第七講 四つの正見まなこ
無苦集滅道。
あきらめの世界
いったい人間というものは妙なもので、口でこそりっぱにあきらめたといっておっても、その実、なかなか心では容易にあきらめきれないものです。他人の事だと、「なんだ、もう過ぎたことじゃないか、スッパリ諦あきらめてしまえ」だとか、「なんという君は諦めの悪い人間だ」ナンテ冷笑しますが、いざ自分の事となると、諦めたとは思っても、なかなか諦めきれないのです。竹を割ったようにスッパリとは、どうしたって諦められないのです。「あきらめましたよ、どう諦めた、諦らめられぬとあきらめた」という俗謡がありますが、諦められぬと諦めた、というのが、あるいはほんとうの人情かも知れません。諦めたようで、諦められぬのが、また諦められぬようで、実はいつともなしに諦めているのが、私ども人間お互いの気持だと存じます。「散ればこそいとど桜はめでたけれ」と聞いて、なるほどもっともだと感じます。生まれた以上、死なねばならぬ、死は生によって来る、と聞けば、なるほど、全くその通りだ、と思います。「諸行無常」だの、「会者定離えしゃじょうり」だのと聞けば、なるほどそれに違いないとうなずかれます。しかしです、そうは思いつつも、やはり一面には、「そうじゃけれども、そうじゃけれども」という感じが、どこからともなく湧わいてくるのです。他人に向かっては誰しも、いかにも自分が、さとったような、あきらめたような口吻くちぶりで、裁きます、批判します。娘を亡なくした母親を慰め顔に、「まあ極楽へ嫁にやったつもりで……」といったところで、母親にしてみれば、それこそ「おもやすめども、おもやすめども」です。なかなか容易にはあきらめきれないのです。
なぜ自分の子供だけが、なにゆえにわが娘だけが、という感じが先行して、「人間は死ぬ動物」だナンテ冷然とすましてはおれないのです。だが、それが人情です。愚痴といって非難されましょうが、そこが人間のやるせない心持です。わが娘こを嫁にやる時、門出に流す母親の涙は嬉うれしい涙ではありましょうが、それはまた悲しみの涙でもあるのです。嬉しいはずだが、やはりそこには「愛する者と別れる」という、一種の悲しい世界もあるのです。あきらめたようで、その実あきらめられず、あきらめられぬようで、いつとはなしに人間は「忘却」ということによって、あきらめているのです。「人間は忘却する動物だ」とニイチェもいっていますが、面白いことばだと思います。全く人間というものは妙な存在です。その妙な存在である人間の集まっているこの社会も、また複雑怪奇で、そう簡単には解釈できないわけです。「人生は円の半径だ」といいますが、人生も社会も「割りきれぬ」ところにかえって妙味があるのかも知れません。割りきれぬものを、割りきったように考えるところに、人間の分別はからいがあるのです。迷いがあるのです。とにかくあきらめたと思うのも、自分、あきらめられぬというのも、自分です。お互い人間は、なんといっても矛盾の存在です。
「人生は不満と退屈との間を動揺する時計の振子(ペンジュラム)だ」とショウペンハウエルはいっております。あるいはそうかも知れませぬ。求めて得られない時には、なんとなく不満を感じます。しかし幸いにその求めたものが得られても、そこには必ず退屈が生ずるのです。「歓楽極きわまって哀情多し」というか、「満足の悲哀」というか、とにかく不満の反対は退屈です。私どもの人生を、不満と退屈の間を動揺する、時計の振子に譬たとえた哲学者のことばの中には、味わうべき何ものかがあると存じます。どうみても、人間は幾多の矛盾を孕はらめる動物です。矛盾の存在、それが人間でしょう。さてこれからお話ししようとする所は、四つの真理、すなわち「四諦たい」についてでありますが、『心経』の本文では、「苦、集、滅、道もなし」という所です。ところで、この四諦の「諦」という字ですが、これは「審」とか「明」などという文字と同一で、「明らかに見る」ことです。「審つまびらかに見る」ことです。だから「あきらめる」とは「諦観たいかん」することで、つまり、もののほんとうの相すがたを見ること、すなわち真実を見きわめることです。したがって、釈尊があきらめた世界、ハッキリ人生を見きわめた世界を、説いたのがすなわち仏教です。
しかもその仏教の根本は、結局、この四諦、すなわち四つのあきらめ、すなわち四つの真理にあるのです。しからばその四つの真理とは何か、といえば、それは、「苦」と「集」と「滅」と「道」の四つで、これを四諦といっています。わかりやすくこれをいえば、「人生は苦なり」ということと、その苦はどこからくるかという、「その苦の原因」と、「その苦を解脱した世界」と、「その苦を除く方法」を教えたのが、すなわち「四諦」の真理です。で、「苦、集、滅、道もなし」という『心経』のこの一節は、このまえ「十二因縁」の下で、お話ししたごとく、空の立場からいえば、四諦の真理もないというのです。「一切皆空」の道理からいえば、迷と悟との因果を説いた、この四諦の法もないわけです。さてまず、「苦諦」ということから考えてゆきましょう。いったい「人生は苦だ」とか、「うきよは苦悩なやみの巷ちまた」だということは、たしかに真理です。世間でよく「四苦八苦の苦しみ」と申しますが、ほんとうに考えてみると、人生は四苦八苦どころか、さまざまの苦しみ、悩みがあるのです。
これについてこんな話があります。その昔ペルシャ(現今のイラン)にゼミールという王さまがありました。年若きゼミール王は、「即位」の大典をあげるや、ただちに天下の学者に命じて、最も精密なる「人類の歴史」を編纂へんさんせしめたのです。王さまの命令に従って、多くの学者たちは、懸命に人類史の編纂にとりかかりました。一年、二年はまたたく間に過ぎました。五年、十年は、夢のように過ぎました。二十年、三十年の長い年月を経ても、世界で最も「精密なる人類史」は容易にできません。四十年、五十年の長い長い時間を費やして、やっと書き上げた。その人類史の結論は、果たしてなんであったでしょうか。「人は生まれ、人は苦しみ、人は死す」それが人類史の結論だったのです。人は生まれ、人は死んでゆく。その生まれ落ちてから、死んでゆくまでの人間の一生、それは畢竟つまり苦しみの一生ではないでしょうか。「人は生まれ、人は苦しみ、人は死す」なんという深刻なことばでしょう。
私は放送をするたびに、全国の未知の方々から、身の上相談の手紙を戴いただきます。それを一々ていねいに拝見していますが、「こうも世の中には煩悶はんもんしている、不幸な人たちが多いものか」ということを、いまさらながら、しみじみ感ずることであります。小にしては個人、家庭、大にしては社会、国家、そこにはいろんな苦しみがあり、悩みがあります。苦悩なやみがないというのはうそです。煩悶もだえがないというのは、反省が足りないからです。苦悩があっても、煩悶があっても、それに気づかないでいるのです。いや悩みがあっても、その悩みにブッつかることを恐れているのです。つまりその悩みに目覚めないのです。
詩人ベーコンは人生の苦の相(すがた)を歌って、こういっています。
世界は泡沫うたかたである。人生は束つかの間に過ぎない。
母胎に宿るそもそもから、墓場にいたるその時まで、
人生は苦の連続である。揺籃ゆりかごからとり出される。
それから気兼ね苦労で育て上げられる。
さて、こうした末に、なり上がった人の命が不壊ふえなればこそ、
生命の頼りがたなさは、水に描ける絵、砂に刻める文字もおろかである。
内地にいて感情を満足させたい、
これはけだし人間の病気である。
海を越えて、他国に行くことは、
困難であり、また危険である。
時には戦争があって、われらを苦しめる。
が、しかし、それが終われば、
こんどは又平和のために一層苦しむ。
こうして一々数えていったあげくの果ては、何が残るか。生まれたことや、死ぬことを悲観する。残るのは、ただこれだけである。
三界は火宅
あの有名な『法華経』は、またわれらに告げています。
「三界がいは安きことなし、猶なお火宅の如し
衆苦充満して、甚はなはだ畏怖おそるべし
つねに生、老、病死の憂患うれいあり
是かくの如き業の火、熾然しねんとして息やまず」
私どもの住むこの世界は、あたかもさかんに燃えている火宅である、という釈尊のこの体験こそ、尊い人間苦への警告だったのです。苦諦の真理に対する目覚めだったのです。かくてこそ、
「如来ほとけはすでに三界の火宅を離れて
寂然じゃくねんとして閑居げんごし、林野に安処せり
今この三界は、皆是れ我有ものなり
その中の衆生は、悉ことごとく是れわが子なり
しかもいま此処ここは、諸もろもろの患難うれい多し
唯ただ我一人のみ、能よく救護くごをなす」
という、われらに対する、仏陀ぶっだの限りなき慈悲の手は、さし伸べられたのではありませんか。
人生への第一歩
まことに「人生は苦なり」という、その苦の真理に目覚めることこそ、宗教への第一歩ではないでしょうか。しかし、所詮しょせん、第一歩はあくまで第一歩です。それは決して宗教の結論ではないからです。宗教の全部ではないからです。いや、それは宗教への第一歩であるばかりではありません。苦の認識こそ、ほんとうの人生に目覚める第一歩なのです。すなわち「苦」という自覚が機縁になって、ここにはじめてしっかりした地上の生活がうちたてられてゆくのです。したがって「苦の自覚」をもたない人は、人生の見方が浅薄です。皮相的です。「最も苦しんだ人のみ、人の子を教える資格がある」というのは、それです。お坊っちゃん育ちは、とかく何事を見るにつけ、するにつけ、みんな浅薄です。あさはかです。子供を育てる場合でも、このこつが必要です。「かわいい子には旅させよ」とは、たしかに味わうべきことばです。
苦の原因
次に第二の真理すなわち「集諦じゅうたい」とは、つまり人生の苦は、どこから起こるかというその「原因」をいったものです。すなわち「苦諦くたい」を、いま人生はどうあるかの問題に対する説明とすれば、「集諦」は、「なにゆえにそうであるか」の問題に対する説明ということができましょう。英語でいえばホワット(何か)とホワイ(なにゆえ)といってもよいでしょう。つまり「なにゆえに人生は苦であるか」という、その苦のよって来る原因の説明が、この「集諦」です。苦を招き集めるもの、いわゆる苦の原因が、この「集諦」です。ここでちょっと、仏教とマルキシズムの「苦」に対する考え方を、比較しておく必要があります。かつてマルクス主義者は、口を開けばすぐブルジョアがいけないと、まるで敵かたきのように罵ののしりました。不倶戴天ふぐたいてんのごとくに攻撃いたしました。社会の不安も、社会苦も、生活苦も、ことごとく資本家の罪に帰して、社会機構の欠陥を叫びました。だが、果たしてそれは正しい見方でしょうか。間違いのないほんとうの議論でしょうか。一時、主義者は宗教をアヘンのごとくいいふらしました。そして仏教をも宗教の名のもとに、極端に排撃しました。だが、元来マルクスの宗教理論は、もっぱらキリスト教を中心として考察したものです。仏教のごときは、まったく彼は知らなかったのです。いや、一歩ゆずって、かりに知っていたとしても、マルクスには仏教のふかい教理が、如実に理解されていなかったのです。にもかかわらず、かつての共産主義の人たちは、彼の幼稚な宗教理論を公式的に暗記して、キリスト教とは全くその性質を異にしている仏教をも、宗教という名のもとに排撃の対象としましたが、果たしてそれは正当な認識でしょうか。それから、いったいマルクスのいう現実の苦というのは、無産者だけの苦です。プロレタリヤだけの生活苦です。したがってそれは人間全体の苦ではありません。すなわち釈尊が四苦八苦といわれた、その苦諦くたいの苦ではないのです。
少なくとも人間苦といい、社会苦といわれる苦には、資本家だとか、無産者だとかいうような区別はありません。四苦八苦は、人間としての苦しみです。社会的存在としての人間の普遍的な、そして共通の苦しみです。ですから、マルクスのいう苦は、どこまでも経済生活の上の悩みですから、四苦八苦のホンの一部分でしかありません。強しいていえば「求めて得られざる苦しみ」(求不得苦ぐふとくく)でしかありません。
むずかしいめんどうな議論はさし控えましょう。しかし、もう一言ここでいわしていただきたいのは、苦の原因についての問題です。いったいマルクスは、人間苦、いやプロレタリヤの生活苦の原因をば、あくまで社会機構の欠陥に求めました。資本主義制度の矛盾におきました。「資本家の搾取」、それが彼らのスローガンなのでした。それが彼らの一枚看板でした。だからその苦の内容は、どこまでも物質でした。経済的でした。語ことばを換えて申しますならば、その苦は内よりくるものではなくて、外よりきたものでした。だが釈尊は、これと正反対の立場から、苦の原因を説いているのです。
「実の如く苦の本を知るとは、いわく現在の愛着の心は、未来の身と欲とをうけ、その身と欲とのために、更に種々の苦果を求むるなりと知る」(中阿含経ちゅうあごんぎょう)
すなわち苦の原因は欲です。欲こそ苦の本です。しかし欲は苦の根源だといっても、私どもは無条件にそれを認めることはできません。なんとなれば、欲はまた歓楽の根源でもあるからです。で、問題は欲そのもの、欲望自体ではなくて、「愛着のこころ」、「執着のこころ」、「囚とらわれのこころ」が、つまり苦の原因なのです。すなわち人間のもつ普遍的欲望、すなわち五欲そのものが、苦悩の原因ではなくて、ただ、食欲とか、色欲(性欲)とか、睡眠欲とか、財産欲とか、名誉欲のみが、歓楽の根本であると妄信もうしんして、これに愛着し、これに執着するこころが、苦の原因だと釈尊はいわれているのです。しかもその五欲に愛着し、執着することは、結局、「因縁」の道理を知らないがためです。すなわち、一切は空であり、無我であることを知らない、無知の無明まよいから起こるわけです。ですから所詮、一切の苦の根本は欲であり、欲望に対する執着ではありますが、そのまた根本はつまり無明にあるわけです。無明とは、「十二因縁」の根本となっている、あの無明です。さて五欲について思い起こすことは、『譬喩経ひゆぎょう』のなかにある「黒白こくびゃく二鼠(そ)」の譬喩たとえです。それは非常に面白い、いや深刻な譬喩で、ロシヤの文豪トルストイも、スッカリ感激したきわめて意味ふかい話です。それはこうです。
むかしあるところに一人の旅人がありました。広い野原を歩いていた時、突然、狂象に出逢であいました。おどろいて逃げ去ろうとしましたが、広い広い野原のこと、逃げ隠れる場所とてはありません。しかし幸いにも野原の中に、一つの古い井戸がありました。そしてその井戸には、一筋の藤蔓ふじづるが下の方へ垂たれ下がっていました。天の与えと喜んで、旅人は急ぎそれを伝って、井戸の中へ入ってゆきました。狂象はおそろしい牙きばをむいて覗のぞきこんでいます。ヤレまあよかったと、旅人がホット一呼吸いきしていると、井戸の底には怖おそろしい大蛇だいじゃが口を開いて、旅人の落ちてくるのを待っているではありませんか。駭おどろいて周囲を見まわすと、どうでしょうか、四方にはまだ四疋ひきの毒蛇がいて、今にも旅人を呑のもうとしています。命とたのむものは、たった一本の藤蔓です。しかしその藤蔓もです、よく見れば、黒と白の二疋の鼠ねずみが、こもごもその根を噛かじっているではありませんか。もはや万事休すです。全く生きた心地はありません。ところがです。たまたま藤蔓の根に作っていた蜜蜂みつばちの巣から、甘い蜜がポタリポタリと、一滴、二滴、三滴、「五滴」ばかり彼の口へ滴したたりおちてきたのです。全くこれは甘露のような味わいでした。そこで旅人は、もはや目前の怖しい危険をも、うち忘れて、ただもうその一滴の蜜を貪り求めるようになったというのです。
申すまでもなく、曠野こうやにさ迷うその旅人こそは、私どもお互いのことです。一疋の狂象は、「無常の風」です。流れる時間です。井戸とは生死の深淵しんえんです。生死しょうじの岸頭がんとうです。井戸の底の大蛇は、死の影です。四疋の毒蛇は私どもの肉体を構成する四つの元素(地、水、火、風の四大)です。藤蔓とは、私どもの生命です。生命の綱です。黒白二疋の鼠とは、夜昼です。五滴の蜂蜜とは、五欲の事です。官能的欲望です。まことにひとたび、この巧妙な人生の譬喩を聞いたならば、波斯匿ハシクノク王ならずとも、トルストイならずとも、まざまざ「人生の無常」を感ぜずにはおれないのです。無常の恐怖に戦慄せんりつせずにはおれないのです。そして、「求道の旅人」とならざるを得ないのです。
さとりの世界
次に第三の真理は「滅諦めったい」です。「滅」とは生滅の滅で、ものがなくなるということです。ただしここにいう滅とは、苦を解脱したさとりの世界、すなわち「涅槃ねはん」のことをいうのです。で、滅の真理すなわち「滅諦」とは仏教の理想である涅槃と同じ意味のことばです。ところで、なにゆえに「涅槃さとり」のことを「滅」というかというに、元来「涅槃ねはん」の梵語ぼんごは、ニイルヴァーナで、「吹き消す」という意味なのです。何を吹き消すか、何を滅するか、といえば、いうまでもなく、苦を吹き消し、「苦」を滅することであります。ところが一般にはさようには解釈されないで、かえって肉体を吹き消し、身体を滅すること、即ち「人間の死」とか、「虚無」とかいうことに考えられているのです。ちょうどあの「往生」ということばが、「死」ということ、と同じように思われているごとく、「涅槃ねはん」とか、「成仏じょうぶつ」などといえば、死と同一に考えられているのです。しかし、もともと「死」と「涅槃」とは異なっているのです。人間苦の根本となっている「無明」を滅したことが、この「涅槃」です。
「貪欲どんよく永ながく尽き、瞋恚しんに永く尽き、愚痴永く尽き、一切の諸もろもろの煩悩ぼんのう永く尽くるを、涅槃という」
と『雑阿含経ぞうあごんぎょう』には書いておりますが、とにかく、無明まよいの心を解脱して、苦を滅し尽くした境地が、滅諦めったいすなわち涅槃です。あの「いろは」歌でいえば、「あさきゆめみじ、ゑひもせず」という最後の一句は、「寂滅為楽じゃくめついらく」という「涅槃ねはんの世界」をいったものです。「あさきゆめみじ」とは、あさはかな夢をみないということです。「ゑひもせず」とは、無明の酒に酔わされぬということです。つまり「酔生夢死」をしないということで、つまり涅槃さとりの世界に安住するその気持を歌ったもので、ボンヤリ一生を送らないということです。
あの謡曲の「三井寺」や、長唄ながうたの「娘道成寺(どうじょうじ)」の一節に、
「鐘にうらみが数々ござる。初夜の鐘をつく時は、諸行無常と響くなり。後夜の鐘をつく時は、是生滅法ぜしょうめっぽうと響くなり。晨朝じんじょうは生滅滅已しょうめつめつい、入相いりあいは寂滅為楽じゃくめついらくと響くなり。聞いて驚く人もなし。われも後生の雲はれて、真如しんにょの月を眺ながめあかさん」とありますが、「初夜の鐘は諸行無常、入相の鐘は寂滅為楽」などというと、いかにも厭世えんせい的な滅入めいってゆくような気がします。しかし、それはさように考える方が間違いで、暁の鐘の音、夕を告げる鐘の音を聞くにつけても、私どもは、死に直面しつつある生のはかなさを痛感すべきではあるが、しかもそれによって、私どもは今日生かされている、生の尊さ、ありがたさを、しみじみ味わわねばいけないということを唄うたったものです。だから、「聞いておどろく人もなし」ではいけないのです。せめて鐘の音を聞いた時だけでも、自分おのれの生活を反省したいものです。「真如しんにょの月」を眺めるまでにはゆかなくとも、ありがたい、もったいないという感謝の気持、生かされている自分、恵まれているわが身の上を省みつつ、暮らしてゆきたいものです。
鐘の音、といえば、かのミレーの描いた名画に「アンゼラスの鐘」というのがあります。年若き夫婦が相向かって立っている図です。互いに汚きたないエプロンをかけて首こうべをうなだれて立っている図です。今しも鍬くわをかついて帰りかけた若い夫が鍬を肩から下おろして、その上に手をのせて、静かにジット首をうなだれています。画の正面は一つの地平線、もう夕靄ゆうもやがせまっています。畑の様子はよくわからないが、右寄りの方には、お寺の屋根の頂が見えています。それが夕日にしびをうけて金色に輝いています。黄昏たそがれをつげるアンゼラスの鐘が夕靄に溶けこんで流れてくるのです。なんともいえない感謝の心に溢あふれながら、法悦の満足を、両手に組み合わせて、向かい合って立っている年若き夫婦の姿。あのミレーの「晩鐘」を見る時、私どもはクリスチャンでなくても、そこになんともいえない敬虔けいけんな気分に打たれるのです。鐘の響きこそ、まことに言葉以上のことばです。
八つの道
次に第四の真理は「道諦どうたい」です。道諦とは、「涅槃さとり」の世界へ行く道です。「滅諦」に至る方法です。苦を滅する道、心の苦をとり除く方法です。ところで、釈尊はこの「涅槃さとり」の世界へ行く方法に、八つの道があると説いています。八正道しょうどうというのがそれです。正道とは正しい道です。偏かたよらぬ中正の道です。
「涅槃へ行くには二つの偏かたよった道を避けねばならぬ。その一つは快楽に耽溺たんできする道であり、他の一つは苦行に没頭する道である。この苦楽の二辺を離れた中道こそ、実に涅槃へ至る正しい道である」(転法輪経てんぽうりんぎょう[#「転法輪経」は底本では「輪法輪経」])
と、釈尊はいっておられますが、たしかに苦楽の二辺を離れた中道こそ、涅槃さとりへ達する唯一の道なのです。一筋の白道なのです。しかもその一本の白道を、歩んで行くには八通りの方法があるのです。八正道しょうどうとはそれです。
正しき見方 ところでこの正道のなかで、いちばん大切なものは「正見しょうけん」です。正見とは、正しき見方です。何を正しく見るか、四諦たいの真理を知ることですが、つまりは、仏教の根本原理である「因縁」の道理をハッキリ認識することです。この「因縁」の真理をほんとうに知れば、それこそもう安心です。どんな道を通って行っても大丈夫です。だが、ただ知ったというだけで、その「因縁」を行ぎょうじなければ効果ききめはありません。因縁を行ずるとは、因縁を生かしてゆくことです。「さとりへの道は自覚と努力なり、これより外に妙法なし」といいますが、因縁を知り、さらにこれを生かしてゆくには努力が必要です。発明王エジソンも、「人生は努力なり」といっていますが、たしかに人生は努力です。不断の努力が肝要です。しかもその努力こそ、精進しょうじんです。正精進しょうしょうじんというのはそれです。正精進こそ、正しき生き方です。ゆえに八正道の八つの道は、いずれも涅槃ねはんへ至る必要な道ではありますが、そのなかでもいちばん大事なのは、つまりこの「正見」と「正精進」です。
「道は多い、されど汝なんじの歩むべき道は一つだ」
と、古人も教えています。私どもはお互いにその一つの道を因縁に随順しつつ無我に生きることによって、真面目まじめに、真剣に、正しく、明るく、後悔のないように、今日の一日を歩いてゆきたいものです。
無苦集滅道。
あきらめの世界
いったい人間というものは妙なもので、口でこそりっぱにあきらめたといっておっても、その実、なかなか心では容易にあきらめきれないものです。他人の事だと、「なんだ、もう過ぎたことじゃないか、スッパリ諦あきらめてしまえ」だとか、「なんという君は諦めの悪い人間だ」ナンテ冷笑しますが、いざ自分の事となると、諦めたとは思っても、なかなか諦めきれないのです。竹を割ったようにスッパリとは、どうしたって諦められないのです。「あきらめましたよ、どう諦めた、諦らめられぬとあきらめた」という俗謡がありますが、諦められぬと諦めた、というのが、あるいはほんとうの人情かも知れません。諦めたようで、諦められぬのが、また諦められぬようで、実はいつともなしに諦めているのが、私ども人間お互いの気持だと存じます。「散ればこそいとど桜はめでたけれ」と聞いて、なるほどもっともだと感じます。生まれた以上、死なねばならぬ、死は生によって来る、と聞けば、なるほど、全くその通りだ、と思います。「諸行無常」だの、「会者定離えしゃじょうり」だのと聞けば、なるほどそれに違いないとうなずかれます。しかしです、そうは思いつつも、やはり一面には、「そうじゃけれども、そうじゃけれども」という感じが、どこからともなく湧わいてくるのです。他人に向かっては誰しも、いかにも自分が、さとったような、あきらめたような口吻くちぶりで、裁きます、批判します。娘を亡なくした母親を慰め顔に、「まあ極楽へ嫁にやったつもりで……」といったところで、母親にしてみれば、それこそ「おもやすめども、おもやすめども」です。なかなか容易にはあきらめきれないのです。
なぜ自分の子供だけが、なにゆえにわが娘だけが、という感じが先行して、「人間は死ぬ動物」だナンテ冷然とすましてはおれないのです。だが、それが人情です。愚痴といって非難されましょうが、そこが人間のやるせない心持です。わが娘こを嫁にやる時、門出に流す母親の涙は嬉うれしい涙ではありましょうが、それはまた悲しみの涙でもあるのです。嬉しいはずだが、やはりそこには「愛する者と別れる」という、一種の悲しい世界もあるのです。あきらめたようで、その実あきらめられず、あきらめられぬようで、いつとはなしに人間は「忘却」ということによって、あきらめているのです。「人間は忘却する動物だ」とニイチェもいっていますが、面白いことばだと思います。全く人間というものは妙な存在です。その妙な存在である人間の集まっているこの社会も、また複雑怪奇で、そう簡単には解釈できないわけです。「人生は円の半径だ」といいますが、人生も社会も「割りきれぬ」ところにかえって妙味があるのかも知れません。割りきれぬものを、割りきったように考えるところに、人間の分別はからいがあるのです。迷いがあるのです。とにかくあきらめたと思うのも、自分、あきらめられぬというのも、自分です。お互い人間は、なんといっても矛盾の存在です。
「人生は不満と退屈との間を動揺する時計の振子(ペンジュラム)だ」とショウペンハウエルはいっております。あるいはそうかも知れませぬ。求めて得られない時には、なんとなく不満を感じます。しかし幸いにその求めたものが得られても、そこには必ず退屈が生ずるのです。「歓楽極きわまって哀情多し」というか、「満足の悲哀」というか、とにかく不満の反対は退屈です。私どもの人生を、不満と退屈の間を動揺する、時計の振子に譬たとえた哲学者のことばの中には、味わうべき何ものかがあると存じます。どうみても、人間は幾多の矛盾を孕はらめる動物です。矛盾の存在、それが人間でしょう。さてこれからお話ししようとする所は、四つの真理、すなわち「四諦たい」についてでありますが、『心経』の本文では、「苦、集、滅、道もなし」という所です。ところで、この四諦の「諦」という字ですが、これは「審」とか「明」などという文字と同一で、「明らかに見る」ことです。「審つまびらかに見る」ことです。だから「あきらめる」とは「諦観たいかん」することで、つまり、もののほんとうの相すがたを見ること、すなわち真実を見きわめることです。したがって、釈尊があきらめた世界、ハッキリ人生を見きわめた世界を、説いたのがすなわち仏教です。
しかもその仏教の根本は、結局、この四諦、すなわち四つのあきらめ、すなわち四つの真理にあるのです。しからばその四つの真理とは何か、といえば、それは、「苦」と「集」と「滅」と「道」の四つで、これを四諦といっています。わかりやすくこれをいえば、「人生は苦なり」ということと、その苦はどこからくるかという、「その苦の原因」と、「その苦を解脱した世界」と、「その苦を除く方法」を教えたのが、すなわち「四諦」の真理です。で、「苦、集、滅、道もなし」という『心経』のこの一節は、このまえ「十二因縁」の下で、お話ししたごとく、空の立場からいえば、四諦の真理もないというのです。「一切皆空」の道理からいえば、迷と悟との因果を説いた、この四諦の法もないわけです。さてまず、「苦諦」ということから考えてゆきましょう。いったい「人生は苦だ」とか、「うきよは苦悩なやみの巷ちまた」だということは、たしかに真理です。世間でよく「四苦八苦の苦しみ」と申しますが、ほんとうに考えてみると、人生は四苦八苦どころか、さまざまの苦しみ、悩みがあるのです。
これについてこんな話があります。その昔ペルシャ(現今のイラン)にゼミールという王さまがありました。年若きゼミール王は、「即位」の大典をあげるや、ただちに天下の学者に命じて、最も精密なる「人類の歴史」を編纂へんさんせしめたのです。王さまの命令に従って、多くの学者たちは、懸命に人類史の編纂にとりかかりました。一年、二年はまたたく間に過ぎました。五年、十年は、夢のように過ぎました。二十年、三十年の長い年月を経ても、世界で最も「精密なる人類史」は容易にできません。四十年、五十年の長い長い時間を費やして、やっと書き上げた。その人類史の結論は、果たしてなんであったでしょうか。「人は生まれ、人は苦しみ、人は死す」それが人類史の結論だったのです。人は生まれ、人は死んでゆく。その生まれ落ちてから、死んでゆくまでの人間の一生、それは畢竟つまり苦しみの一生ではないでしょうか。「人は生まれ、人は苦しみ、人は死す」なんという深刻なことばでしょう。
私は放送をするたびに、全国の未知の方々から、身の上相談の手紙を戴いただきます。それを一々ていねいに拝見していますが、「こうも世の中には煩悶はんもんしている、不幸な人たちが多いものか」ということを、いまさらながら、しみじみ感ずることであります。小にしては個人、家庭、大にしては社会、国家、そこにはいろんな苦しみがあり、悩みがあります。苦悩なやみがないというのはうそです。煩悶もだえがないというのは、反省が足りないからです。苦悩があっても、煩悶があっても、それに気づかないでいるのです。いや悩みがあっても、その悩みにブッつかることを恐れているのです。つまりその悩みに目覚めないのです。
詩人ベーコンは人生の苦の相(すがた)を歌って、こういっています。
世界は泡沫うたかたである。人生は束つかの間に過ぎない。
母胎に宿るそもそもから、墓場にいたるその時まで、
人生は苦の連続である。揺籃ゆりかごからとり出される。
それから気兼ね苦労で育て上げられる。
さて、こうした末に、なり上がった人の命が不壊ふえなればこそ、
生命の頼りがたなさは、水に描ける絵、砂に刻める文字もおろかである。
内地にいて感情を満足させたい、
これはけだし人間の病気である。
海を越えて、他国に行くことは、
困難であり、また危険である。
時には戦争があって、われらを苦しめる。
が、しかし、それが終われば、
こんどは又平和のために一層苦しむ。
こうして一々数えていったあげくの果ては、何が残るか。生まれたことや、死ぬことを悲観する。残るのは、ただこれだけである。
三界は火宅
あの有名な『法華経』は、またわれらに告げています。
「三界がいは安きことなし、猶なお火宅の如し
衆苦充満して、甚はなはだ畏怖おそるべし
つねに生、老、病死の憂患うれいあり
是かくの如き業の火、熾然しねんとして息やまず」
私どもの住むこの世界は、あたかもさかんに燃えている火宅である、という釈尊のこの体験こそ、尊い人間苦への警告だったのです。苦諦の真理に対する目覚めだったのです。かくてこそ、
「如来ほとけはすでに三界の火宅を離れて
寂然じゃくねんとして閑居げんごし、林野に安処せり
今この三界は、皆是れ我有ものなり
その中の衆生は、悉ことごとく是れわが子なり
しかもいま此処ここは、諸もろもろの患難うれい多し
唯ただ我一人のみ、能よく救護くごをなす」
という、われらに対する、仏陀ぶっだの限りなき慈悲の手は、さし伸べられたのではありませんか。
人生への第一歩
まことに「人生は苦なり」という、その苦の真理に目覚めることこそ、宗教への第一歩ではないでしょうか。しかし、所詮しょせん、第一歩はあくまで第一歩です。それは決して宗教の結論ではないからです。宗教の全部ではないからです。いや、それは宗教への第一歩であるばかりではありません。苦の認識こそ、ほんとうの人生に目覚める第一歩なのです。すなわち「苦」という自覚が機縁になって、ここにはじめてしっかりした地上の生活がうちたてられてゆくのです。したがって「苦の自覚」をもたない人は、人生の見方が浅薄です。皮相的です。「最も苦しんだ人のみ、人の子を教える資格がある」というのは、それです。お坊っちゃん育ちは、とかく何事を見るにつけ、するにつけ、みんな浅薄です。あさはかです。子供を育てる場合でも、このこつが必要です。「かわいい子には旅させよ」とは、たしかに味わうべきことばです。
苦の原因
次に第二の真理すなわち「集諦じゅうたい」とは、つまり人生の苦は、どこから起こるかというその「原因」をいったものです。すなわち「苦諦くたい」を、いま人生はどうあるかの問題に対する説明とすれば、「集諦」は、「なにゆえにそうであるか」の問題に対する説明ということができましょう。英語でいえばホワット(何か)とホワイ(なにゆえ)といってもよいでしょう。つまり「なにゆえに人生は苦であるか」という、その苦のよって来る原因の説明が、この「集諦」です。苦を招き集めるもの、いわゆる苦の原因が、この「集諦」です。ここでちょっと、仏教とマルキシズムの「苦」に対する考え方を、比較しておく必要があります。かつてマルクス主義者は、口を開けばすぐブルジョアがいけないと、まるで敵かたきのように罵ののしりました。不倶戴天ふぐたいてんのごとくに攻撃いたしました。社会の不安も、社会苦も、生活苦も、ことごとく資本家の罪に帰して、社会機構の欠陥を叫びました。だが、果たしてそれは正しい見方でしょうか。間違いのないほんとうの議論でしょうか。一時、主義者は宗教をアヘンのごとくいいふらしました。そして仏教をも宗教の名のもとに、極端に排撃しました。だが、元来マルクスの宗教理論は、もっぱらキリスト教を中心として考察したものです。仏教のごときは、まったく彼は知らなかったのです。いや、一歩ゆずって、かりに知っていたとしても、マルクスには仏教のふかい教理が、如実に理解されていなかったのです。にもかかわらず、かつての共産主義の人たちは、彼の幼稚な宗教理論を公式的に暗記して、キリスト教とは全くその性質を異にしている仏教をも、宗教という名のもとに排撃の対象としましたが、果たしてそれは正当な認識でしょうか。それから、いったいマルクスのいう現実の苦というのは、無産者だけの苦です。プロレタリヤだけの生活苦です。したがってそれは人間全体の苦ではありません。すなわち釈尊が四苦八苦といわれた、その苦諦くたいの苦ではないのです。
少なくとも人間苦といい、社会苦といわれる苦には、資本家だとか、無産者だとかいうような区別はありません。四苦八苦は、人間としての苦しみです。社会的存在としての人間の普遍的な、そして共通の苦しみです。ですから、マルクスのいう苦は、どこまでも経済生活の上の悩みですから、四苦八苦のホンの一部分でしかありません。強しいていえば「求めて得られざる苦しみ」(求不得苦ぐふとくく)でしかありません。
むずかしいめんどうな議論はさし控えましょう。しかし、もう一言ここでいわしていただきたいのは、苦の原因についての問題です。いったいマルクスは、人間苦、いやプロレタリヤの生活苦の原因をば、あくまで社会機構の欠陥に求めました。資本主義制度の矛盾におきました。「資本家の搾取」、それが彼らのスローガンなのでした。それが彼らの一枚看板でした。だからその苦の内容は、どこまでも物質でした。経済的でした。語ことばを換えて申しますならば、その苦は内よりくるものではなくて、外よりきたものでした。だが釈尊は、これと正反対の立場から、苦の原因を説いているのです。
「実の如く苦の本を知るとは、いわく現在の愛着の心は、未来の身と欲とをうけ、その身と欲とのために、更に種々の苦果を求むるなりと知る」(中阿含経ちゅうあごんぎょう)
すなわち苦の原因は欲です。欲こそ苦の本です。しかし欲は苦の根源だといっても、私どもは無条件にそれを認めることはできません。なんとなれば、欲はまた歓楽の根源でもあるからです。で、問題は欲そのもの、欲望自体ではなくて、「愛着のこころ」、「執着のこころ」、「囚とらわれのこころ」が、つまり苦の原因なのです。すなわち人間のもつ普遍的欲望、すなわち五欲そのものが、苦悩の原因ではなくて、ただ、食欲とか、色欲(性欲)とか、睡眠欲とか、財産欲とか、名誉欲のみが、歓楽の根本であると妄信もうしんして、これに愛着し、これに執着するこころが、苦の原因だと釈尊はいわれているのです。しかもその五欲に愛着し、執着することは、結局、「因縁」の道理を知らないがためです。すなわち、一切は空であり、無我であることを知らない、無知の無明まよいから起こるわけです。ですから所詮、一切の苦の根本は欲であり、欲望に対する執着ではありますが、そのまた根本はつまり無明にあるわけです。無明とは、「十二因縁」の根本となっている、あの無明です。さて五欲について思い起こすことは、『譬喩経ひゆぎょう』のなかにある「黒白こくびゃく二鼠(そ)」の譬喩たとえです。それは非常に面白い、いや深刻な譬喩で、ロシヤの文豪トルストイも、スッカリ感激したきわめて意味ふかい話です。それはこうです。
むかしあるところに一人の旅人がありました。広い野原を歩いていた時、突然、狂象に出逢であいました。おどろいて逃げ去ろうとしましたが、広い広い野原のこと、逃げ隠れる場所とてはありません。しかし幸いにも野原の中に、一つの古い井戸がありました。そしてその井戸には、一筋の藤蔓ふじづるが下の方へ垂たれ下がっていました。天の与えと喜んで、旅人は急ぎそれを伝って、井戸の中へ入ってゆきました。狂象はおそろしい牙きばをむいて覗のぞきこんでいます。ヤレまあよかったと、旅人がホット一呼吸いきしていると、井戸の底には怖おそろしい大蛇だいじゃが口を開いて、旅人の落ちてくるのを待っているではありませんか。駭おどろいて周囲を見まわすと、どうでしょうか、四方にはまだ四疋ひきの毒蛇がいて、今にも旅人を呑のもうとしています。命とたのむものは、たった一本の藤蔓です。しかしその藤蔓もです、よく見れば、黒と白の二疋の鼠ねずみが、こもごもその根を噛かじっているではありませんか。もはや万事休すです。全く生きた心地はありません。ところがです。たまたま藤蔓の根に作っていた蜜蜂みつばちの巣から、甘い蜜がポタリポタリと、一滴、二滴、三滴、「五滴」ばかり彼の口へ滴したたりおちてきたのです。全くこれは甘露のような味わいでした。そこで旅人は、もはや目前の怖しい危険をも、うち忘れて、ただもうその一滴の蜜を貪り求めるようになったというのです。
申すまでもなく、曠野こうやにさ迷うその旅人こそは、私どもお互いのことです。一疋の狂象は、「無常の風」です。流れる時間です。井戸とは生死の深淵しんえんです。生死しょうじの岸頭がんとうです。井戸の底の大蛇は、死の影です。四疋の毒蛇は私どもの肉体を構成する四つの元素(地、水、火、風の四大)です。藤蔓とは、私どもの生命です。生命の綱です。黒白二疋の鼠とは、夜昼です。五滴の蜂蜜とは、五欲の事です。官能的欲望です。まことにひとたび、この巧妙な人生の譬喩を聞いたならば、波斯匿ハシクノク王ならずとも、トルストイならずとも、まざまざ「人生の無常」を感ぜずにはおれないのです。無常の恐怖に戦慄せんりつせずにはおれないのです。そして、「求道の旅人」とならざるを得ないのです。
さとりの世界
次に第三の真理は「滅諦めったい」です。「滅」とは生滅の滅で、ものがなくなるということです。ただしここにいう滅とは、苦を解脱したさとりの世界、すなわち「涅槃ねはん」のことをいうのです。で、滅の真理すなわち「滅諦」とは仏教の理想である涅槃と同じ意味のことばです。ところで、なにゆえに「涅槃さとり」のことを「滅」というかというに、元来「涅槃ねはん」の梵語ぼんごは、ニイルヴァーナで、「吹き消す」という意味なのです。何を吹き消すか、何を滅するか、といえば、いうまでもなく、苦を吹き消し、「苦」を滅することであります。ところが一般にはさようには解釈されないで、かえって肉体を吹き消し、身体を滅すること、即ち「人間の死」とか、「虚無」とかいうことに考えられているのです。ちょうどあの「往生」ということばが、「死」ということ、と同じように思われているごとく、「涅槃ねはん」とか、「成仏じょうぶつ」などといえば、死と同一に考えられているのです。しかし、もともと「死」と「涅槃」とは異なっているのです。人間苦の根本となっている「無明」を滅したことが、この「涅槃」です。
「貪欲どんよく永ながく尽き、瞋恚しんに永く尽き、愚痴永く尽き、一切の諸もろもろの煩悩ぼんのう永く尽くるを、涅槃という」
と『雑阿含経ぞうあごんぎょう』には書いておりますが、とにかく、無明まよいの心を解脱して、苦を滅し尽くした境地が、滅諦めったいすなわち涅槃です。あの「いろは」歌でいえば、「あさきゆめみじ、ゑひもせず」という最後の一句は、「寂滅為楽じゃくめついらく」という「涅槃ねはんの世界」をいったものです。「あさきゆめみじ」とは、あさはかな夢をみないということです。「ゑひもせず」とは、無明の酒に酔わされぬということです。つまり「酔生夢死」をしないということで、つまり涅槃さとりの世界に安住するその気持を歌ったもので、ボンヤリ一生を送らないということです。
あの謡曲の「三井寺」や、長唄ながうたの「娘道成寺(どうじょうじ)」の一節に、
「鐘にうらみが数々ござる。初夜の鐘をつく時は、諸行無常と響くなり。後夜の鐘をつく時は、是生滅法ぜしょうめっぽうと響くなり。晨朝じんじょうは生滅滅已しょうめつめつい、入相いりあいは寂滅為楽じゃくめついらくと響くなり。聞いて驚く人もなし。われも後生の雲はれて、真如しんにょの月を眺ながめあかさん」とありますが、「初夜の鐘は諸行無常、入相の鐘は寂滅為楽」などというと、いかにも厭世えんせい的な滅入めいってゆくような気がします。しかし、それはさように考える方が間違いで、暁の鐘の音、夕を告げる鐘の音を聞くにつけても、私どもは、死に直面しつつある生のはかなさを痛感すべきではあるが、しかもそれによって、私どもは今日生かされている、生の尊さ、ありがたさを、しみじみ味わわねばいけないということを唄うたったものです。だから、「聞いておどろく人もなし」ではいけないのです。せめて鐘の音を聞いた時だけでも、自分おのれの生活を反省したいものです。「真如しんにょの月」を眺めるまでにはゆかなくとも、ありがたい、もったいないという感謝の気持、生かされている自分、恵まれているわが身の上を省みつつ、暮らしてゆきたいものです。
鐘の音、といえば、かのミレーの描いた名画に「アンゼラスの鐘」というのがあります。年若き夫婦が相向かって立っている図です。互いに汚きたないエプロンをかけて首こうべをうなだれて立っている図です。今しも鍬くわをかついて帰りかけた若い夫が鍬を肩から下おろして、その上に手をのせて、静かにジット首をうなだれています。画の正面は一つの地平線、もう夕靄ゆうもやがせまっています。畑の様子はよくわからないが、右寄りの方には、お寺の屋根の頂が見えています。それが夕日にしびをうけて金色に輝いています。黄昏たそがれをつげるアンゼラスの鐘が夕靄に溶けこんで流れてくるのです。なんともいえない感謝の心に溢あふれながら、法悦の満足を、両手に組み合わせて、向かい合って立っている年若き夫婦の姿。あのミレーの「晩鐘」を見る時、私どもはクリスチャンでなくても、そこになんともいえない敬虔けいけんな気分に打たれるのです。鐘の響きこそ、まことに言葉以上のことばです。
八つの道
次に第四の真理は「道諦どうたい」です。道諦とは、「涅槃さとり」の世界へ行く道です。「滅諦」に至る方法です。苦を滅する道、心の苦をとり除く方法です。ところで、釈尊はこの「涅槃さとり」の世界へ行く方法に、八つの道があると説いています。八正道しょうどうというのがそれです。正道とは正しい道です。偏かたよらぬ中正の道です。
「涅槃へ行くには二つの偏かたよった道を避けねばならぬ。その一つは快楽に耽溺たんできする道であり、他の一つは苦行に没頭する道である。この苦楽の二辺を離れた中道こそ、実に涅槃へ至る正しい道である」(転法輪経てんぽうりんぎょう[#「転法輪経」は底本では「輪法輪経」])
と、釈尊はいっておられますが、たしかに苦楽の二辺を離れた中道こそ、涅槃さとりへ達する唯一の道なのです。一筋の白道なのです。しかもその一本の白道を、歩んで行くには八通りの方法があるのです。八正道しょうどうとはそれです。
正しき見方 ところでこの正道のなかで、いちばん大切なものは「正見しょうけん」です。正見とは、正しき見方です。何を正しく見るか、四諦たいの真理を知ることですが、つまりは、仏教の根本原理である「因縁」の道理をハッキリ認識することです。この「因縁」の真理をほんとうに知れば、それこそもう安心です。どんな道を通って行っても大丈夫です。だが、ただ知ったというだけで、その「因縁」を行ぎょうじなければ効果ききめはありません。因縁を行ずるとは、因縁を生かしてゆくことです。「さとりへの道は自覚と努力なり、これより外に妙法なし」といいますが、因縁を知り、さらにこれを生かしてゆくには努力が必要です。発明王エジソンも、「人生は努力なり」といっていますが、たしかに人生は努力です。不断の努力が肝要です。しかもその努力こそ、精進しょうじんです。正精進しょうしょうじんというのはそれです。正精進こそ、正しき生き方です。ゆえに八正道の八つの道は、いずれも涅槃ねはんへ至る必要な道ではありますが、そのなかでもいちばん大事なのは、つまりこの「正見」と「正精進」です。
「道は多い、されど汝なんじの歩むべき道は一つだ」
と、古人も教えています。私どもはお互いにその一つの道を因縁に随順しつつ無我に生きることによって、真面目まじめに、真剣に、正しく、明るく、後悔のないように、今日の一日を歩いてゆきたいものです。