福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

憧れの老僧の描写・・4

2018-08-22 | 法話
憧れの老僧の描写・・4
室生犀星「性に目覚めるころ」には犀星の老父がお茶を嗜む様子が描写されていて実父を彷彿とさせます。
 「私は七十に近い父と一しょに、寂しい寺領の奥の院で自由に暮した。そのとき、もう私は十七になっていた。
 父は茶が好きであった。奥庭を覆うている欅の新しい若葉の影が、湿った苔の上に揺れるのを眺めながら、私はよく父と小さい茶の炉を囲んだものであった。夏の暑い日中でも私は茶の炉に父と一緒に坐っていると、茶釜の澄んだ奥深い謹しみ深い鳴りようを、かえって涼しく爽やかに感じるのであった。・・・
 父は童顔仙躯とでもいうように、眉まで白く長かった。いつも静かな看経のひまひまには、茶を立てたり、手習いをしたり、暦を繰ったり仏具を磨いたりして、まめまめしい日を送っていた。若いころに妻をうしなってから、一人の下男と音のない寂しい日をくらしていた。茶を立てる日になると、井戸水はきめが荒くていけないというので、朝など、
「お前御苦労だがゴミのないのを一杯汲んで来ておくれ。」
 私がうるさく思いはせぬかと気をかねるようにして、いつも裏の犀川の水を汲みにやらせた。・・ 父は私の汲んで来た一番水を毎時いつもよく洗われた真鍮の壺に納めて、本堂へ供えた。それを日の入りには川へ流すのが例になっていた(寺で仏前にお茶をお供えするのをお茶湯おちゃとう、といい下げたら川に光明真言を唱えて流し川の生物の供養をすることになっています)。あとの水は、茶の釜にうつした。午前九時ごろになると、釜は、父の居間で静かに鳴りはじまって、ことに冬など、襖越しにそれが遠い松風のように、文字通り時雨の過ぎ去ってゆくような音を立てた。
 そういうとき、父は一つの置物のように端然と坐って、湯加減を考えるように小首をかたげていた。夏は純白な麻の着物をまとうて、鶴のように痩せた手を膝の上にしている姿は、寂しさ過ぎて厳しく見えた。時時、仲間の坊さん連のやってくる外は、たいがい茶室で黙ってくらすことが多かった。」
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 蒙古襲来時の温故知新・・その9 | トップ | 今日は十斎日で六斉日です »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事