福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今朝の修法の中で感じたこと

2014-04-27 | 法話
今朝金剛界法を修していてまた新な発見がありました。この穢土も衆生も自分も「大日如来」であると観想するところがあるのですが、いままで「一応これは理論としてはこうなのだろうなあ」というくらいの気持ちで修していたのですが今日は突然現実感を伴って観想できたのです。実際にそうなのだと思えたのです。うまく言葉で表現できませんがその思いは修法が終わった今現在も漠然と続いています。
というのは最近、理論的に考えて、般若心経の「不生不滅」や密教の「阿字本不生」は簡単な集合論さえ理解できる人ならばわかるはずだと思っていたところだったからです。つまり、我々個々人と周囲の他者全てを含む「全体空間」と、更に過去現在未来を包摂する「全体時間」の二つを更に包含する「全体集合」さえ集合論としてに思い浮かべることができればそれが不生不滅の世界なのではないかと思っていたところだったのです。
那須政隆猊下は「密教が教える変幻自在の生き方」で『人間は人間でなくなるまで苦悩は続く。人間を超越して宇宙と一体になって初めて苦悩から脱出できる』といわれています。自分は「個」なのだという間違った思い込みから自分は宇宙(全体)だったのだと本来の姿へ気がつきさえすればすべての問題は解決するのではという気がしはじめていたのです。
理趣法でこの世も衆生も「不二の大日如来」といっているということは実際はこの「全体」がすばらしい光輝にみちた世界であるということなのでしょう。衆生の心も体も大日如来なのだということなのです。
 ただ、そうはいっても現実の個々人の人生の生の苦悩はあるわけですが、この苦悩を救うためには常にその人の中にある「全体性」にかえるための修法(三密行)をおこなえば諸願成就するということなのだと思います。福聚講ブログの目的である「お蔭はある」ということの理論的根拠はここにあると思いました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 功徳日 | トップ | Q、不動経にいう「四大八大... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事