今日は大師が永忠の代わりに少僧都を辞する表を書かれた日です。
今日弘仁四年813、一月三日は大師(40歳)が永忠の代わりに少僧都を辞する表を書かれてそれが許された日です。
・日本後紀には、「四年春正月丁巳,少僧都-傳燈大法師位-永忠,請老.優詔不許之.」とあります。
・「永忠和尚少僧都を辞する表」
「沙門永忠謹んで言す。去んじ弘仁元年九月十七日の詔書に永忠をもって少僧都となせり。寵命天よりす。すなわち感惕(かんてき・感動恐懼)を懐いて誠惶誠恐。永忠枉げて程糧(俸禄)を費やして実に非才を慙ず。歴任登用事濫吹に同じ(竿を吹かぬ者が吹くものの中に混じっていること、才能なきものが有るものに混じって俸禄を受けていること)。況や如今、行年七十、筋骨劣弱にして窮途(死期)まさに迫りなんとす。残魂余喘(よぜん・死期が迫っていること)よく幾ばくの時をか得ん。すなわち僧綱の綱紀を弛し、また統理の師表を闕きてむ。伏して願ふらくは、足ることを知って罷げ帰り、静座して佛を念じて以て國恩を報ぜん。下情に任にたへず。謹みて闕に詣でて進表以聞す。誠惶誠恐。」
(永忠は平安前期の三論宗の僧。宝亀8(777)年入唐,長安西明寺に住んだ。。延暦24(805)年に帰国。永忠の去ったすぐあとにお大師様が西明寺に住まわれている。近江国(滋賀県)の梵釈寺を委ねられ,翌年,得度者ふたりを与えられ,律師となり,斎会の飲食を豊濃にするよう提言した。弘仁6(815)年に嵯峨天皇が滋賀郡韓埼(大津市唐崎)に行幸した際,護命らと迎え,梵釈寺で茶を煎じて献上した。時に大僧都。大師と親交があり,弟子に実敏がいる。
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