福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本、岡本かの子・・その7

2014-02-13 | 法話

第七課 性質を矯め過ぎるな


 人生の使い方に二とおりあります。そのいずれへも極端にかたより過ぎると、結局その人の生涯が駄目になってしまいます。今、極端に性質を矯ため過ぎる方を述べてみます。
 私たち活花いけばなを活けるときによく経験することですが、一本の枝を取ってみて、この枝振りも面白くない、あの枝振りも面白くないと言って切り捨ててしまいます。枝ばかりでなく、花も同じことです。だんだん鋏み捨てて行くと、すっかり裸にしてしまって、とうとう活けられなくなります。これを活花の素人と言います。
 人間にしても同じことです。どうも私は瞋おこりっぽくていけないからとて、その感情の根を押し潰し、また私は欲望が多過ぎて苦しいからとて、その根を断ち、また私は子供らしくて困るからと、その根を刈ります。結局生きているのか、死んでいるのか判らないような人間になって、世の中の役に立たなくなってしまいます。ちょうど、前の活花の場合と同じです。前の場合を活け花の素人と言うなら、これは人生の素人であります。
 すべていけない方に目を付けてこれを刈込んでしまう。これでは誰でも、何事でも、痩せて、枯れて、滅してしまう一方です。仏教では、この方法を「灰身けしん滅智の空寂」(肉体も精神も罪悪の基として否定する教えすなわち小乗仏教)と言って、肉体も精神もみな罪悪の基として否定するやり方で、本当の仏教(大乗仏教)からは、これを低級な仏教すなわち小乗仏教として嫌います。この方法では人生の理想の花を咲かす根本の種子を潰してしまいます。
 この流儀で人生に処すると、世の中や人間のあらばかり見え、だんだん浮世が嫌になり、自分独り孤独を楽しむようになって、人交際ひとづきあいが出来にくくなります。
 子供を育てるにしろ、人を使うにしろ、相手をすっかり萎縮いじけさしてしまって、その特色を引き抜いてしまいます。
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