福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大師の御一生

2014-03-21 | 法話
・御誕生

宝亀5年(774)6月15日、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(香川県善通寺市)、佐伯直田、玉依御前の間に弘法大師空海、幼名真魚(まお)様はお生まれになりました。
丁度この日、唐で不空三蔵が入滅されます。不空は真言密教第六祖です。大師は不空の生まれ変わりであるとされています。


・捨身誓願

七歳になられた大師は「衆生済度」を祈願され捨身ヶ嶽より身を投げられました。このとき天女が抱き留め、お釈迦様が示現されて授記されました。

・大学御入学

叔父の阿刀大足のもとで勉学に励んだ大師は15歳で京の大学、明経科に合格され、その学才には当代随一の博士達も驚くほどでした。

・出家得度
仏道に惹かれ大学を辞された大師は、畿内や四国の野山を回って修行され、太龍寺や室戸岬では求聞持法の末、奇瑞を体験されます。ついに大師は、20歳で和泉槙尾山寺において、南都西大寺の勤操大徳を戒師として出家得度されました。

・『大日経』の感得

23歳のとき、東大寺の盧遮那仏の夢告により久米寺の東塔より、真言密教の根本経典である『大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)』を感得されます。

・入唐求法

31歳にして『大日経』理解のため渡唐されます。

・ 青龍寺、恵果和上との出会い

赤岸鎮に漂着した大師一行は、当初正式な遣唐使節と認められませんでしたが、大師の奏上により誤解が晴れ、晴れて唐の都長安(西安)に入京することを許されました。

先ず大師は、般若三蔵等についてインドの梵字を会得され、ついに真言密教第七祖である青龍寺の恵果和上に遇われます。
一目大師を見た恵果和上は、速やかに曼荼羅壇に入るように告げられました。
大師は胎蔵金剛の灌頂ともに大日如来を得仏され「遍照金剛」の潅頂名を授けられ、ここに真言密教第八祖となられました。

・恵果和上、追悼の碑文

大師に密教の全てを授け終わると10日を待たずして恵果和上は入滅されました。
大師は悲しみに暮れ、仏前にて瞑想していると、そこに恵果和上の御姿が現れ、「大師が我が師である不空の生まれ変わりであるように、今度は自分が大師の弟子として生まれ変わり、絶えず密教を広めていく」ことを明かさ、千人以上にも及ぶ弟子を代表して大師が恵果和上の追悼碑文をお書きになり「虚しく往きて、実ちて帰る」と記されます。また、唐の皇帝は大師の書を称え「五筆和上」として尊ばれました。

・飛行三鈷

恵果和上より、速やかに日本へ帰って密教を広めよと命じられた大師は、20年の留学予定を短縮され僅か2年で帰国を決意されます。大同元年(806)帰国の折、明州からの出港に際して密教の根本道場を探すため三鈷杵を東へ投げられました。その三鈷杵は五色の雲に運ばれて、日本へと飛んでいき、高野山三鈷の松にかります。

・帰朝、「真言宗」の開宗

帰途の嵐も浪切不動様の御加護で波が静まり、大師は無事に日本へと帰朝されました。
大師は自らが唐より持ち帰った経典や法具等を『御請来目録』として朝廷へ奏上され、大師34歳、大同2年(807)平城天皇より「真言宗」の開宗の勅許を得ます。

・清涼殿の八宗論

弘仁9年(813)大師40歳のとき、嵯峨天皇は清涼殿で当時の仏教各宗(南都六宗・天台宗・真言宗の8宗)に宗論をさせました。大師は即身成仏の実証としてみずから大日如来のお姿をあらわされ天皇以下全員が低頭して大師を拝しました(《孔雀経音義序》《修行縁起》等)。
また、此の時、宗義を明らかにせんがため『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』を著されております。

・ 四国霊場開創
民衆の苦しみを救わんがため青年時代に山野修行された四国に、八十八ヶ所霊場を開創されます。この大師の衆生済度の願は、七歳にして捨身誓願されて以来のものでした。

・ 高野山開創

丹生高野の両明神より高野山の地を托された大師は、2匹の犬の案内のもと、高野山へと登られ、そこが大日経の説く、東西に龍の如く水脈が流れ、8つの峯に囲まれた、蓮華の台のような浄土であり密教道場を開くに適地であるとさとられました。さらにそこには大師が唐より投げられた三鈷杵がのっている松があったのです。弘仁七年(816年)、嵯峨天皇からも許可を得て、お大師さまは高野山を真言密教の根本道場に定められます。

・秘鍵大師
弘仁九年(818)大師45歳の御とき、全国各地で疫病が流行し、老若男女が病魔に冒されてしまいました。心を痛められた嵯峨天皇は、大師の勧めにしたがって『般若心経』を書写され、それに対し大師は『般若心経秘鍵』』を講じられました。すると国中の疫病は直ちに静ります。いまでも般若心経秘鍵読誦の霊験は数限りありません。


・万濃池改修

弘仁11年(821)、大師は勅命を受けて讃岐国万濃池(香川県)改修工事にとりかかられ、わずか1ヶ月の間に「万濃池」を完成させました。それ以来、「万濃池」は今なお決壊することなく、満々と水を湛えています。

・ 東寺

弘仁14年(823)大師50歳。嵯峨天皇より京の東寺を拝領されました。それまで東寺は諸宗兼学の寺院でしたが、それ以降「教王護国寺」として真言密教の道場となり、鎮護国家が祈修されました。

・神泉苑の雨請い

天長元年(824)、大師51歳のとき、全国的に旱魃にみまわれますが大師は神泉苑にて7日間の龍神の祈雨法を修され感応した龍神は甘露の雨を降らせます。

・ 綜芸種智院
天長9年(832)12月、大師59歳のとき、大師は身分を問わず無料で学べる大学、綜芸種智院を開設されました。「いろは歌」もこのときつくられたといわれています。

・ 後七日御修法

承和元年(834)、大師61歳の正月8日。7日間をかけて、宮中真言院にて鎮護国家・玉体安穏をいのる御修法を修されました。今なお東寺において正月8日から7日間、後七日御修法として続けられています。

・御遺告
承和2年(835)大師62歳の3月15日。
大師は、高野山にて弟子たちを集め、来る21日寅の刻、御入定されることを告げられました

・ 御入定
承和2(835)年3月21日寅の刻、大師は遺告どおり、62歳にて御入定なさいました。

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」との誓願のもと、御入定されている高野山奥の院から日夜衆生済度に獅子奮迅のお働きを示されています。

・御衣替え

延喜9年(921)、醍醐天皇の枕元に大師が御立ちになり、「高野山 結ぶ庵に袖くちて こけの下にぞ 有明の月」 という歌を詠まれたので御大師様が今でも衣の袖が朽ちる果てるまで衆生済度に生きておられると気が付き、檜皮色の衣を東寺の観賢に託します。 観賢はその衣を持って奥の院御廟を開けましたが、霧がかかって祖師の姿が見えません。観賢がひと目御大師様にお目にかかりたいと一心に祈ると、霧が晴れ、そこに大師のお姿が現れ、新しい衣をおきせできました。随行の弟子淳祐には見えませんでしたので 、観賢が淳祐の手を取り大師の膝にそっと触れさせると、淳祐の手にはかぐわしい香りが移り、石山寺に戻った淳祐の手に触れる経典はすべてその香りが移り「薫の聖教」と称されました。この「御衣替え」の儀式は旧暦の3月21日、大師の旧正御影供に今も行われており、またその御衣は「御衣切れ」参拝者に授与されています。


・謚号

醍醐天皇は、新しい衣とともに「弘法大師」の大師号を下賜されました。
その折、観賢僧正一行の帰りを、大師自ら奥の院の無明橋まで出てお見送りになられました。ここから今でも参拝者は帰りも奥の院の橋で振り返り、御廟に向かって合掌することになっています。
    



































空海の誕生日を宝亀5年6月15日としていますが、これは、唐の大暦9年(774年)6月15日にあたります。この日に、密経経典をセイロンから中国の唐へ最初に伝え、中国密教第六番目の祖師となった不空(ふくう)三蔵が、長安の都にある大興善寺で入滅(にゅうめつ)しています。そこで、空海が不空の生まれ変わりであるとする伝承が生まれたそうで、正確な誕生日は不明だということです。また
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