福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

昔から年間行事の骨格をなしていた先祖供養

2020-07-11 | 先祖供養
・昔から年間行事の骨格をなしていた先祖供養
・穂積八束は「民法出でて忠孝亡ぶ」(1891年)の中で「日本は祖先教の国なり、家制の郷なり」といいましたが、確かに先祖供養は日本人の年間行事の骨格でした。
・「耶蘇会士日本通信(17世紀)」には「両親・妻子・兄弟の葬祭は各人殆ど一生涯これを行ひ、死後三日・七日・三十日及び毎年三年・十二年・三十年及び毎月死亡の日に祭りを行う、俗人は皆父母・妻子・親戚あるが故に絶えず儀式を行ひ・・・」。

・ラフカデオハーン「神国日本・家庭の宗教」「・・死者は死んでいるとは考えられていない。すなわち依然として生前愛した人たちの間に立ちまじっていると考えられているのである。姿こそ見えないが死者はその一家を守り、その中にいる人たちが幸福であるように見守り、夜になれば燈明の明かりの中をひらひらと舞う。そして炎がゆらめくのは死者の動きなのである。たいがい死者は位牌の中に住居している。時によっては位牌が生きたものにもなる。・・彼ら死者はその祭られている場所から一家に起こるすべてをじっと目で見、耳で聞いている。彼らは家族とともに悦び、ともに悲しんでいる。彼らは家人の声をきいて喜び、家人の生活の暖かみを観じては喜んでいる。彼らは愛情を求める、しかし家人の朝夕の挨拶だけでもけっこう嬉しいのである。彼ら死者はまた食物を求める、しかしその食物から立ち上がる精気だけでもけっこう満足なのである。ただ日々の勤行をきちんとはたしてもらうことでは厳格なのである。彼らは生命の授与者であり今日という現在をつくってくれた上にその指導者になってもいる。いまの存命者が所有している一切はすべて死者からの授かりものなのである。しかしその代償に死者の求めるところの些少なのは驚くばかり。驚嘆にあたいする。死者はその家の創始者としてまた守護霊として簡素な次のような感謝の言葉を求めているだけのことである。すなわち「尊い御霊たちよ、畏れかしこんで申し上げますが、日夜お授け下さったご加護に対して私共の恭しい感謝をお受けくださるように」・・不徳な行いをして死者を辱めたり、悪行を働いて死者の名を汚したりすることは重罪なのである。彼らは民族の道徳的経験を代表している。そこでその経験を否定するものは何人にしろ死者を否定することになってそういうものは畜生と同列にあるいはそれ以下い落ちることになる。彼ら死者はまた不文の法律を社会の慣習を万人が万人への義務を代表してもいる。それでそれを犯すものは死者に対して罪を犯すこといなってくる。そして最後に死者は目に見えない世界の神秘を代表している。それで神道の信仰ではとにかく死者はすくなくとも神であることになる。・・古い神道のおしえによると死者は天地の支配者になる。死者たちは自然界の一切の出来事―風、雨、潮の流れ、発芽や成熟また生成や凋落など、およそ好ましいことや恐るべきことの一切の原因なのである。・・そして民族存亡のときに際会すれば死者は祈願を受けて一団となり外敵に当たるために援助する・・・こんなわけで信仰者の目から見れば各家庭の亡霊の背後には数知れぬ神々のはかりしれない霊妙な影のような力がひろがっているのである。・・・大宇宙には亡霊が充満しているということになる。・・家族それ自体がもうすでに一つの宗教的な塊である。・・家族の一人一人がそれぞれ永久に亡霊の監視下にあると思っている。亡霊の眼が行動を一々見ている、亡霊の耳が一語残らず聞いている。思っていることもその行為同様、死者の眼にはみんな映ってしまう。こうなると霊のおいでになるところでは心情も純潔になり心意も抑制されるにちがいない。おそらくこうした信仰の影響が何千年もの間、不断に人の行為に作用して日本人の行為の美しい面を作り上げるにあずかって力があったことだろう。・・」

・杉本鉞子(すぎもと えつこ、1873年(明治6年)- 1950年(昭和25年)6月20日)『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』はアメリカで初の日本人ベストセラー作家。コロンビア大学の初の日本人講師)が回想する長岡藩家老稲垣家の盆行事をさきの「逝きし世の面影・渡辺京二」で引用しています。「数日前から準備が始まる。庭木生垣を刈りそろえ庭石を洗い、床下まで掃き清める。・・仏壇は行事の中心である。当日爺は夜が明けぬうちに蓮池へ降りてゆく。これは朝日が差し始める光と共に華が開くからである。仏壇には茄子や胡瓜で作った牛馬が供えられ、蓮の葉に野菜が盛られる。女中が盆灯篭を高々と掲げる。・・黄昏には一家そろって大門のところで、二列に分かれて精霊を待つ。街中が暗く静まり返り、門ごとに焚く迎え火ばかり。・・ひくく頭を垂れていますと待ちわびていた父の魂が身に迫るのを覚え、遥か彼方から蹄の音が聞こえて白馬が近つ゛いてくるのが判るようでございました。・・」とあります。



・五来重「先祖供養と墓」「日本の宗教は、霊魂の宗教です。日本の宗教はまず死者の霊から出発して、それが清められて祖霊になり、全く浄化されて神になるという、死霊・祖霊・神の宗教です。また、自然崇拝の宗教です。山河草木鳥虫動物は、すべて魂を持っていると考えますので、日本人はそういうものを供養するという考え方があります。虫供養や牛馬供養があったり、木を供養したりするのは、一種のアニミズムですが、日本人にはそういうものが源泉にあります」
・五来重『熊野詣』「いまでは墓にまつる死霊の浄化されたものが、寺でまつる祖霊であり、祖霊の昇華したものが神霊として神社にまつられたという霊魂昇華説は、民俗学や宗教学ではうたがうもののない仮説である。」
・日野西真定「高野山の秘密」「両墓制の時代には、遺体は山の向こうの山麓に埋められ、墓は生活空間に隣接して見える山の斜面に設けられます。そしてこの近辺に寺ができます。この寺で死んだばかりのご先祖さんの魂が清められ、山の頂上には神社がありました。ここが清まった御先祖さんの魂が集合する場所だったのです。つまり氏神様です。・・そしてここに循環が生まれます。山の麓の生活空間にいる住民は絶えず、墓や神社を仰ぎ見て拝みます。さまざまな厄災から身を守り農作物をもたらしてくれる氏神様を頼りにしているわけです。節目節目は氏神様のためのお祭りが行われます。氏神様はもとはご先祖様ですからその魂を清めるための先祖供養も丁寧に行われます。一方死んだものからすると、子孫を守る性格のものに誰もがなれるわけです。そこの生活空間にいるものは、死んだらご先祖様の塚に入り、供養を受け、それがすむと今度は氏神様の世界に入って子孫を守ることができるわけです。だから生きている者にとっては死んでも楽しみです。・・将来的にはその地域の人を救う仲間になって永遠に生きることができるわけです。最後には人を救うというのが先祖供養なのです。・・」
・柳田国男は佛教嫌いであったといいますがその柳田は「日本民俗宗教の体系化を図り、盆・正月・卯月八日及び山の神・田の神・屋敷神の諸神を氏神=先祖神との関係に於いて論じ、莫大な柳田民俗学を練った、諸信仰が先祖崇拝を軸として展開しているとの意識である。(坂本要「先祖崇拝と葬式佛教」)」と言われています。つまり日本人のバックボーンは先祖崇拝であるということです。
・また梅原猛は「あの世と日本人 浄土思想の諸相」で
「『先祖の話・柳田国男』(注)は終戦直後、日本人のアイデンティティの喪失に 深い不安を感じた柳田にとって「日本人のアイデンティ ティーは先祖崇拝であった。先祖崇拝を失ったら、もう日本人は日本人でなくなる、という警告としてこの本は書かれたのである。」
と言いました。
「先祖の話」柳田國男」(昭和21年4月)です。
「 正月の十六日を以て先祖を拝むにとしている例は極めて多い。先祖正月といふのはこの日のことで先祖の墓の前に集まって酒盛りをする風がもとはあった。・・日本人の志としては、たとへ肉体は朽ちて跡なくなってしまほうとも、なほ此の国土との因縁は断たず、毎年日を定めて子孫の家と行き通ひ、幼い者の段々に世に出て働く様子を見たひと思っていたろう・・。

もとは明らかに新年の魂祭りであったのだが・・徒然草(14世紀末)の「晦の夜いたう暗きに・・・亡き人の来る夜とて、魂祀る業は此頃都には無きも東の方には猶ほすることにてありしこそ哀れ慣れなりしか。」・・それから三百何十年かの前には「亡き人の来る夜聞けど君もなし」といふ和泉式部の歌、
「魂祭る 年の終わりになりにけり 今日にやまたも あはんとすらむ(『詞花和歌集』)といふ平安中期の曽根忠義の歌がある。
信仰の自由の原則に基ずいて仏法を出離してしまった家々の先祖祭(お盆)がこれからどうなっていくだろうといふことである・・・永い民族の歩みを跡つ゛ける為にはたとへ外来信仰(仏教)の習気が濃く浸潤して居ようとも、なほ國民の大多数層に遍く渡って居るものを尊重しなければならぬ。
日本人が最も先祖の祭りを重んずる民族であったことは夙に穂積陳重先生の著述などもあって汎く海外の諸國に知られて居る(穂積陳重「祖先祭祀と日本法律」に「祖先の霊を礼拝し、これに酒饌を供えて、これを祭るの習俗は、その由って来る所、祖先に対する敬愛心に存して、恐怖心に縁由するものにあらざるなり」)。

吉野地方・河内南部の山村などには、人がなくなって通例は三十三年目、稀には四十九年五十年の忌辰にとぼらひ上げまたは問ひきりと称して最終の法事を営む。その日を以て人は先祖になるといふのである。・・北九州のある島などには三十三年の法事がすむと人は神になるといふ者もある。・・つまりは一定の年月を過ぎると祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認めらていたのである。

氏神は清く祀らねばならぬ先祖のみたまの為に屋外の一地を點定したことが今ある十万余の國内の御社の最大多数のものの起こりであったといふこと・・・家々の神棚みたま棚とは同じ一つの系列の上に立つ・・
墓所が又一つの屋外の祭場であって是と氏神の社とは神仏の差では決してなく、もとは荒忌のみたまを別に祭ろうとする先祖の神に対する心つ゛かひから考え出された隔離ではなかった・・。三十三回忌のとぶらひあげといふことは・・それから後は人間の私多き個身を棄て去って先祖といふ一つの力強い霊体に溶け込み自由に家の為また國の公の為に活躍しうるものと考へていた。それが氏神信仰の基底であった。
私などの力説したいことはこの曠古の大時局に當面して、目覚ましく発露した國民の精神力、殊に生死を超越した殉國の至情には種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制,わけても常民の常識と名くべきものが隠れて大きな働きをして居る・・。人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に信仰の基底がなかったといふことは考へられない・・
信仰はただ個人の感するものではなくて寧ろ多数の共同の事実だったといふことを今度の戦ほど痛切に証明したことは曾ってなかった。

特に日本的なものを列挙すると、
第一には死してもこの國の中に霊は留まって遠くへは行かぬと思ったこと、
第二には顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭りだけで無しに何れか一方のみの心ざしによって、招き招かるることがさまで困難で無いやうに思っていたこと、
第三には生人の今はの時の念願が死後には必ず達成するものと思って居たことで、
是によって子孫の為に色々の計画を立てたのみか更に再び三たび生まれ代って同じ事業を續けられるもののごとく、思った者の多かったといふのが第四である。
富士や御嶽の行者などにも、死後の年数と供養とによって段々と順を追うて麓から頂上に登っていきしまひには神になるといふ信仰が今も行われて居る。
(葬法は)人の行かない山の奥や野の末にただ送って置いてくればよかったのである。・・そうして同時にみたまは日に清く日に親しくなって自在に祭りの座に臨み、且つ漸々と高く登って遥かに愛着の深い子孫の社会を眺め見守ることができるやうになる・・。

家に先祖の事業がなほ傳はり社会が前賢の遺烈を無言の間に受け継いでいるのがもしも悉皆、後の人だけの手柄ではないとすると、・・そうして是が又國土を永遠の住かと信じて居た一つの民族の本来の姿ではないかと思ふ。」
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