福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

福聚講・・・今日の言葉

2015-02-04 | 法話
小泉八雲「石仏」より
「・・・現代知識の全般的な傾向、なかんずく科学教育の全体的傾向は、古代インドのバラモンが言ったように、人たる祈る者は神仏という不可知なる者に近づくことはできないという最終的な確信に向かいつつある。私たち西洋人にも、「西洋の信仰」がいつかは永遠に滅びなければならないと考えている者も少なくない。それはちょうど最も優しかった母親が、子どもたちが成長した暁には、手放さなければならないときのように、私たちが精神的に成熟したときには、自分自身の才知でなんとか切り抜けていくようなものであるからである。信仰の功徳がすべて成し尽されるという、はるか遠い将来には、西洋の信仰は、一定の永遠の精神的な法則が存在するという私たちの確信を十分に発達させていると推測される。また、その時には、西洋の信仰はより深い人間的な同情心を十分に発展させていよう。さらに、西洋の信仰は、存在という恐ろしい真実については、その優しい嘘で、寓話やおとぎ話を私たちに十分に用意してくれていると思われる。また、人間同士の愛情を除いては、聖なる愛などというものは存在しないことを私たちに教えてもくれよう。「父なる神」や救世主や天主の守護神なども存在しないし、さらに、私たちにはあり得べき隠れ家も、自分たち自身の他にはあり得ないことを教えてくれるだろう。
 しかし、西洋の信仰が到達するとされる、そのような神秘的な日でさえ、私たちは、はるか昔にブッダが与えた、つぎの啓示の入口で躓つまづき、行き詰まるだろう。




 汝、自らの灯りたれ。汝、自身の隠れ家たるべし。他所よそに避難する事なかれ。仏ブッダは教師に過ぎず。灯りに寄るがごとく真理に拠るべし。隠れ家たる真理を持ちて、他に隠れ家を探すなかれ。



 この言葉には胸を衝つかれるのではないだろうか? 西洋の天国の救いや天上の愛に関する、かくも長き清らかな夢から虚しく目覚めることになるという見込みは、人間にとってありうべき最も暗い予想とはならないだろう。すでに東洋の思想が暗示している、もっと暗い予想がある。科学も、リヒターの夢――死んだ子どもたちがその父なるイエスを空しく探し求めているという夢が実現するよりも、もっと身の毛のよだつような発見を私たちに用意しているかもしれない。唯物論者の否定においてすらも、個人の終焉や永遠の忘却を自ら保証するという――ある種の慰めの信仰があった。しかし、現在の思想家にとっては、そのような信仰もない。この小さな世界で行き当たるあらゆる困難を乗り切った後にも、それをさらに超えて克服すべき艱難辛苦が私たちを待ち受けていること――しかも、この苦難は、現世のどの体系システムよりも広大であり、かつ何千億というおびただしい体系を持っている、想像すらつかないような「大宇宙コスモス」よりもはるかに重大であることを私たちはこれから学ばなければならないだろう。また、私たちの仕事は緒しょに就ついたばかりであること、さらに、言いようのない、また想像も及ばない「時間」という救い以外には、わずかな救済の可能性すらも私たちには与えられはしないだろうということを、まだ学ばずにいる。また、つぎのいくつかのことも覚さとらなければならないだろう。すなわち、私たちが免れることのできない生と死の無限の輪廻りんねは、他でもない私たち自身が創り出したものであり、希のぞんで求めたものに他ならない、そして、いくつもの現世を統合する力とは「過去」に犯した罪過であることをである。さらに、永遠の後悔とは、飽くなき欲望が永久に満たされることがないという飢餓感にすぎないこと、また、燃え尽きた太陽を再び燃え上がらせるのは、消滅したおびただしい生命の不滅の情熱によってのみであることを悟る必要がある。
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