福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・その43

2014-03-21 | 法話

第四三課 時計と椅子と袴


 ここにちょっとした面白い話があります。一人の青年がありました。ある紳士の邸宅の応接間に、面会時間と定きまっている午前中に、着物を着て、袴をはいて、椅子に腰掛けております。するとこの青年はどう見ても面会人のお客さんです。ところが、もしこの青年が夜中の十二時過ぎに、シャツ一枚で、応接間の窓から半身入れて室内を覗き込んでいたら、これは何に当るでしょうか。盗賊どろぼうと言いたいところですが、青年に盗みごころがなければ狂人か白痴でしょう。これではどう見ても面会に来たお客さんとは言われません。
 同じ青年でありながら、ある時は立派な面会人のお客さん、ある時は狂人か白痴。これはどういうところから違って来るのでしょうか。これには三つの条件について狂いがあるからです。第一は時期の不適当。第二は場所の不適当。第三は資格の不適当であります。
 青年は、午前中に来るべきものを夜中十二時過ぎに来たのは時間が不適当であります。青年が椅子に腰掛けず窓から半身覗かしていたのは場所の不適当であります。青年が着物、袴を着けずにシャツ一枚で来たのは服装の資格の不適当であります。この三つの不適当のために面会人のお客さんと同じ青年が、狂人か白痴に間違えられました。
 これによっても判るように、天地の間の万事万物はみな、この三つの条件のどれ一つかの狂いで、正不正に別れ、善悪に別れ、美醜に別れます。例えば愛について言ってみますと、一人の夫が道を歩きながら、見も知らぬ女性に愛を語ろうとしたら、これは不道徳ばかりでなく、場合によっては法律上の問題になります。これは三つの条件が狂っているからです。この夫が自宅の内で妻に向って愛を語ろうなら、無事であるばかりでなく、いよいよ家庭円満の根を深めます。これらは、あんまりはっきりし過ぎたことですから、馬鹿らしく思われるほどですが、世の中の大概のことは、これほどはっきりしていないので相当に注意しなければとんだ間違いを起します。日常私たちは物事を、大抵常識で片付けたり、あるいはいわゆるかんとかこつとかでやっております。そして、果してそれが三つの条件に嵌っていたかどうか、あとで随分危ぶまれるのであります。中には覿面てきめんその狂いが酬むくって来て、今さら後悔の臍ほぞを噛むようなことが沢山あります。三条件が不適当だったということは、その物、その事を、充分適当な時期と場所と資格において活かし切らなかったということであります。ちょうど、炭火を熾して、充分熾ききらないうちに捨ててしまうようなものです。自分に対し、社会に対し、天地に対し、このくらい生命の不経済はありません。これは何とかして生命の火を本当におこし切る工夫をしなければなりません。ここに至って必要になって来るのが智慧です。仏教は一方から言えば生命の経済学。智慧はその応用の力であります。
(時・処・機相応思想という教えがあります。正法、像法、末法の時代の時機に応じてお釈迦様は教えを説かれたということです。場所も日本は辺地であると考える思想です。教えは、時、処、相手の機根に応じて説くべし、ということでもありましょう。天台宗、親鸞聖人はこういうお考えであったと思います。お念仏は末世の日本における救いを求める手段として唯一のものというお考えと思います。見ていても仏縁に牽かれるのも色々なケースがあります。しかし幼いころお爺さんお婆さんから聞いた御寶号や念仏が何十年もあとにその人を救うことはよくあるようです、自分自身も幼いころ母が植え付けてくれた『南無大師遍照金剛』を唱えることで、後に何度も窮地を助けていただきました。)
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