福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本、岡本かの子・・その6

2014-02-12 | 法話

第六課 人情に殉じ、人情を完うす


 ある人が、あるところへ後妻を世話しました。ところが、その媒酌人なこうどのところへ、後妻に世話した女が泣き込んで来ました。
 その媒酌人はなかなか苦労をして、人情にも道理にも通じたところがありました。その場で次のような対話が交わされました。
「まあ、そう泣いてばかりいないで、理由わけを話しなさい。何かね、やっぱり御主人との仲がしっくり行かないかね」
「いいえ、主人は大層良くしてくれますので有難い幸福しあわせなことだと思っております。しかし、前の先妻かたの遺のこして行かれた娘さんが一人、どうにも私に懐かないのでございます」
「ふーむ。どういうふうに懐かないんだね」
「わたくしが全く実の母親の気持ちになり切って、世話をしてやりますのに、振り切って、わざとよそよそしくするのでございます。まるで面当てがましいような素振りさえするのでございます」
「どんなふうにだね」
「今日のお昼に、わたくしが、親身のような愛情を示そうと、試しに娘の食べかけの残したお菜かずに箸をつけようとしますと、娘はその皿を急に引ったくりまして、お母様、これは私の食べかけでございます。汚のうございます。お母様のは、そちらにちゃんとございますと言って、その食べかけのお菜を猫にやってしまいました。これでは、まるでわたくしに恥を掻かせるようなものではございませんか。その前にも、わたくしは、わたくしの少し派手過ぎた着物を娘に仕立て直してやりましょうとしますと、どうしても断って仕立て直させません。これでは全く継母ままはは扱いをまざまざ鼻の先に見せつけられるようなものでございます。わたくしはもう堪りません。それで御相談に参ったのでございます」
 これを聴いて暫時しばらく黙っていた媒酌人が突然こう訊ねました。
「ちょっと伺うが、その娘さんは、あなたが生んだ娘さんかね」
 あんまり馬鹿な訊ね方なので、後妻の女はむっとしました。
「――冗談仰しゃらないで下さいませ。生みの娘なら、なんでこの苦労はいたしましょう。なさぬ仲には極まっております。あなたも妙なことを仰しゃいます」
「ふーむ。やっぱり継子ままこなのか」。媒酌人は念を押すように、そう言って、それから次のように言いました。
「まあ、落付いてよく聴きなさい。継子なら継子のように扱いなさるが当然だ。それを実の子のようにしようとしなさるから、そこに無理が出るのだ。だが誤解をしては困るよ。継子だからとて世間によくある継子苛めをしなさいと言うのではないのだよ。あれは継子の扱いではなくて、鬼の扱いだ。人間の扱い方ではない。私の言う継子の扱いというのは、兎に角、自分の生んだ子供ではない。だから親身の母子おやこの情の出ないのは当り前だ、それを無理に出そうとすれば、自然、どこかからお剰銭つり(反動しかえし)が出て来るにきまっている。だから、その無理は止めるとして、その代りに、人様の生んだ子だ。しかもその家にとっては嘗て心棒であった先妻の生んで遺していった遺児わすれがたみだ。そこをとっくり胸に入れて、大事な品物を預ったつもりになりなさい。元来、大事な預り物ゆえ、少しくらい嵩張ろうが、汁が浸潤にじみ出ようが、そっくりそのまま大事に預って置く。それともう一つ、こういう気持ちが肝腎だ。なにしろその娘は、実母のない孤児みなしごなのだ。孤児といえば女の身として誰でも同情が湧く。あなたは、その娘さんを身内のものとも何とも考えず、ただ世の中に一人淋しく、母に死に別れた憐れな孤児が居るというところへ眼をつけて、労いたわってやりなさい。孤児とある以上、多少、捻くれや僻みがあっても致し方はない。その児の罪ではなく、不運の罪だ。せいぜいそう思って面倒を見てやる。まあ、その辺のところで辛抱しなさるんだね」
 後妻の女は、まだ本当には腑に落ちぬらしく、はっきりしない顔付きで帰って行きました。
 それからその女は、しばらく媒酌人の家へ来ないので、媒酌人の家ではどうしたのだろうと噂などしていましたところへ、ひょっくり、土産物なぞ持って訪ねて来ました。媒酌人は訊ねました。
「継子の様子はどうだね」
 すると後妻の女は不快な顔をして、
「継子なんて言葉をお使いなさらないで下さいましよ。この頃はもう親身の親子以上」
 そこで媒酌人は頭を掻いて言いました。
「ほうこれは失言した。失礼失礼」
 後妻の女は朗らかな声で家庭のこと、世間のこと、何気なしに面白そうに語って帰って行きました。

 七里恒順という幕末から明治へかけて生きておられた浄土真宗の名僧があります。
 その人の言葉に、
「月を盥の水に映すのに、映そう映そうと焦って盥を揺り動かしたら、月影は乱るるばかりである。何の気なしに抛って置くと、いつの間にやら月は盥の中に丸く映っている」
 普通のことのようですが、本当の体験を、月と盥に事よせて語っているので、普通の中に言い知れぬ趣があります。
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