースを巡回して、巡礼者のサービスに余念なく順行していて、この総開帳にかける力の入れ方が、伝わってくる。おいづるを着た巡礼の人たちで、満員の盛況である。互いに、挨拶の言葉を交わし、これからの巡礼を寿ぎ、励ます、いい雰囲気だ。この日の、巡礼は、講員に、福があるかもしれないと、自然、胸が膨らんでくる。

西武電車の車体に、「十二年に一度、扉が開く」と謎の呼びかけ、「HAPPY 
プリーズ ちちぶ。」と、ギャルにウインク、「12年に一度のロマンが始まる」と、巡礼心をくすぐるコピーもある。西武秩父駅前は、霊場ブームに賑わっていた。。

いよいよ、出発。レトロバスで、10分。この日一番目の、十九番札所 飛淵山 
龍石寺を訪ねる。曹洞宗 御本尊・千手観世音菩薩。境内は、土砂で埋め立てられ、草一本もない。平板な土地に、大きい一面の岩盤上に札所が立てられている。七間半、四面表流れの向背をふした方形造りの大きい観音堂である。昭和47年、荒廃著しい堂宇の改体復元が行われた。その時、宝永2年の墨書が、発見され、歴史の深さを物語っている。堂内には、閻魔や十五像など、冥途の恐怖を強調するものや、三途の川の脱衣婆をまつる三途婆堂もあり、佛教の暗い一面をみせる寺でもある。昔、この地方に、大旱魃があり、弘法大師は、天皇の勅によって雨を祈られたところ、大盤石が、二つに割れて、神泉苑から、龍が昇天して,雲を呼び、雨を降らせて、人畜草木みな甦り、大豊作を得たと言う縁起がある。

慎ましやかな、佇まいが何ともいえない親しみがある。単純素朴な形体の堂宇でありながら、他の寺では、見られない、おどろ、おどろした、閻魔の憤怒が渦巻いているという。
「御詠歌 あめつちを 動かすほどの 龍石寺 まいる人には 利生あるべし」

前日27日、長野・岐阜両県にまたがる、御嶽山が、噴火し、レジャー登山をしていた人たちが、噴火で飛散した噴石や灰のため、心肺停止状態になった人が、30人にのぼる火山災害が発生したニュースが伝えられていた。多分、災害現場は、阿鼻叫喚の地獄絵図さながらの情景だろう。胸痛む思いがする。思いもよらない災害や事故が、次々、この狭い日本列島で発生している。地震、津波、原発事故、豪雨による土砂崩れ、火山噴火等々、枚挙に暇がない。もし、方丈記を記した、鴨長明であったら、どんな、記録や、感想を残すだろう。長明の当時と災害の現場は変わっていない。ただ、腐乱死体が、そこ、ここに、投げ出されていないだけではないか。ある意味では、長明が記した様に、天地鬼神の怒りに、触れて、災難が起きたと言えるかもしれない。災害に遭遇して、悲嘆に見舞われた方々には、深い哀悼の祈りを捧げた。しかし、ただ、自然災害だけであるとは、いえない、人災的な要素もあるように思われる。

清清しい風が行き渡る、荒川に架かる新秩父橋を渡る。この橋は、高さ40メートルのコンクリートタワーから12本のケーブルで、重さ1200トンの橋桁を支えているという。塔に鉄骨鉄筋コンクリート、桁に、鋼床版箱桁を使った複合構造の斜張橋は、全国でも初めてのもだという。初代秩父橋は、明治18年に完成した五径間木鉄混交トラス橋だった。次いで、昭和6年、三径間連続鉄筋コンクリートアーチ橋に改造。昭和55年、新秩父橋の工事に着工、同60年に、今日、我々が眼にする単経間鋼床版箱桁マルチ型ケーブル斜張橋が完成した。1986年、土木学会・田中賞を受けている。

二十番札所 法王山 岩ノ上堂 臨済宗南禅寺派 御本尊 聖観世音菩薩。秩父巡礼では、巡礼道の要所要所に、丁寧・親切な道しるべが、立てられている。初心者には、心強い、小さな親切である。「迂回路」「徒歩のみ」「明治巡礼古道」
「江戸巡礼古道」など、順路を教えてくれる。途中、延慶3年(1310年)に、秩父出身の武士、中村四郎時光の子孫、丹党中村氏と長田氏一族が建立したと言う、金昌山 光正密寺を足早に過ぎ、岩ノ上堂札所に来る。三間四面方形造りの屈指の建築で、延宝初年、内田武左衛門尉政勝の再建によるものとされている。
江戸時代の中期の造営といわれ、その後、元禄、宝永年間に、補修が加えられ、唐模様系統で、優秀なつくりだという。お堂の名のごとく、境内の地は、荒川西岸の崖の上に立てられている。人皇72代白河院の勅によって建立されたが、応仁の頃から廃れ、本尊のみが、岩の上に雨に晒されたときもあったという。

この日は、日曜日とあって、おいずる姿の巡礼者が多く、納経所では、ご朱印を戴くための人の行列が、各札所で出来たほどだった。高原講元のご指導で、今回から、礼拝の読経には、本堂内陣に上がれないときは、本堂前の境内の地面に、座布団宜しく、敷物を敷いて、正座することにしたのである。小石や岩の欠片で、ひざが痛むが、我慢する。やはり、経の読誦は、背筋を立て、きちんと正座して、あげるほうが、立ち礼よりも、正当な感じがする。願いを込め、懸命に願掛けする姿勢になる。恥ずかしいことや、他人を意識することを、無くし、克服することに、意識を集中させる。
「御詠歌 苔むしろ 敷きてもとまれ 岩の上 玉の臺(うてな)も 朽ちはつる身を」

二十一番札所 要光山 観音寺。真言宗豊山派 御本尊・聖観世音菩薩。
正午近くになった。観光バスが、巡拝者を運んでくる。急に、参拝者で賑わう。流石、観音霊場めぐりだけあつて、観光目的だけで、お寺に来る人は、殆ど姿を見かけない。ここでも、先述したように、土の上ではなく、下足で往来する境内の渡り廊下の板の上で、敷物を敷いて、正座して、経を上げる。講員が交代して、経を上げるとき、「頭」を唱え、「助」で、皆が続く。これも、何時も、高原導師にしたがって、経を上げればいいという、追従式でなく、きちんと、自分を律して仏様に、経で呼びかける。自然、厳かな気持ちになる。

通称、矢の堂といわれている。昔、ここは、元八幡宮の社地で、神託によって観世音の霊場になったという。邪神悪魔を除き、仏地にしようと、八幡大菩薩の放った矢が、この地に落ち、悪魔が退散したと言う伝説から、「矢の堂」といわれる様になったという。 
堂前の道端には、地芝居役者の座頭中村十九十郎。田舎千両と讃えられた墓もあり、地芝居が隆盛だった往時を偲ぶ民俗資料として貴重に扱われているようだ。堂宇の白壁に飾られてある、極彩色の八幡大菩薩が、矢を放つ錦絵が飾られてある。本堂に、続き隣り合っている、納経所をみて、高原講元は、しみじみと、十数年前にここに来たときは、貧相な納経所だつた。こんなに、立派なお堂の納経所に変わつたことに、驚いた。と、感銘深く語っておられた。

ここから、野原や田んぼを通ってゆく。田んぼでは、もう、稲の刈り込みが終わり、稲の穂を逆さに吊り下げ、干している。整然と稲の束が、並べられている。丹精込めて、稲を育て、束を並べて干す、いささかの手抜きの無い、細工作業は、几帳面な日本民族の美感と、繊細な精神を象徴しているかのようだ。秋の桜・コスモスが咲き乱れ、真っ赤なひげを伸ばしたような曼珠沙華(彼岸花)が、並び咲いている。A講員は、この花を見て、「悪魔のような花びらを広げたこわそうな、花だね」 といつた。金木犀も、いい香りを漂わしている。こうした、美しい、心和らぐ、気分と言うものは、都会では、決して味わえないものである。巡礼行の功徳と言うか、有り難いことは、無心、虚心坦懐になって、ただ歩く。歩くことに、何の痛痒も感じない。すっかり、空っぽの人間になりきる。不思議なことに、巡礼行では、世間での悩み、心配事、雑念などはすっかり消えている。この、貴重な時間が、何にも変えがたいのだ。
そう、良寛さんの様に、何もかも、捨てる。捨てて、捨てて、捨て尽くす。その、「無」から、改めて、「有」を作り出すのだ。とは、先日会った、興教大師の誕生寺の、山口貫主も言われていた。

私たちは、今日、資本主義経済の中で、大量生産、大量消費に鼓舞され、商品を所有すること。物品を所有して、自己満足することに、狂奔してきたのではなかろうか。ものが、有り余り、溢れ出す様な自分の部屋を見るたびに、こうした物、物が、どれだけ、心に安らぎ与えてくれただろう?逆に、物を所有することで、所有が、さらに、所有を増長させる。心が、乱され、欲望が熾烈になってくる。もう、際限がなくなってくる。パソコンや、IPADなどに、写し出される映像は、欲望を掻き立てることの何者でもない。心を、軽くするには、所有をなくし、物に、翻弄されないようにすることだ。だから、「捨てる」ことが大切なのだ。捨てて、捨てることで、自由になる。世間の名誉、地位、財産、栄誉、虚栄心などに、心が奪われなくなれば、、自分が、どんなに解放され、自由になり、頼れるのは、自分しかないことがわかるだろう。孤独に耐えることで、仏に少しでも、近かづくことができるのではないだろうか?

茅葺屋根の山門が見える。威容を誇り、金の鯱を擁した屋根よりも、心安く、親しみを覚える。
二十二番札所 西陽山 栄福寺。真言宗豊山派 御本尊・聖観世音菩薩
この堂宇は、別名、童子堂とも言われ、府坂地内から、現在の地、水田城跡に移したと言われ、近くに、城の堀跡がある。四注屋根三間四面で、周囲に、勾欄付の橡を付け、欄間や扉には、薄肉彫り淡彩の彫刻がある。山門の仁王門は、童子仁王といい稚拙だが愛嬌のあるもので、童子の名にふさわしい仁王門です。(同寺、由緒書きより)

この堂は、淳和天皇の御弟、三品式部卿伊豫親王の菩提のため、遍照僧正がこの領主に命じて草創したという。昔、讃岐に慳貪な長者がいて、行脚の僧長者に食べ物を乞うたが、与えられず、僧は、金を払って米を求め、犬に与えた。この家の倅、犬となって、共に食い入るさまに、親が驚き悲しんだ。長者は、僧に、因果の道理を説かれ、その犬を引いて諸国の霊場を回り、同寺に来てはじめて、元の人間になつたと言う。(同寺、縁起より)

この寺に、「従軍記念碑」と銘された、茶色の長方形の石碑があつた。その碑の裏側に刻印されていた文章を紹介しよう。「日露戦争より大東亜戦争迄永福寺所属秩父観音霊場第二十二番童子堂の信徒は国難に当り第一線に勇躍奮戦し十数戸の信徒中一戸に於て三名の勇士を送り又他の一戸に於ては一名で三度も応召し砲煙弾雨の中をくぐるも一名の戦死戦病死者もなく全員帰還を得たるは之当観世音菩薩の加護によるものにして功徳の広大なるに感激しここに建碑した次第なり合掌」(ママ)従軍帰還者。26人の名が刻まれていた。

之こそ、過酷な経験の中で、よくぞ耐え抜き、生きてきたと言う実感は、もう、人間業ではなく、奇跡でもなく、仏の霊験の何者でもないと言う,深い心の底からの実感でなくてなんだろう。真剣に仏に感謝する真心が、切々と訴えてくるようだ。
「御詠歌 極楽をここで 見つけて わらう堂 後の世までも たのもしきかな」

今日の巡礼行は、ここまでは、平坦な、コースで、歩き易かった。ところが、次の札所、音楽寺に行くコースは、これまでの巡拝道とは違い、森林分け入り山の中の細く長く続く、アップダウンの激しい“難コース”だった。先を行く講員の皆さんに、付き従ってゆくため、懸命に追いかける。特に、下りの小道は、石や岩だらけで、歩きにくい。高原講元様が、見るに見かねて、ご自身の杖を貸してくださる。とにかく皆に遅れないようにと、玉砕精神にも似た、思いで歩いた。

13時55分。第二十三番札所 松風山 音楽寺に、辿りつくことが出来た。
音楽寺 臨済宗南禅寺派 御本尊 聖観世音菩薩。境内が山の高台にあるらしく、眼下に秩父の山野や町の景観が、一望に見える景勝地である。観音堂は三間四面ふき寄せ二重垂木。江戸中期の大きなお堂である。本尊聖観世音菩薩は、檜の一本造り。室町時代の作くという。また、梵鐘も、明和5年の作とされ、市の指定文化財となっている。明治17年、田代栄助を総理とする秩父事件が起きたとき、群集たちは、この梵鐘を打ち鳴らして、秩父市に雪崩れ込んだという逸話が残っている。
天長年間(824~33年)、慈覚大師は、関東霊地開拓の際、この地が優れていることを感じて聖観世音像を安置。山路を開いていた時、数多くの小男鹿が現れて大師を囲み道案内をしたため、「小鹿坂」という地名が付けられたと言う縁起がある。

秩父札所開創の十三人の聖者が、この地におとずれ、松風の音を聞き澄ましていたとき、菩薩の音楽と感じ、寺名を、「音楽寺」としたと伝えられている。このため、寺の境内の一角に流行歌手のポスターが、所狭しと貼りつけられ、ミユージシャンの名刺や、絵馬のお守りなどが、飾られている。派手な光景が見られる。

その反面、同寺に訪れる人たちには、殆ど気づかれない所に、ひっそりと、「秩父困民党無名戦士の墓」の石墓が建っている。石墓には、「われら 秩父困民党 
暴徒と呼ばれ 暴動といわれることを 拒否しない」と刻まれていた。秩父事件の無念・慙愧の思いを、毅然と主張する凛々しい精神を持った人たち。昔は、こういう人たちがいたのだと、粛然とした思いに浸された。

ここからが又大変。山道を行かねばならない。小鹿坂・巡礼みちコース。札所24番 法泉寺と道標にある。険しく蛇行する小道を上がったり下がったり、勾配のある山道は、体にこたえる。が、歩き始めて20分。国道に出る。ひっきりなしに列成して走行する自動車に、注意を払いながら、歩を進める。

15時25分、法泉寺の急勾配の階段の参道が見えてきた。もう一息。上がれるだろうか。最後の、力を振り絞る。

第二十四番札所 光智山 法泉寺。臨済宗南禅寺派 御本尊 聖観世音菩薩。
三間四面方形造りで、江戸時代中期に、建立された。唐様が、随所に配置され、妙味のある本堂。養老元年(717年)、越後の大徳・泰澄大師が、武蔵の国を巡錫しているとき夢のお告げにより、この霊地に、加賀の白山を勧請したものといい、また、霊感を受けた大師は、枯れ木を三つに切り、そのひとつで、聖観音像を刻んだという。残りの木材を村人たちに与えたところ、万病に効果があつたという。
あるとき、武州恋ヶ窪の遊女が口内の病に悩んでいたところ、秩父の修行僧が一本の楊枝を与え、加賀白山の観音を信じて用いるべし。と教えられ歓んで信心し、かの楊枝で口内をそそいだところ、忽ちにして癒えたという縁起がある。この遊女は、観音を信じて修行、毎朝怠らず食を供していたとも言う。本堂の、軒下壁に、鮮やかな青色の彩色で、華やかな花魁姿の遊女が、木の両端がささくれ立った楊枝を、いままさに、口に入れようとする瞬間を描いた、奉納画額が飾られていた。失礼を承知で、敢えて、額縁にかかれてあった名前を披露したい。「秩父 宮側(小さく縦に一字ずつ書かれている)三千女」とあった。このサインのある額は、第二十一番札所 観音寺にも、武将が矢を番え、悪鬼を退治する図柄の美しい絵が画かれた額が飾られてあった。

こうして、無事に巡拝の行を終えた。帰りは、バスにしようとしたが、運行の待ち時間が、40分近くあり、ならば、徒歩でと、西武秩父駅まで、歩いた。16時45分。到着した。万歩計を見ると、27329歩となっていた。

秩父観音霊場の巡拝行は、何時も行く度に、考えさせられることが多いうえ、新たな小さな発見があることが楽しい。俗塵渦巻いている我が家を離れた瞬間から、彼岸に行く面持ちになる。もう、私の心身は、空っぽの状態になっている。たとえ、俗事を思ったところで、もう、後には引けない。その、緊張感とこれから遭遇するであろう期待感が、快く感じる。

佛教とは、私の場合、仏になること、仏に限りなく近づくこと、そのため、仏の教えを守り、邁進すること。その意味で、弘法大師の、「我入入我」と言う思想に強く引かれるのです。このため、毎日のお勤めには・密厳院懺悔文をお唱えしてますし、十善戒も出来る限り守りたい。が、しかし容易に破ってしまいます。仏になるには億・京単位の時間を要するのでしょう.いな、生きているうちは、不可能かもしれません。が、仏の真似事ぐらいは出来るのでは?と、可能性探求と具現化に勤める日々です。巡拝行もそのひとつです。

佛教は、仏の教えを知り、仏になる努力をする。有り難い、素晴らしい教えだと思いました。これに対して、キリスト教は、神様には、絶対なれません。また、イエスにもなれるでしょうか。イエスも神の子です。神性をもったイエスですので、イエスにもなれません。一方的に、神の教えに服従するのみです。自由ではありません。ところが、仏はそう、ではありません。少なくとも、仏になると言う大袈裟な誇大妄想が許されそうな気がします。なぜなら、釈迦もれっきとした人間だったから。イエスと違って、包容力のありそうな人物と思えるからです。

ところで、これからの日本はどうなるのでしょうか。私には、どうもいまの日本は、かつて、私たちが狂奔したバブル経済時代の前兆のように思えてなりません。あの、バブル経済時代の終焉は、惨憺たるものでした。おそらく、いま、日本を担う世代の人達には、バブル経済の本質を経験してないし、知らないのかもしれません。もし、いまの時代がバブル前兆としたら、意外と、はじけるのも、早いかもしれません。そう思えてならないのです。日本のあらゆる分野で、日本人の心性の劣化が進んでいるようにしか思えないのです。

こんなことを考えていると、人間生きてゆくためには、人間を超えた何かがある。人間の力以上のものが、この国、世界、地球、宇宙、さらに、人知を超えた世界が存在すること。それは、もう、人間の脳の働きでは、捉えられないのかもしれません。既に劣化の激しい私の脳を、力の限り、働かせて、自分の力でしか考えることが出来ませんし、一人、耐えながら、努めてゆくほか人生は、考えられないのでしょう。放言をお許しください。(角田記)
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