妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・3
「佛告無盡意菩薩。善男子。若有無量百千萬億衆生受諸苦惱。聞是觀世音菩薩。一心稱名。觀世音菩薩即時觀其音聲皆得解脱。」
「善男子」とは、法を紹(つ)ぐが故に「子」と云。事を幹(よく)するが故に「男」と云。自利利他するが故に「善」と云。是、佛、無盡意菩薩を呼び玉ふ詞なり。
「無量百千萬億」とは、十界の機、實に無量なり。而るを「百千萬億」と云て、限りあるに似たることは、唯是通途に、業同じなる者を商量する也。假令、一の地獄の中にも鐵火に焚れ、鐵丸を飲み、洋銅を口に灌れ、熱鐵を身に纏ひ、鐵蛇鐵蟲鐵犬鐵鷹火を吐き身を螫し、眼を啄み、首を纏ふ。或は舌を抜きては犂を以て鉏き、腸を抽ては剉斬り、戟に貫きて火に炙り、臼に舂て箕を以て簸(ひ)る(箕で穀物のぬかやごみを除く)。或は鐵の刀を以て肉を片片に析、火の刀を以て身を寸寸に截る。鐵碓鐵磨鐵鑿、身肉を斬穿て筋骨を杵き碾る。鑊湯(釜湯)を以て煮熟し、鑪炭(囲炉裏の炭)を以て焼鎔かす。鐵網罩(こむ)れば出ること能はず。鐵縄縛れば能く動くことなし。火驢これを蹂躙り、鐵牛これを觸突く。かくの如く受苦の相無量なり。然るに妄語の罪人、百千万億あれば抜舌耕犂の苦を受る者も又百千万億あり。自餘も是に準じて知るべし。前世の罪の相無量種なるが故に、無量品の百千万億の受苦の衆生あるべし。地獄を云が如く、鬼畜修羅等も亦復かくの如し。今受苦の人の邊際なきことを挙て彌菩薩の利益廣大に周邊することをあらはすなり。
「受諸苦惱」とは、是機の発起する因縁なり。受苦に四句を分別せり。一には多苦、一人を苦しむ(一時に苦しむるなり)。二には一人多苦を受く(前後に苦しむなり)。三には多人一苦を受く。四には一人一苦を受く。今は第三の苦に當れり。然るを諸苦といふことは、多くの人同一種の苦を受くるに、苦の品又多き、以て彌よ受苦の人の多きことを彰すなり。
「聞是觀世音菩薩。一心稱名」とは、人の傳へて、此の観音こそ、大慈大悲を以て能く苦を救玉へと云を聞て、専念すべしと其の心決定帰依して更に他念なく、一心に南無観世音菩薩と稱るなり。是或は過去、或は現在の悪業に酬て苦に遇ふ。又二世(過・現)の善因あるが故に、観世音の名號を聞く、かくの如く善悪相帯するを以て、其機とするなり。「聞」の一字は聞慧なり。心に執著なきは思慧なり。「一心稱名」は修慧なり。然るに一心に二種あり。念念相続して更に餘を念ぜざるは事の一心なり。一心深く實相の理に入て能帰依能稱の我も、所稱の名號も、所帰依の観音、皆是平等法界にして不可得なりと見るは、理の一心稱名なり。此の事理両種の一心を離て散乱の心の中に唱へ、或は世話を交へて唱るは縦使年月を歴るとも其功あるべからざるや。答、其功なしと云は決定して所願を成就することなしと云事なり。其心一向決定せざるを以て其益も決定せざるなり。されども散心の称名も冥勲密益して後日の為の基と成るなり。喩ば九仞假山を造るに最後の一簣を加る時の為には成るが如し。
問、「一心稱名」とは必ず名号を唱ふるに局るべしや。又読経誦呪にも遍ずべしや。答、今は観世音の得名を問に就ての答説なるが故に且く稱名と云。されども已に世の音を観ずと云。世の人の観音に帰依する音、何ぞ必ずしも稱名に限らん。今の經を讀む時は、其の功徳利益を知るが故に帰依の心いよいよ深し。この尊の真言は又観世音内證三摩地を彰すが故に、其の真言の一々の文字直に是観世音の自體なり。理観啓白(弘法大師の造)に我が口輪より出る一一の文字、金色の佛と成ると釋し玉ふ是なり。故に其の功、稱名に勝れたる事百千萬倍せり。又次に字義門に約して「おんあろりきゃそわか(梵字)」(諸の観音に通ずる真言)の真言を云ば、先ず「おん(梵字)」の字は諸法流注不可得の義とて、諸法の本来不生不滅なる實義を説く真言なり。次に「あ(梵字)」字は諸法本不生の義とて、諸法本来有にして今生ずるにあらざる義を説く真言なり。故に壽量の久遠成道無差の三身も唯「おん・あ(梵字)」の二字に収れり。次に「ろ」字は諸法無塵垢の義とて、諸法本来清浄にして、煩悩の塵汗を離れたる實義を説く。故に観音の大悲無染の蓮華三昧此の一字に収れり。次に「り(梵字)」字は、諸法相不可得とて、諸法の相皆真實なれば一相として簡取るべからず、又一相として簡捨べからざる實義を説く。故に普門示現の無量の身相唯此一字に収まれり。次に「きゃ(梵字)」字は諸法不可得とて一切の法、能作所作を離れて自天而然なる實義なり。故に普門示現の三業の所作任運に施して利益する効能唯此の一字にあり。
次に「そは(梵字)」字は諸法平等無言説の義とて、一切の法、圓融自在にして一即一切、一切即一なれば、自とも他とも、彼とも此とも説くべからず。善悪邪正是非取捨等の一切の二邊の言説、都て関渉することなき實義を説く真言なり。次に「か(梵字)」字は諸法因縁業果不可得の義とて、諸法本有にして、因果を離れたる義を説く真言なり。故に此の七字の真言は一一の字皆最勝最上の佛知見を説て。然も又各の諸法を圓備せり。知るべし或は口に唱へ、或は心に観ずるに其の功廣大にして、比類すべきこと無きことを。
「觀世音菩薩即時觀其音聲皆得解脱」とは、是は観音の應を明す。次上の「聞是」等は聞て即ち稱名す、故に是、機の速やかなるなり。今の一段は稱名の即時に苦を免れしむ。故に是れ應の速かなるなり。
問、今時の人、皆同じく念ずるに利益の有無あるは何の故ぞや。
答、是には多くの説あり。
一には信の厚薄に由る。口には同じく稱名すれども、其の中に信厚くして一心に専注するは、其の應速かに現る。信薄して散心に念ずるは其の効遅し。或は中途に懈怠すれば効遂になし。
二には宿習に由る。宿習深厚にして信深きは速やかに應験あり。信深しといへども、宿習浅薄なるは應遅く、或は現には其の益なし。又此の二を以て四句分別すべし。(一)宿習厚而信深し・・上品。(二)宿習厚而信浅し・・中品。(三)宿習薄而信深し・・中品。(四)宿習薄而信浅し・・下品。
此の中に「音聲」とは信ずる者の稱名の音なり。「皆得解脱」とは受苦の衆生無量なれども、若し一時に唱ふる時は殘らず苦を免るるなり。「解」とは縛を離れる義、「脱」とは自在の義なり。
二には別の三業を答るに三。初めには口機に應ずるに二つ。七難を明かすに七。初めに火難。若し是薩の名を持つこと有らん者は設ひ大火に入るとも、火も焼くこと能はず。是は菩薩の威神力に由るが故に。
「若有」とは不定の辞なり。一切の人皆稱名するには非ざるが故なり。
「持」とは口に断絶せず唱ふるを誦持とし、心に一念も乱れず失はざるを秉持(ひょうじ)とす。心に念ずるは覺(麁分別)観(細分別)なれば口業の行に属するなり。大論に曰、覺観は是口の行なり(覺観より言語を生じるが故に)。(達摩多羅禪經にも「以出息入息是身行覺觀是口行想思是意行」)
「設入大火」とは、「設」も亦是不定の辞なり。若し小き火に入るとも難となるべし、況や大火をや。是は重き難を免るることを云て、利益の大なることを顕すなり。
「火不能燒」とは、正しく其の應を明す。問、餘の難の文は難起て後に稱名すとを明す。唯火難の文のみ先ず稱名を明すことは何ぞや。答、餘の水難羅刹難等は猶緩かなることあり。火難は害をなすこと最甚し。暫くあれば即ち命を失ふ。此の故に尋常観音を信じて持念する人に約して其の應を論ずるなり。晋の謝敷(晋書列伝の六十四。謝敷、字は慶緒、会稽の人)が観音應験傳に曰、竺長舒と云もの、晋の元康年中(3世紀)に洛陽にして類火に遭ふ。草屋にして下風なれば免るべき理なし。而るに長舒一心に観音の名を唱へしかば、風かへし、火轉じて隣にして滅ぬ。又其の里に淺智慧不信の者あって、謗じて曰、是唯自尒なるなり、何ぞ稱名の故ならんと。因て風吹き燥ける日を待て、火を擲て三たび焼に、三たび俱に滅しかば、衆皆懺悔して罪を謝しき(已上取意)。若し観行に約して釈せば、煩悩・業・苦の三道に約して釈すべし。一には果報の火。謂く無間地獄には四方に各の十八の鬲(かなえ)あり。鬲ごとに八万四千重あり。内外洞徹して上の火は下に徹り、下の火は上に徹て、上下炎を交ゆ。時に獄卒、罪人を駆て下の鬲より上の鬲に至て、次第に八万四千重を歴といへり。自餘の七大地獄、一一の四門の小地獄(合して百二十八なり)までも多くは火に焚れて苦を受く。故に皆熱地獄とす。餓鬼の中には鑊身鬼・無食鬼・織然鬼・火爐鬼・食火鬼・曠野鬼・冢間鬼、是皆火に悩まされて苦を受く(正法念處經の十六に見えたり)(正法念處經十六「略觀餓鬼三十六種。一切餓鬼皆爲慳貪嫉妬因縁。生於彼處。以種種心。造種種業。行種種行。種種住處。種種飢渇。自燒其身。如是略説三十六種。何等爲三十六種。一者迦婆離。鑊身餓鬼。二者甦支目佉。針口餓鬼。三者槃多婆叉。食吐餓鬼。四者毘師咃。食糞餓鬼。五者阿婆叉。無食餓鬼。六者揵陀。食氣餓鬼。七者達摩婆叉。食吐餓鬼。八者婆利藍。食水餓鬼。九者阿賖迦。悕望
餓鬼。十者口に企區伊反吒。食唾餓鬼。十一者摩羅婆叉。食鬘餓鬼。十二者囉訖吒。食血餓鬼。十三者瞢娑婆叉。食肉餓鬼。十四者蘇揵陀。食香烟餓鬼。十五者阿毘遮羅。疾行餓鬼。十六者蚩陀邏。伺便餓鬼。十七者波多羅。地下餓鬼。十八者矣利提。神通餓鬼。十九者闍婆隸。熾燃餓鬼。二十者蚩陀羅。伺嬰
兒便餓鬼。二十一者迦倶邏反摩。欲色餓鬼。二十二者三牟陀羅提波。海渚餓鬼。二十三者閻羅王使。執杖餓鬼。二十四者婆羅婆叉。食小兒餓鬼。二十五者烏殊婆叉。食人精氣餓鬼。二十六者婆羅門羅刹餓鬼。二十七者君茶火爐。燒食餓鬼。二十八者阿輸婆囉他。不淨巷陌餓鬼。二十九者婆移婆叉。食風餓鬼。三十者鴦伽囉婆叉。食火炭餓鬼。三十一者毘沙婆叉。食毒餓鬼。三十二者阿吒毘。
曠野餓鬼。三十三者賒摩舍羅。塚間住食熱灰土餓鬼。三十四者毘利差樹中住餓鬼。三十五者遮多波他。四交道餓鬼。三十六者魔羅迦耶。殺身餓鬼。是爲略説三十六種餓鬼」)此の中に暫く一二を明さば、
鑊身鬼は其の身長高く大にして人の両倍せり。面もなく目もなく、手足に穴あって鑊(かなへ)の脚の如し。熱火中に満て其の身を焚くこと火の林を焼くが如くして、飢渇し熱悩す。此は前世に人たりし時に財を貪るが故に、他の為に殺生し賃を受けて殺生して皮を剥ぎ、肉を割て苦悩せしむれども、更に愍む心なく、或は他の寄物を受けて拒んで還さざる者、此の鬼と成るといへり。
次に無食鬼は、腹の中に火起て其の身を焼て餘なし。死し已ては又生じ、生じ已ては又焼く。慞惶して道を求むれば地に棘刺を生じて、皆悉く火然て其の両足を貫く。其の痛忍がたうして悲哭時は、又其の口舌を焼て、皆悉く融爛して、凝酥を焼くが如し。かくの如く苦を受ること五百年を經て其の命盡く。若し人中に生ずれば、母の胎に處する時、母をして不食せしめ、憔悴し色醜からしめ、胎中にして傷堕し、若し然らざるも母の身をして、臭穢にして悪むべからしめ、樂て不善を行ず。若し出生しぬれば、短命にして難多く、王難に繋れ縛られ、牢獄へ入り飢渇して死す。是は前世に人として慳恡嫉妬、自ら其の心を覆ひ、妄語して欺誑かし、或は自ら強勢を恃で枉て良人を誣し(無實の過を云を誣といふなり。)禁獄せしめ、人の糧食を禁じて死せしめ、殺し已って心を快くし、復他人に教へて初めより改悔ざる。かくの如くの悪人命終して無食鬼の中に生ずといへり。畜生は燠煮湯炭に入りて、其の身を融し焦し、人中の焚焼は現に見ることなれば言に及ばず、乃至劫盡る時は、須彌の四寶所成なるすら内外洞然として諸天の宮殿悉く皆蕩盡す。初禪已下の天、皆火災を免るることなし。二には悪業の火。謂く、若し人善を修せんとするに、五戒十善、多く悪業の為に障へらる。故に大日経に曰、能く大利を損するは瞋に過ぎたるは無し。一念の因縁能く倶胝曠劫所修善を焚焼す(大毘盧遮那成佛神變加持經卷第七「能損大利莫過瞋 一念因縁悉焚滅倶胝曠劫所修善 是故慇懃常捨離」)已上。三には煩悩の火。若し聲聞の人は生死を猒ひ悪むが故に三界の因果を見ること火宅の如し。若し常楽我浄の四顛倒の煙燄俱に起る時は、輪廻堕落して火の為に焼かる。然るを勤て方便を求めて競って共に推拂ひ争て、火宅を出て、有餘無餘の涅槃に入りて、即ち解脱す。若し辟支佛及び四教の薩埵の道を修する時、並びに五住の煩悩(三界の見惑・欲界の思惑・色界の思惑・無色界の思惑・三界の無明惑)の火の為に焼害さる。若し自心中の一心三観の智を以て自心中の一心三諦の観音を念ずるときは、即ち煩悩の火を打消すなり。
「由是菩薩威神力故」とは、是は火難を結す。若し邪に解する者は、偶中なりと云ことあるべし。故に信篤して稱する時は必ず其の効あり。是何の故ぞと云ば、観音の神力に由ぞとなり。神力とは測られざるを神と曰。不思議の妙力を神力と云なり。