福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんが先日の江戸三十三観音・東京十社の巡礼行の模様を記録してくださいました

2015-06-12 | 定例会のお知らせ
薫風心地よい巡拝行には、もってこいの季節になりました。新緑、目に鮮やかな6月7日(日)、福聚講(高原耕昇講元)では、第二回目の江戸三十三観音霊場・東京十社の巡拝行を行いました。午前10時、東京・文京の地下鉄千代田線・「湯島」駅に集合。この日の参加者は、7人。うち、女性1人。高原講元、Sさんらは、白手袋に、十能を持ち、巡行する路上に撒き散らされたゴミくずを拾うべく、意欲満々の態です。講員全員、白衣の笈ずるを着、輪袈裟をつけ、人ごみの中を巡礼姿で、目的地に向かいます。私どもの巡礼姿が、よその人に関心を持たせ、神仏を信心する切っ掛けになればと、ちょっぴり、不遜?な気持ちがでてきます。


その昔、湯島の矢絣紫はかま姿の麗人の面影が漂つた路地。ここも、都内の中心地の位置するので、高層のビルや、今風の建築工法で作られた瀟洒な住宅が立ち並ぶ路地を通り、7分後には、昭和新撰江戸札所 第7番 柳井堂 心城院に着きました。


心城院(文京区湯島3-32-4) 本尊 大聖歓喜天 安置 十一面観世音菩薩 宝珠弁才天 出世大黒天 宗派 天台宗


縁起 元禄7年(1694年)湯島天神別当職の天台宗喜見院第三世、宥海大僧都が、開基した。江戸時代には、菅原道真公を祭神とする湯島天神の管理や祀祭をする寺院が、神社の境内にあり、これを別当寺といいます。したがって、湯島天神には、喜見院という別当寺がありました。菅原道真公が、九州に流された時、歓喜天(聖天様)を深く祈念されたため、其の、ご縁で宥海大僧都が、湯島天神境内にあつた喜見院・柳井堂に、聖天様をお祀りしました。其の、聖天様は、比叡山から勧請したもので、慈覚大師の作といわれています。


江戸時代の喜見院は、広大な境域があったそうですが、明治維新の神仏混淆の禁令発布によって、湯島天神と本末関係を絶ち、喜見院は、廃寺になってしまいましたが、喜見院の弁天堂であった「心城院」は、運よく、廃寺の難を逃れ、寺名を「心城院」と改め今日に至つています。


心城院は、湯島天神のすぐ隣にあるので、湯島天神には、大勢の参詣者が集まりますが、このお寺を参詣する人は、少ないのではないかと思われます。堂宇も境内も狭く、小ぶりです。都会のお寺の運命で、周囲が高層ビル、住宅に囲まれ、ひっそりした、佇まいです。


しかし、このお寺は、話題豊富で、ユニークな所と、江戸の風情を感じさせる魅力のあるお寺でもあります。二三御紹介します。


その1 聖天さま

聖天さまは、大聖歓喜天・大聖歓喜大自在天・大聖歓喜双身天王ともい われています。霊験あらたかな仏法の守護神で、ヒンズー教の象頭人

身の商売の神様が、佛教に取り入れられた仏さまです。秘仏中の秘仏 で、厨子の中に奉安されて居て心城院では、「浴油供」と言う独特な最

極深秘な住職だけで行う祈祷法で,月2回、ご供養されています。勿 論、一般の人は、絶対拝観できません。

このため、聖天さまのご利益は、甚大で「二股大根」(夫婦和合、縁結 びなど)「巾着袋」(商売繁盛、金運など)との図案に象徴され堂内,境

内などいたる所にシンボルマークとしてしるされています。開基以来 熱心な信者の参詣があり、みかん船で有名な豪商・紀伊国屋文 左衛門も、帰依  
  した一人でした。ご住職のお話によると、最近では女優の安めぐみさんもテレビ収録で参拝されましたがその後すぐに結婚されたということです。   
  確かに、お堂にはいるとなにか背筋がぞ くぞくし、霊験あらたかな気がします。


その2 富くじ

享保年間、幕府が扶助してきた神社寺院への支出を削減するため、幕 府公認の「富くじ」が発行されました。江戸では、谷中感応寺(現天

王寺)、目黒瀧泉寺(現目黒不動)とならび、喜見院(現湯島天神)で それぞれ、「富くじ」が売られ、江戸の三富と人気を呼んだといいます。

いつの世も、愚民政治をする人は、同じ事を繰り返えしているのですね。


その3 「柳の井」美髪、厄除の霊水

本堂の前に、清冷な水が流れる手水があります。「柳の井」と呼ばれる、 江戸名水のひとつといわれています。江戸時代の数々の文献に、「この

井は、名水にして女の髪を洗えば如何様に結ばれた髪も、はらはらほ ぐれ、垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけずるという心にて、柳の

井と名付けたり。」とあります



また、これもご住職のお話ですが、関東大震災のとき、湯島天神の境内に避難した人 たちの命を守った水となり、当時の東京市長から感謝状を

受けたそうです。

現在は、ポンプでくみ上げられているそうですが、保険所から、飲料 許可を受けているそうです。ひと杓いただいてみると、とろりとした舌触りが  
  ありまさに甘露水です。


その4 放生池の亀

境内に可愛らしい小ぶりの池があり、放生池と呼ばれていますが 江戸時代の文献には、斉藤別当実盛、庭前の池といい、昔は、広く大

な池だったようでしたがその後、形すこしばかり残りたりとあります。 病気祈願で縁起のよい亀を放し、「亀の子寺」と親しまれてきました。

今では、亀の数も少なくないリ、住職の努力などで、5匹ぐらい入るよ うです。水中の亀と水の流れの音を聞くことが出来る竹の長筒が池

に立つ居て、筒先に、耳を当てると、からからと、美しい妙なる 音色が聞こえてきます。


私たちが本堂に上がった時、そう、本堂は、八畳ぐらいの広さでしたか。いつぱいになりました。御住職の張堂芳俊僧正に、応対いただきました。その第一声。「皆さんは偉い」「私も有り難い」と言われるので、聞き入っていますと,続けて「皆さんご一行の来堂を、事前に、予め連絡戴いており、大変助つている。最近にない、大変珍しいことです。」と感心されていました。話によると、団体の参詣者の殆どは、事前に何の連絡もなしに、突然,来堂するので、応対に困っているということでした。些事のことですが、事前のアポイントをとることは、訪問するお寺への礼儀でしょう。福聚講のSさんは、律儀な気配りの利く紳士で、この日のお寺への連絡は、Sさんの所業だったのです。ワンマン住職で、小さな本堂で、多くの参詣者を迎えるのは、大変。御朱印、案内、法話などひとりではできないことです。、参詣の祭は、事前にアポイントをとりましょう。Sさん有難うございました。なお、このお寺は、檀家一軒もなければ、墓地もないそうです。


午前10時50分。心城院隣にある湯島天神(湯島天満宮)に、敬意を表するために参拝します。この天満宮は、東京十社にはいっていません。しかし、心城院で、ご説明した通り、両者は、深いご縁があつたのでした。


正直、私は、神社・天満宮(天神)に付いて、ひいては神道の神様については、残念ながら、殆ど、知識がありません。たとえば、「天之手力雄命(アメノ

タチカラヲノミコト)」と言う神様のお名前を読むことや音読することすら、一瞥するだけで、避けていたと言うのが実情でした。ですから、神社にお参りしても、御祭神が、何方であるか関係なく、ただ、畏れ多い神様が、鎮座ましますと思い、手を合わせ、礼拝しているのです。また、神社は、お寺と違った朱色の白色のシンボルカラーと檜神木で造営された神殿の社で、簡素で、清冽、精霊、御霊の住まうところ。また、例大祭で大衆が集まる祭りを主宰する機関。山車・神輿が繰り出されて、氏神様が、人里を渡御される。など、非常に俗っぽい習俗として考えていました。昔は、「村の鎮守」と、古ぼけた小さな社。それでも、鎮守の森があり、子供の頃には、境内でよく遊んだものでした。自然と、神社は、畏れ多い、人間を助ける力のあるものと思っていたものです。


ところが、大東亜戦争が勃発するや、神社は、俄かに、昭和天皇が、現人神になり、鎮座ましますところと、学校で教えられ、通りを歩いていても、神社の前に来た時は、必ず、立ち止まって脱帽、最敬礼をしました。電車の中に居ても、神社を通りすぎるとき、頭を下げ、敬礼したものでした。この習慣・所作は、恐ろしいほど、私の心の深層に今も深く刷り込まれています。幼少時に満州にいましたが、満州では俄か造りの日本式神社が急造され、小学校の在満国民学校では、天皇陛下への従順と服従を徹底的に仕込まれました。そんな心情的な悔恨があるのでしょうか、神社には、お寺と違った感情があり、神道に関して、積極的に学ぼうと言う自覚がなかつたのかもしれません。


湯島天神[文京区湯島3-30-1]は、泉鏡花の「婦系図」のお蔦・主税、歌謡曲「湯島の白梅」のイメージで知るぐらいでした。しかし、この日は、自分に気合を入れ、湯島天神参拝を考えました。


湯島天神略記 御祭神 天之手力雄命(アメノタチカラヲノミコト) 菅原道真公

雄略天皇2年(458年)勅命により創建され、下って、正平10年(1355年)郷民が、菅公の偉徳を慕い、文道の太祖と崇め奉斎した。文明10年(1478年)太田道灌が、天満宮を再建、天正18年(1590年)徳川家康が、江戸城に入ると、

湯島天神を崇敬すること篤く、豊島郡湯島郷の五石の朱印地を寄進。文教大いに賑わったといいます。明治5年(1872年)郷社、明治18年(1885年)府社に昇格。この間、元禄16年(1703年)火災で全焼。宝永元年(1704年)将軍・綱吉は、金500両を寄進している。平成7年、総檜造りで造営されました。


5月の例大祭が終わり、境内は、ひっそりと静まり返り、参詣者もまばらでした。6月18日から始まる、「夏越の祓(なごしのはらえ)」の準備にかかっていまし

た。「夏越の祓」は、茅の輪をくぐることにより、夏の暑さから身を守り心身の清浄を祈念する日本古来の神事だそうです。



午前11時10分。神田神社(神田明神・千代田区外神田2-16-2)の大鳥居の前に立ちます。


神田神社 略記 御祭神 大己貴命(オオナムチノミコト・大黒様)、少彦名命

(スクナヒコナノミコト・恵比寿)、平将門命(タイラノマサカドノミコト・将門様) 東京都心・神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、など108町会の総氏神様。

天平2年[730年]出雲族真神田臣が、祖神、大己貴命を、現在の皇居大手門の将門塚付近に祀ったのが、創建とし、慶長8年[1603年]徳川家康が、江戸幕府を開き、江戸城を拡張する際、社地を表鬼門の位置に当たる現在の地に遷し「江戸総鎮守」として、幕府から社殿が造営されました。明治時代になると、准勅祭社・東京府社として、皇居と東京の守護神と仰がれました。明治7年(1878年)茨城県大洗磯前神社から、少彦名命を迎え、国造りに勤しみ、日本人の生活基盤を築き上げてきたといわれています。


徳川家康が,関ヶ原の合戦に挑んだ時、神田神社から「勝守」授与され、勝利を得たことから縁起のよいお守りとして、人気があり、60種類以上の神礼・お守りを授与しているといいます。歴代将軍家から、尊崇篤く守られてきました。


福聚講の神社巡拝行・元准勅祭神社・東京十社巡りの第一番神社が、神田神社(神田明神)になりました。神田明神も、5月、天下祭といわれる、日本と江戸三大祭といわれる大掛かりな祭りが終わり、落ち着いた静かな境内でした。この神社の参拝では、高原講元の御教示で、寺院での様に、講員全員が一箇所に集合して、般若心経などを、読誦することはしないで、各自めいめい、祈祷し、「般若心経秘鍵」を、黙読するという方法で、お参りしました。「般若心経秘鍵」は、全文、声を出して読み、唱えあげると相当時間がかかります。これから、神社の巡拝は、中心の拝礼の教典として、弘法大師が著した「般若心経秘鍵」を使用することになりました。ひさびさに、弘法大師が書き表された文章を読むことは、「般若心経」を理解することもさることながら、難解きわまるものでした。


「般若心経秘鍵」は、弘法大師が、特異な立場ーー真言密教の視点から、踏み込んだ解説を書いているようで、これまで私が理解してきた「般若心経」とは、

全く異なる著述がなされているようです。しかも、「秘鍵」と銘打っているように、「般若心経」の最も深い秘密の世界に誘われるようです。その世界を開く「鍵」を戴くのですが、難解です。そういえば、弘法大師は、「秘蔵宝鑰」というタイトルの著述もありました。「寶鑰」も、秘密の鍵ということで、特別の意味があるようです。この、秘密の鍵を持って、真言密教の扉を開いてみれば、私が遭遇する以上の素晴らしい世界が開けるのでしょう。そのように、期待を抱いて、「般若心経秘鍵」に取り組みます。般若経に「十法行」という修行があるそうです。書写・供養・他に与え・他の説法を聞き・熟読し・受領し・諷誦し・他に説き・ひとり考え・修習する、という10種の実践行ですが、期せずして、この「十法行」を、これから勤めるようにしてゆこうと思います。

高原講元様から、与えられた修行の勧めと思い、「お蔭げ」を感じる思いです。


湯島天神から、次なる、亀戸天神社に移動する途中、通りを挟んで真正面に、湯島聖堂の大きな廟堂があります。この廟堂は、寛政9年[1797年]江戸幕府が聖堂に、昌平坂学問所を設け、孔子の教えを学ぶ儒教教育が行われた藩校でした。大きな、孔子の銅像があり、儒者役宅や、堂々とした廟堂があります。訪れる人はすくなく、この日2~3組のカップルが廟堂の前に座っていました。

交わしている言葉から、どうやら、台湾から来た人たちのようでした。


Jr総武線・御茶ノ水駅から、電車に乗り、亀戸にゆきます。亀戸は、下町庶民風情の漂う町でした。商店街は、活気があり、下町の人情豊かな名残を感じさせる店が並んでいました。九州などの名だたる地方都市で、土日の休日、商店街は、殆どシャッターを下ろしている光景を見ているだけに、亀戸の光景は、印象的でした。


この日、第三番目の巡拝社、亀戸天神社[江東区亀戸3-6-1]です。午後12時30分。天神社殿の後ろには、東京スカイツリーが、屹立しているのがよく見えます。よく晴れた青空に池を跨ぐ半円橋の真っ赤な欄干、藤棚の濃緑、天をつくようなスカイツリー、静かに鎮座まします社殿おとぎの国のような光景が広がっていました。


亀戸天神社 略記 東宰府 亀戸天満宮

天満大神(菅原道真公)、天菩日命[菅家の祖神]を奉祀 明治6年、東京府社となり、亀戸神社。昭和11年[1936年]亀戸天神社と正称しました。正保年間、九州大宰府天満宮の神人・菅原信祏(道真公の裔孫)は、霊夢を感じ、菅公ゆかりの飛び梅で神像を刻み、社殿を建造すべく諸国を回り、寛文元年(1661年)本所亀戸村にあった天神の小祠に奉祀しました。天神様を崇敬する将軍・家綱は、現在の地に社地を寄進。寛文2年、大宰府の社に習って、社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などを造築しました。以来350年余後の今日まで、数ある東国天満宮の宗社として尊崇されてきたといいます。(天神パンフより)


天神社の入口の赤色の大鳥居から、神殿までの長い距離の参道の両側は、藤の花の棚が並び立ち壮観です。春には、藤の花が咲きにおい絶世の景観になったでしょう。


うそかえ神事というのがあり、素朴な一刀彫の「うそ鳥」が、勉学に勤しむ人たちのお守りと、人気をあつめています。「いままでのあしきもうそとなり、吉に鳥かへんとのこころにて、うそかへといふ」と文政年間から言い伝えられてきたそうです。


駄弁を弄してきましたが、何時も、巡礼報告を書くたびに、忌まわしい政策。明治維新の時に行われた廃仏棄釈・神仏分離の愚策を思い知らされます。寺院も神社も、苦渋の選択を迫られたことを想像します。それまで、神仏一体,神仏習合で、庶民の信仰を支えていたところが、「神」と「仏」が引き裂かれることは、断腸の思いだったでしょう。容易に想像できます。しかし、当時の為政者は、どうして、神仏を分離させる必要があっいたのでしょうか。人間が、神仏の領域に立ち入って、人間に、都合のいいように、取り扱う。こんな、愚かしい罰当たりな行為を人間は、出来るのでしょうか。当時、神様、仏様は、それぞれ、持っておられる霊験あらたかな霊力で、何故、愚かな人間どもに、天罰を下さなかったのでしょうか。裁くことをされなかったのでしょうか。 (今回福聚講として江戸33観音と東京十社を一緒にお参りするということは、かっての日本の精神的基盤であった神仏一体の精神風土を再建するほんの一助にでもなればという思いからです。)


それにしても愚かな人間になぜ天罰が下らないのかという、この問いかけは、何時も、神仏に祈祷し、祈願するたびに、私の心中をよぎる慙愧の思いです。丁度、キリスト教では、最後の審判があり、キリストが、人間社会の善人・悪人を選び分け、天罰を下すという思想がありますが、しかし、肝心の審判がいつ行われるのか?時代が過ぎ、歴史が変わつても、ちっとも、何にも起こらない!!一体、神は何を考えておられるのか?信者に失望を与え、いま「存在しない神」の思想が蔓延しつつあります。


同じように、佛教も、他人の出来事と傍観しておれないと思います。文明の力は、確かに人間生活に豊かさをもたらしてくれましたが、人間が生きてゆく時、依然として、苦しみ、悲しみがあり、どのようにして、生きてゆけばいいか。毎日、毎日、切実な問いかけがなされています。仏様、どうか仏様の霊力で苦悩にもだえている,この私を助けてください。奇跡はいりません。仏様が、寄り添っておられる。励ましを与えていてくださる。これらが、実感できるようにしてください。こうした悲痛な叫びに対する仏様の「お声」を聞ききたいのです。


福聚講の学びは、いつに、仏道修行で、仏様の「御声」を聞かせて戴きたいがためのお勤めでもあります。

午後1時20分、この日の巡拝行を無事終え、昼食兼懇親会を、近くの蕎麦屋で行いました。話題は、Tさんが、NHKテレビで放映された「即身仏」を見た観想。高原講元様は、今、福聚講のブログで紹介している「田中智学」について話されました。


「即身仏」の話題では、鉄門海上人が、入定の時期を感知して五穀を絶ち、自然に命を絶って座亡されたといい、粛然となりました。弘法大師も、即身仏として入定され、今も生きて、衆生済度に当たっておられます。

人間は、生死の限界まで精神を追い込んで行き、自ら命を絶つと言う誇りある決断が出来ることを、教えていただいた。と思いました。

高原講元様は、高齢化社会が進んでいるなかで、日本人の老後の問題で、病院での医療の終焉状態の時の対処の仕方、日々、確実に衰えてゆく老体を、自分は、どう対処すればよいのか。「即身仏」は、人事でなく、自分に突きつけられた厳然たる老中老後の事実に、どう立ち向かえるか、真剣に考えさせられる。と言われていました。


続けて、高原講元様は、、大正・昭和時代に、篤い法華経信者として活躍し、宮沢賢治も万感の心服を寄せた田中智学について、「日本は、世界に冠たる民族で日本が、世界一の精神的指導者でなければならない。神仏の素晴らしい宗教を持った民族は世界広しと言えど日本だけである」と喝破した気宇壮大な思想を持った人である。と説明され、この思想は、現在も活かしてゆかねばならない。と力説されていました。


こうして話は尽きませんでしたが、午後2時40分散会しました。(角田記)
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