1,新義真言宗の開祖興教大師覚鑁上人は「末代真言行者用心」でこうおっしゃってます。
(なかなか効現のあらわれないのは、仏様がその人の信心を試されている場合、本人の宿業が重い場合、かすかに成就しているが本人が分かってない場合、しばらく魔が隠している場合など、があるが深い信心をもって修行を続ければ必ずお蔭がある。)
(「経にいはく(大日経のこと)いかなる心をおこすもの必ず悉地を成ずるや、いはく深信あるもの能く悉地を得、何なるをば深信という、いはく久々に修行して法験を得ずといえども疑慮を生ぜず退心を生ぜざるなり、このごとくの人必ず定んで悉地を成就す、あるは本尊、行者を試さんが為の故に、あるは諸天等その信心の浅深を試さんがために暫く以って之を抑うるがゆえに、あるは宿障重深なるがゆえに暫く不成に似たりといへども、冥(かすか)に能く成就すれども自ら知らざるがゆえに、あるいは魔旬妨げをして暫く覆蔽(ふくへい)するがゆえに、このごとく等の種種の因縁あるが故に疑怠すべからず」 -末代真言行者用心))
2,「加持祈祷の原理と実修(三井英光)」にも「・・時に思いがけない障碍のあらわれることがある。・・むしろ障碍があるほどますます(関係者・行者は)懺悔し、(行者は)修法すればかえって災い転じて大きな福となるのである。・・仏様は真の御親だから叱られても叱られても寄り添って拝みますます修行にはげめばついにはお蔭は雨の如く降ると知るべきである。」とあります。
3,・法然上人「百四十五箇条問答」「一。申候事のかなひ候はぬに、仏をうらみ候、いかが候。(仏様に願をかけても叶わない時仏様を恨み申し上げることがありますが、いいのでしょうか?)
答。うらむべからず、縁により信のありなしによりて利生はあり、この世、のちの世、仏をたのむにはしかず。 (願いが叶わぬからと言って仏様を恨んではなりません。縁のあるなし、信心のあるなしによって霊験の有無が決まります。我々はこの世でもあの世でも仏様を頼るしかないのです。)
4,遠藤周作は「私にとって神とは何か」という本で「(祈りが叶わなくて)神も仏もない、と思った瞬間から本当の信仰は始まる」と言っているようです。
5,夢中問答集(無窓疎石)
「佛菩薩の真の功徳
問、佛菩薩は皆一切衆生の願を満たし給はんといふ誓ひあり。・・・しかるに心を尽くして祈れどもかなふことの稀なることは何ぞや?
答。・・・薬師如来は衆生の病を除滅せむと誓ひ給へども世間を見るに病者ならぬものは少なし。普賢菩薩は一切衆生に随順して給使せむと誓ひ給へども世間を見れば従者一人もなくして卑しき人も多し。・・(しかし)仏菩薩の誓願様々なりといへどもその本意を尋ぬればただ無始輪廻の迷衢を出でて本有清浄の覚岸に到らしめむためなり。しかるに凡夫の願ふことは皆これ輪廻の基なり。かようの願ひを満つるを聖賢の慈悲といはむや。しかれども先ず衆生の性欲に随ってやうやく誘引せむためにかりに所願をかなふることあり。若し人世間の所願の満足せるに誇りていよいよ執着を生じて放逸無慚愧の心を発すべきものには、その所願をかなふることあるべからず。・・されば末代の凡夫の祈ることのしるしなきことこそ、しるしなりけれ。・・・ただ無上道を祈り求めばやがて正覚を成ずるまでこそなくとも、その自善根の力により仏神の加被力(衆生に与える力)によりて災難もおのずから除こり、寿福もつつがなきほどの得利はただ今生のみにあらず、生々世々までもあるべき、・・・
もし人正念に住して或ひは道行を成ぜむがため、或ひは他人を利益せむがために現報を祈り変へむと思ひて仏力・法力によりて至誠心にて修せば定業なりとも必ず転ずべし。・・若し人凡上の執着によりて命を延べたく福を保ちたき故に祈るならば、かやうの欲心は仏心と冥合せざるゆえに感応あるべからず。・・・
6,福聚講の松田京子さんが以前「お蔭の出方について」という投稿をしてくれています。松田さんがお蔭を受けた秘訣です
「1、祈り続ける。
2、苦しいことが続くことを恨まない。
3、自分自身が変わる。」
この三つの考えを理解しようとしない人がいましたが、その人の場合、事態はより悪化しました。
松田さんの記事を紹介します。
「人それぞれにお蔭の出方は違うとおもいます。私の場合は『祈っていてもちっとも変わらない、進んでいない』と感じることもしばしばでした。
毎週護摩に行き他の人はすぐにお蔭が出るのに私の場合満願の28回を過ぎてその倍以上拝んでもお蔭は出ませんでした。
少しずつ変わって出てくることもありましたが、今回大きなお蔭が出るのには五~六年はかかったかなと思います。いや七~八年かもしれません。
それも祈っていても、さらに最悪のひどい状態が何度となく私に押し寄せました。
ではどうしたか?というと泣いて泣いて、仏様の前で文句を言い、『もう拝むのをやめます』と怒ってみたり・・。しかしまた仏様の前に戻ると云う繰り返しでした。
ではなぜ何度も仏様のまえに戻り、最終的にお蔭を頂けたのか?と思われるでしょうが
やはりどんなことがおきても仏様を信じているのです。反抗したり、泣いても仏様を信じていて拝むのをやめなかったのだと思います。じゃあどうして信じられるのかと云いますとどうしても幸せになりたいからです。私の人生は八方塞がりでどこにも出口が見えなかったのです。そしてそのころ高原和尚様に出会いました。二~三年それもお願いしたと思います。一人でずっと苦しくて助けてほしいといのり続けていましたが和尚様に出会い一緒に祈っていただけました。私が悩んでいるといつも言葉をかけてくださいました。まるで仏様が話しかけて下さっているように・・・。
そのうちまた苦しいことが起こりました。『本当に拝むのをやめる』とこんどは泣いて仏様に言いました。本気でした。そうするとそのうち職場にチベットで密教修行していたという外人が現れました。彼女に『もう願いは叶わないので祈ることはやめるつもりです』というと彼女は『祈るのはやめないでほしい』と云いました。それでやめないで続けられました。
仏様は常に私をご覧になっています。しかし現実がつらすぎてうけいれることが大変なことがあるのです。わたしも苦しむだけ苦しんで泣いて立ち止まりまた仏様の前に戻っていきました。祈りをやめてしまうと本当に出口はみつからないと私は知っていたのだと思います。
『何年もいのり続けて何が変わったのか』と聞かれると『私自身が変わった』といいます。毎日一歩ずつです。仏様へ祈っているとすぐには分かりませんが漢方薬を飲んでいるようにすこしずつおさまってきます。そして元気になっていきます。
私はいつもお不動様を拝んでいますが最悪の状態を経ていつも思った通りの結果にかなえていただいています。お不動様は迷える衆生を助けて下さる仏様であることが今までの経験でよくわかりました。親がこの子のためにならないと思うとすべてに手をかしてあまやかすということはないようにあえて厳しくすることがあるでしょう。だからこそ親の愛といえるのです。このようにして仏様も見守ってくださっています。
仏様は衆生を助けるためにいらっしゃる以上必ずお蔭は出ます。
高原和尚様に初めてお会いしたとき『もう大丈夫です。大船に乗ったつもりでいなさい。仏様がついていますから・・』とおっしゃって下さいました。私が迷ってもまた仏様の所に戻っていけるのはこのお言葉があったからではないかと思います。
今回高原和尚様に原稿を書くように頼まれて書きましたがこうして読んで頂いている方々に感謝しております。あなたの船には仏様が一緒に乗っています。私もつい信じられなくなって船から降りて一人で泳ごうとしてすぐに苦しくなって溺れてしまいます。そんな私を仏様は何度も船に連れ戻してくださいました。
いのり続けてください。途中で嵐に遇い、雨が降り、暑さにくるしい日もあると思います。でも仏様に今出会えているのなら一緒に舟にのってくださってるのです。一人ではありません。自分が思い描いている幸に必ずたどり着けるように導いて下さいます。
私なりに体験した三つのお蔭の出るポイントです。
1、祈り続ける。
2、問題(苦しいこと)を恨まない。
3、自分自身が変わる。
この3つが大切と思います。
お蔭の出る期間や出方は本人や事柄によってまちまちです。先祖代々、両親など仏様に祈り続けてきた家の方は貯金があるのと同じですぐに願いが叶うかもしれませんが、そうでない方は時間がかかることもあるでしょう。
要は継続して祈り続け、感謝を忘れないことだと思います。(松田)」
7,最後に、「どうしてもお陰を受けられない、拝めばかえって運勢が悪くなるばかり」と思えるときは、アウシュビッツを生き延びたフランクルや宮本武蔵や撃墜王坂井海軍中尉の言葉があります。
フランクルは「人生から何をわれわれはまだ何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」と言い、武蔵は「神仏を尊び、神仏を頼まず。」といい、撃墜王坂井海軍中尉は「神仏があるなら自分がどういう働きをするかご照覧あれ」といいました(注1)。
(注1)(昭和13年の初陣より敗戦まで零戦に乗って200回以上の空中戦に参加、敵機64機を撃墜し、零戦の撃墜王の異名を取り、この間1度も部下を戦死させなかった。坂井三郎(2000年9月22日没)の言葉)「どういう働きをするか見て下さい。守ってくれなどと申しません。神というものがあれば、ご照覧あれ。最善を尽くして自己の任務を果たします。決して勝たしてくれとか敵の弾が当たらないようになどとは願いません」