御即位灌頂 冨田斆純(11代豊山派管長)等より・・・3
(第三章略)
第四章、皇室と密教
・・上代は皇室の仏教といったほうがよいくらいである。・・聖徳太子は十七条の憲法を定められて、「二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。」と仰せられてから仏教はまったく我が国の国教として取り扱われたのである。仏教が国教として取り扱われた結果が物質的に表れたのが奈良大仏の建立である。この大仏建立には聖武天皇自ら御衣の袖もて土を運び給ひ、造像すでになりて塗金の黄金を金華山より得たまへるや、皇后皇太子及び百官を従へ大仏を拝して仏像に啓して自ら「三宝の奴」と称し給へるのみならず、総ての荘厳漸くなるや、「代々の國王をもって、我寺(東大寺)の檀徒となす。もし我寺興復せば天下興復せん。我寺衰弊 せば天下衰弊せん。」と全く仏教と国家とは盛衰消長を共にすべきことを立誓されたのである。
我が宗祖弘法大師は不出世の偉人である。奈良朝における皇室中心の仏教をして国民中心の仏教たらしめんと努力せられ、遠く高野山にその法城を構えられたのである。・・・弘法大師は嵯峨天皇に特に帰依されたので宮中真言院の後七日御修法は承和二年正月八日より開白された。弘法大師はその年三月二十一日に御入定されるや勅使弔問して「真言洪匠、密教宗師、邦家憑其護持。動植荷其攝念云々」(『続日本後紀』巻四承和二年(八三五)三月庚午《廿五》◆庚午。勅遣内舍人一人。弔法師喪。并施喪料。後太上天皇有弔書曰。真言洪匠。密教宗師。邦家憑其護持。動植荷其攝念。豈図・・未逼。無常遽侵。仁舟廃棹。弱喪失帰。嗟呼哀哉。禪關僻在。凶聞晩伝。不能使者奔赴相助茶毘。言之為恨。悵悼曷已。思忖舊窟。悲凉可料。今者遥寄單書弔之。著録弟子。入室桑門。悽愴奈何。兼以達旨。』法師者。讃岐国多度郡人。俗姓佐伯直。年十五就舅従五位下阿刀宿祢大足。読習文書。十八遊学槐市。時有一沙門。呈示虚空藏聞持法。其経説。若人依法。読此真言一百万遍。乃得一切教法文義諳記。於是信大聖之誠言。望飛焔於鑽燧。攀躋阿波国大瀧之嶽。観念土左国室戸之崎。幽谷応声。明星来影。自此慧解日新。下筆成文。世伝。三教論。是信宿間所撰也。在於書法。最得其妙。與張芝齊名。見称草聖。年卅一得度。延暦廿三年入唐留学。遇青龍寺恵果和尚。禀学真言。其宗旨義味莫不該通。遂懐法宝。帰来本朝。啓秘密之門。弘大日之化。天長元年任少僧都。七年転大僧都。自有終焉之志。隠居紀伊国金剛峯寺。化去之時年六十三。)と仰せられたのを見てもいかに朝廷より尊せられたかが知れるのである。・・弘法大師の弟子たちも・・・真済僧正は文徳天皇(第55代・9世紀中ごろ)に、真雅僧正(法光大師)は清和天皇(第56代・9世紀後半)に重んぜられるやうになって、宇多天皇(第59代・9世紀後半から10世紀初め) にいたっては弘法大師に絶大な信仰を捧げ、ついに昌泰二年十月(1119年)に益信僧正(本覚大師)を戒師として落飾せられ、太上天皇の尊号を辞して法皇と称し、延喜元年十二月(902年)益信僧正を大阿闍梨として真言両部の秘密灌頂を伝承せられたのである。仁和寺に御室をいとなまれそこに居住せられて自ら誓っていはく「我昔、人君として在り、万性悪をなして我身に帰する、今仏子となって一身を以て善に帰する」と仰せられて全く真言密教の生活に入りて、延喜八年(908年)には真寂親王に秘密灌頂を授け、同十八年寛空僧正に付法瀉瓶し、専ら密教の研究と大法の弘傳とを楽しみとせられたのである。この時に小野の聖寶(理源大師)がでて在俗的密教の修験道を再興したが、一世の帰敬を受けておおいに進展し、これらの事情が総合して遂に「琴絃旣絕、遺音更淸。蘭叢雖凋、餘香猶播。故贈大僧正法印大和尙位空海、鎖弃煩惱、抛却驕貪、全三十七品之修行、斷九十六種邪見。受密語者、滿於山林、習眞趣者、成於淵藪。況太上法皇、久味其道、追念其人。誠雖浮天之波濤、何忘積石之源本。宜加崇餝之諡、號弘法大師。」(琴絃きんげん旣すでに絕たえ、遺音いいん更さらに淸きよし。蘭叢らんそう凋しぼむと雖いえども、餘香よこう猶なほ播しく。故こ贈ぞう大僧正だいそうじょう法印ほういん大和尙位だいわじょうい空海くうかい、煩惱ぼんのうを鎖弃しょうきし、驕貪きょうどんを抛却ほうきゃくして、三十七品ほんの修行しゅぎょうを全まっとうし、九十六種しゅの邪見じゃけんを斷たつ。密語みつごを受うくる者もの、山林さんりんに滿みち、眞趣しんしゅを習ならふ者もの、淵藪えんそうを成なす。況いわんや太上だじょう法皇ほうおう久ひさしく其その道みちを味あじわひ、其その人ひとを追念ついねんす。誠まことに天てんに浮うかぶの波濤はとうと雖いえども、何なんぞ石いしを積つむの源本げんぽんを忘わすれん。宜よろしく崇餝すうしょくの諡おくりなを加くわへ、弘法こうぼう大師だいしと號ごうすべし。延曆二十一年十月 扶桑略記)とて弘法大師の大師号は延喜二十一年(922年)に醍醐天皇より諡せられたのである。・・宇多法皇が密教的生活をいとなまれたといふ事実は密教が国教的資格を表明したと同一結果を生じたのである。・・仁和寺の如きは皇族で法統を継承し、京都の天地は金剛鈴が朝夕響き、護摩の煙は東西にたなびくといふようになって(朝廷の儀式より、庶民の小宴に至るまで)密教的ならざるものはなく、現世祈祷仏教の最盛期を現出したのである。如上のありさまであるから後三条天皇が即位式で真言密教の源意によりて智拳印を結び給ふたといふのも当然の結果と云はねばならない。後に至って後宇多法皇が、真言密教の根本道場たる東寺に二五条の遺詔し給うた中に「夫れ以てみれば我が大日本国は法爾の称号、秘境に相応せる法身の土地なり。故にわれ後に血脈を継ぐの法資、天祚を伝ふるの君主、盛衰を同うすべく、興替を供にすべし。我法真言法断廃せば皇統共廃せん。我寺(東寺)興隆せば皇業安泰ならん。努々我此意に背きて悔ゆること莫れ。」と仰せられた。・・
(第三章略)
第四章、皇室と密教
・・上代は皇室の仏教といったほうがよいくらいである。・・聖徳太子は十七条の憲法を定められて、「二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。」と仰せられてから仏教はまったく我が国の国教として取り扱われたのである。仏教が国教として取り扱われた結果が物質的に表れたのが奈良大仏の建立である。この大仏建立には聖武天皇自ら御衣の袖もて土を運び給ひ、造像すでになりて塗金の黄金を金華山より得たまへるや、皇后皇太子及び百官を従へ大仏を拝して仏像に啓して自ら「三宝の奴」と称し給へるのみならず、総ての荘厳漸くなるや、「代々の國王をもって、我寺(東大寺)の檀徒となす。もし我寺興復せば天下興復せん。我寺衰弊 せば天下衰弊せん。」と全く仏教と国家とは盛衰消長を共にすべきことを立誓されたのである。
我が宗祖弘法大師は不出世の偉人である。奈良朝における皇室中心の仏教をして国民中心の仏教たらしめんと努力せられ、遠く高野山にその法城を構えられたのである。・・・弘法大師は嵯峨天皇に特に帰依されたので宮中真言院の後七日御修法は承和二年正月八日より開白された。弘法大師はその年三月二十一日に御入定されるや勅使弔問して「真言洪匠、密教宗師、邦家憑其護持。動植荷其攝念云々」(『続日本後紀』巻四承和二年(八三五)三月庚午《廿五》◆庚午。勅遣内舍人一人。弔法師喪。并施喪料。後太上天皇有弔書曰。真言洪匠。密教宗師。邦家憑其護持。動植荷其攝念。豈図・・未逼。無常遽侵。仁舟廃棹。弱喪失帰。嗟呼哀哉。禪關僻在。凶聞晩伝。不能使者奔赴相助茶毘。言之為恨。悵悼曷已。思忖舊窟。悲凉可料。今者遥寄單書弔之。著録弟子。入室桑門。悽愴奈何。兼以達旨。』法師者。讃岐国多度郡人。俗姓佐伯直。年十五就舅従五位下阿刀宿祢大足。読習文書。十八遊学槐市。時有一沙門。呈示虚空藏聞持法。其経説。若人依法。読此真言一百万遍。乃得一切教法文義諳記。於是信大聖之誠言。望飛焔於鑽燧。攀躋阿波国大瀧之嶽。観念土左国室戸之崎。幽谷応声。明星来影。自此慧解日新。下筆成文。世伝。三教論。是信宿間所撰也。在於書法。最得其妙。與張芝齊名。見称草聖。年卅一得度。延暦廿三年入唐留学。遇青龍寺恵果和尚。禀学真言。其宗旨義味莫不該通。遂懐法宝。帰来本朝。啓秘密之門。弘大日之化。天長元年任少僧都。七年転大僧都。自有終焉之志。隠居紀伊国金剛峯寺。化去之時年六十三。)と仰せられたのを見てもいかに朝廷より尊せられたかが知れるのである。・・弘法大師の弟子たちも・・・真済僧正は文徳天皇(第55代・9世紀中ごろ)に、真雅僧正(法光大師)は清和天皇(第56代・9世紀後半)に重んぜられるやうになって、宇多天皇(第59代・9世紀後半から10世紀初め) にいたっては弘法大師に絶大な信仰を捧げ、ついに昌泰二年十月(1119年)に益信僧正(本覚大師)を戒師として落飾せられ、太上天皇の尊号を辞して法皇と称し、延喜元年十二月(902年)益信僧正を大阿闍梨として真言両部の秘密灌頂を伝承せられたのである。仁和寺に御室をいとなまれそこに居住せられて自ら誓っていはく「我昔、人君として在り、万性悪をなして我身に帰する、今仏子となって一身を以て善に帰する」と仰せられて全く真言密教の生活に入りて、延喜八年(908年)には真寂親王に秘密灌頂を授け、同十八年寛空僧正に付法瀉瓶し、専ら密教の研究と大法の弘傳とを楽しみとせられたのである。この時に小野の聖寶(理源大師)がでて在俗的密教の修験道を再興したが、一世の帰敬を受けておおいに進展し、これらの事情が総合して遂に「琴絃旣絕、遺音更淸。蘭叢雖凋、餘香猶播。故贈大僧正法印大和尙位空海、鎖弃煩惱、抛却驕貪、全三十七品之修行、斷九十六種邪見。受密語者、滿於山林、習眞趣者、成於淵藪。況太上法皇、久味其道、追念其人。誠雖浮天之波濤、何忘積石之源本。宜加崇餝之諡、號弘法大師。」(琴絃きんげん旣すでに絕たえ、遺音いいん更さらに淸きよし。蘭叢らんそう凋しぼむと雖いえども、餘香よこう猶なほ播しく。故こ贈ぞう大僧正だいそうじょう法印ほういん大和尙位だいわじょうい空海くうかい、煩惱ぼんのうを鎖弃しょうきし、驕貪きょうどんを抛却ほうきゃくして、三十七品ほんの修行しゅぎょうを全まっとうし、九十六種しゅの邪見じゃけんを斷たつ。密語みつごを受うくる者もの、山林さんりんに滿みち、眞趣しんしゅを習ならふ者もの、淵藪えんそうを成なす。況いわんや太上だじょう法皇ほうおう久ひさしく其その道みちを味あじわひ、其その人ひとを追念ついねんす。誠まことに天てんに浮うかぶの波濤はとうと雖いえども、何なんぞ石いしを積つむの源本げんぽんを忘わすれん。宜よろしく崇餝すうしょくの諡おくりなを加くわへ、弘法こうぼう大師だいしと號ごうすべし。延曆二十一年十月 扶桑略記)とて弘法大師の大師号は延喜二十一年(922年)に醍醐天皇より諡せられたのである。・・宇多法皇が密教的生活をいとなまれたといふ事実は密教が国教的資格を表明したと同一結果を生じたのである。・・仁和寺の如きは皇族で法統を継承し、京都の天地は金剛鈴が朝夕響き、護摩の煙は東西にたなびくといふようになって(朝廷の儀式より、庶民の小宴に至るまで)密教的ならざるものはなく、現世祈祷仏教の最盛期を現出したのである。如上のありさまであるから後三条天皇が即位式で真言密教の源意によりて智拳印を結び給ふたといふのも当然の結果と云はねばならない。後に至って後宇多法皇が、真言密教の根本道場たる東寺に二五条の遺詔し給うた中に「夫れ以てみれば我が大日本国は法爾の称号、秘境に相応せる法身の土地なり。故にわれ後に血脈を継ぐの法資、天祚を伝ふるの君主、盛衰を同うすべく、興替を供にすべし。我法真言法断廃せば皇統共廃せん。我寺(東寺)興隆せば皇業安泰ならん。努々我此意に背きて悔ゆること莫れ。」と仰せられた。・・