寶筐印陀羅尼和解秘略釈 蓮體
寶筐印陀羅尼和解秘略釈巻中
一には如来秘密の事
二には干将莫耶の剣の事
三には文に任せて義を取るに三世諸仏の怨なる事
四には龍猛菩薩密教弘傳八祖相承の事
五には秘密の梵語秘釈
六には全身舎利四字の釈
七には舎利には三種ある事
八には佛舎利に三種の別ある事
九には舎利を法界と名くる事
十には「きりく」の三字秘釈の事
十一には「しゃりら」の三字即三身なる事
十二には寶筐印三字の釈
十三には寶筐印は五輪塔なる事
十四には塔は體、陀羅尼は用なる事
十五には寶筐印の三字梵語の秘釈
十六には陀羅尼に三種ある事
十七には陀羅尼に四種五種ある事
十八には五智三十七尊等の事
十九には真言と陀羅尼と呪と同の事
二十には真言は如義言説の事
二十一には「だらに」の三字は即三身又三種の舎利なる事
二十二には陀羅尼の一一の文字に各三身を具する事
二十三には經の梵語有翻無翻の事
二十四には經の字秘密の釈の事
二十五には「そたらん」の二字秘釈の事
二十六には第三經中の密意を解釈する事
二十七には魔伽陀國の秘釈
二十八には無垢圓の秘釈
二十九には寶光明池の秘釈
三十には無垢妙光婆羅門等の秘釈
三十一には豊財國の秘釈
三十二には塔婆翻名の事
三十三には塔婆の秘釈
三十四には朽塔の秘釈
三十五には佛の涙を流し玉ふ事
三十六には笑に八種ある事
三十七には金剛薩埵の威儀の事
三十八には胡麻の三義の事
三十九には大衆得果の秘釈
四十には五神通の秘釈
四十一には此塔の如意宝珠に喩る事
二に如来秘密と者、二教論に曰く、等學十地も見聞することあたはず。故に秘密と云と。應化身の佛は衆生の機根に逗(かな)って説法し玉へば、顕機の為には六大本有凡即佛の理、自覚聖智三密瑜伽の事相をば秘して説き玉はず。楞伽経に大慧菩薩懇に請ぜしかども、能仁許し玉はず・涅槃経に迦葉童子至って扣問せしかども寂尊猶口を杜玉ふは是なり。大日経の疏に曰く、聲聞經の中には毘尼を以て秘蔵とす。要ず人を択び衆を簡て方に乃ち授く。若未だ律儀を発せざる者には、聴聞修習せしめず。摩訶衍の中には亦持明を以て秘蔵とす。未だ漫挐欏に入さる者には読誦受持せしめず。比丘の布薩説戒を盗み聴て反って重罪を招くに同じ。所以何となれば、世人の稚子を慈育するに金銀翫物も悋むことなく施せども干将莫耶の如き利剣をば施さず。悋むにはあらざれども稚子運用の方便を知ざれば必ず自ら其體を傷るが故なり。今此法門も亦復是の如し。即心成仏の肯趣知りがたし。恐らくは未来の衆生法を軽慢するが故に、善知識に諮訪することなく、未だ灌頂をも受けずして、自ら修学し久く功力を用れども効験なければ、反って真言教を謗じて佛説にあらずと言ん。擇地造壇護摩行法、結界召請、使令天鬼、息災増益、敬愛降伏、除病延命、降雨止雨、両事の説を見て、密號を解せざるを以ての故に是の因縁の事相なりと謂て心に慢易を生じて我は真言無相の道を行ずべし何ぞ呪術の事を用んやと云べし。是の因縁の故に邪見に入、無量劫に悪趣に堕すべし(已上取意)。又瑜伽の大本の中の二相交会五塵大佛事の文、理趣経の中の設害三界一切有情不堕悪趣の文、設住諸慾猶如蓮華の文、釈経の那羅那哩娯楽の文、或は準提の軌、大威徳の軌、如意輪の軌等の文を、密意を解せず謬て見に入る時は如来の禁戒を破り重罪を犯して多劫悪趣に輪廻すべし。又今の經の中には兦者の為に七邊誦して回向すれば亡者極楽世界に往生すと説るを見て、或は人あり、邪見を起こして言べし、我死せば必ず寶筐印陀羅尼七邊誦して回向して給よ、餘の佛事作善追福回向は必ず無用なりとて、存命の日は飲酒食肉殺盗媱妄を恣にし、不忠不幸にして悪として造らずと云ことなからん、此人は大邪見の人なり。佛の大悲済度の妙法を以て我が邪見造悪の媒をするが故に像法決疑經に曰く、文に任せて義を取ば、三世諸仏の怨なり、と。夫れ此を謂が故に應化の如来は秘して談ぜず、傳法の菩薩は置て論ぜず。独り龍猛菩薩、如来の懸記(摩訶摩耶經・楞伽経の説)に任て南天鐵塔の中に入て金剛薩埵より灌頂を受て両部の秘蔵を授りて後、龍智菩薩に授く、龍智、金剛智三蔵不空三蔵に瀉瓶し不空、大唐長安青龍寺恵果和尚に授け、恵果、弘法大師に傳へ玉ひてより、日本に盛に流布すといへりども、大唐国には秘密の機根なきが故に早く絶たり。是を如来秘密と云なり。又字義に約して秘釈せば「ぐきゃ」は「ぐ」は行不可得の「きゃ」字に譬喩、不可得の「う」点を加ふ。是如来秘密の義なり。如来の自覚聖智秘奥の境界は言語道断し(言語は覚観の行なり)、心行處滅して説もなく示もなし。譬喩を以ても示すべからざるが故に、二乗凡夫等覚十地の菩薩の為には説べからず。二教論に曰く、他受用身は内証を秘して其教を説ず。則ち等覚も希夷し十地も離絶せり。是を如来秘密と名く、と。「きゃ」は因業不可得の「か」字に乗不可得の「や」字を加ふるが故に衆生秘密なり。「か」は因縁生なり。蔵識の海は常住なれども妄風「か」鼓動して七轉の波、騰躍して起り、三細六麁次第に生じて輪廻止ことなし。應化の如来は此を見て黙して忍ぶことを得ず。三界火宅の中に入り来て先ず自覚聖智本来成仏の旨を説んと欲すといへども、衆生罪垢厚重なるが故に、機根堪ず。若し強て説ば衆生彌、苦に没在すべし。故に三七日の間、是の事を思惟して是非なく三乗五乗七方便の顕教を説き、最後に機根淳熟して一佛乗を説て、一道真如の理に帰入せしむ。「か」字は中論の因縁所生法我説即是空亦各為假名亦是中道義の三諦不思議の中道実相なり。「や」字は三乗五乗(訳者註:仏乗、菩薩乗、縁覚乗、声聞乗、人天乗)七方便(訳者註:人・天・声聞・縁覚・蔵教・通教・別教)の諸乗なり。是字を下に績ぐことは初に三乗五乗を説て梯蹬して終に會三帰一して法華の一實中道に帰入せしむる義なり。猶又秘釈せば「や」字は大日經所説の無量乗なり。「か」字は因縁生の法なり。因縁生を推窮むれば本有不生の極際に至るが故に「あか」一體にして一切衆生の心蓮本有本覚の法身なり。然るを衆生無明の酒に酔て覚らず、知ず。故に大日如来往昔大悲願の故に無量乗を説て、自在に大悲胎蔵曼荼羅を繢作して衆生を引接し玉ふ。是を如来秘密の教法と云なり。全身舎利と者、全の字、梵語未だ分明ならず。身の梵語も「しゃ」舎「り」利なり。具には「しゃ」設「り」利「ら」羅。此には身分とも骨身とも靈骨とも翻ず。舎利に三種あり。一には法身の舎利、縁起法身の偈及び尊勝陀羅尼寶筐印陀羅尼無垢浄光陀羅尼等を塔中に安置すれば如来の全身舎利を納たるに同じと説玉へるは是なり。二には全身舎利、謂く過去久遠滅度の多宝如来の全身、塔中に坐し玉ひ霊鷲山に涌出して法華經を証明し玉ふが如き是なり。三には砕身の舎利、謂く迦葉如来釈迦如来等の入涅槃の後に金棺銀槨に納め荼毘せし時、佛自ら胸より火を出し身を焼て砕身の八斛四斗の舎利と成玉ふ是なり。又法苑珠林に、砕身の舎利に三種あり、一には骨舎利、白色なり。二には髪舎利、黒色なり。三には肉舎利、赤色なり。菩薩羅漢にも皆三種の舎利あれども佛舎利は鐵椎にて撃ども砕けず。火に入れても消融せず。菩薩二乗の舎利は椎にて試れば即ち砕といへり。倶舎論に曰く、四生の中に化生勝たらば佛は生に於て自在なり。何ぞ化生し玉はず、胎生し玉ふや。謂く砕身舎利を留めて末世の一切衆生を利益せんが為なり。末世の衆生、佛舎利を一度供養すれば千遍天に生じて後には解脱を證す、と(取意)。又分別聖位經に曰く、然も如来の變化身は閻浮提の摩竭陀國の菩提道場に於いて等正覚を成じ地前の菩薩二乗凡夫の為に三乗の教法を説き、或は他意趣に依て説き、或は自意趣にして説玉ふ。種種の機器なれば種種の方便あり。説の如く修行すれば人天の果報を得。或は二乗解脱の果を得、或いは進み或は退いら、無上菩提に於いて三無数大劫に修行し勤苦して方に成仏することを得。王宮に生じ雙樹に滅す。遺身の舎利を塔を起て供養すれば人天勝妙の果報及び涅槃を感受する因なり、と。金光明經に曰く、此舎利は是れ戒定慧の薫修するところ、甚得べきこと難し、最上の福田なり、と。倶舎の光記に曰く、梵には駄都、此には身界なり、と云。則ち佛の身界なり。亦は室利羅と云。唐には體と云。佛の身體なり。𦾔譯に舎利と云は訛なりと。又菩提場荘厳陀羅尼経には仏舎利を法界と云へり。上の三種の中に今經の全身舎利は法界の舎利なり。梵語には「だらまだど」、此には法界と云。清涼の曰く、法界と者、一切衆生の身心の本体なり、と。起信論に曰く、心真如と者、即是一法界大総和の法門なり、所謂る心性は不生不滅なり、と。大日経の疏六に曰く、蓮華臺の達磨駄都は所謂法身舎利あんりと。今は此陀羅尼を以て法身舎利として全身舎利に比するなり、又字義を以て秘釈せば「しゃ」字を聞は即ち諸法の寂滅の相を知る、法華經に曰く、諸法は本よりこのかた常に自ら寂滅の相ないと。縁起法身の偈に是法従縁滅去と云は是寂滅の相なり、本性寂滅は自性清浄涅槃無住處涅槃なり。即ち「あ」字門なり。大日經の説法無等比本寂無有上は本不生の極際なり。故に「しゃ」字は法身舎利なり。「り」字は塵垢の「ら」字三昧の「い」点を加ふ。「ら」字の塵垢は應身の佛、人の法に同じて胎生を受くといへども、世塵に即して大自在を得、大涅槃本性寂の三昧に入て全身を留め玉ふが故に。全身舎利なり。「ら」字は釈尊王宮に生じ雙樹に滅す、胸より「ら」字の智火を発して(胸は火大の所在「ら」字門)身を焼て八斛四斗の舎利と成玉ふが故に、砕身の舎利なり。八斛四斗とは八万四千の塵労を断じ盡し玉ふが故に是「あら」の塵垢不可得の實義なり。猶秘釈せば大日経には釈迦如来の一代の化儀は實處の三昧に住し玉ふなり。入滅の後の砕身の舎利は南方の火大「ら」字門、如意宝珠なり。興教大師の駄都の式に曰く、威儀を摂めて平等に帰し(南方平等性智火大宝珠)一體を分て多身となる(砕身の八斛四斗の舎利)。舎利の實義秘趣斯にありと。悲華經並に智度論に曰く、佛舎利、劫末には如意宝珠となると、又末法中一字心經に曰く我滅度の後に舎利を分布し已て當に相好を隠して此呪と為るべしと。此呪と者、金輪佛頂の一字の呪、即ち舎利の真言にして此經の肝心の秘呪なり。然れば砕身の舎利も終に法身に帰す。法身の舎利あれば全身の舎利に異ならず。故に經に曰く、現在未来の一切如来は分身の光儀、過去の諸佛の全身の舎利、皆寶筐印陀羅尼の中に在す。是の諸の所有の三身も亦是の中に在すと。「しゃ」は法身、「り」は報身、「ら」は應身なり。是の三身は又一切衆生の胸中にあり。蓮花は法身、月輪は報身、「あ」字は應身なり。三即一、一即三。前ならず後ならず。縦ならず横ならず、本有常住なり。故に經に利益を説て曰く、本有の三種の佛性を顕現し畢竟して大涅槃の中に安處すべしと。是の大涅槃は無住處涅槃にして「しゃ」字門本性寂の實義なり。「しゃ」字の中に「あ」の聲あれば即ち「あ」字本不生の極際なり。寶筐印と者、寶の梵語は「あら」羅「たんのう」怚曩なり。筐の梵語は「こん」崑「ろく」勒なり。此には筐蔵とも翻ずと。然に蔵の梵語は「ろくしゃ」とも「ぎゃらば」とも云が故に今昆勒を筐蔵と翻ずといへども、筐は物を蔵る器あんるが故に、義を以て蔵の字を加ふるなるべし。印の梵語は「ぼ」、是「だら」捺羅なり。先ず漢名に付て解せば、實の一字は筐を歎美するなり。筐は軽頬の切れ、文字集略に曰く、箱の類なり。古今正字に筐とは筒なり。韻英に箱筐なり。本匧に作る。今竹を加ふ。周禮に物を盛のはこ(木編に咸)なり。止観の記に曰く、寶を盛の器なり、故に寶筐と云と。依主釈なり。亮汰師の義には七寶の匣の故に寶筐と云と。是時は持業釈なり。經に若は木、若は石、若は甎なりとも。經の威力に由て自ら七寶となると云が故なり。然ども依主釈の意、却て深秘なり。中に安ぜる陀羅尼は法身舎利如意宝珠なるが故に、寶が筐なれば歎美の辞なるべし。或は此陀羅尼を納めぬれば塔の全體又寶珠なるが故に依主釈持業の二釈、優劣あることなし。印と者三昧耶形なり。又は契印とも云。大日経に曰く、諸尊に三種の身あり。所謂字と印と形像となりと。即身義に釈し玉はく、印と者、三摩耶曼荼羅、即ち刀剣輪寶金剛蓮華等の類是なりと。今此の塔は大日如来の三摩耶形なるが故に印と云。印は印可決定の義あんり。此の塔を見ては一切如来の全身舎利中に在すことを決定して知るが故なり。又五大法性の制底の故に、六大法界體性遍一切處の身なり。故に即身義に曰く、上法身より下六道に及ぶまで皆六大を出ず、故に佛、六大を説て法界體性とし玉ふ。諸の顕教の中には四大等を以て非情とす。密教には此を説て如来の三摩耶身とす。四大等(五大)心大(識大)を離れず。心と色とは異なりといへども其性即ち同なり。色即ち心、心即色なり。智心即境(五大)即ち智、智(五智)即ち理(五大)理即ち智。無碍自在なり。能所の二生ありといへども、都て能所を絶せり。法尒道理に何の造作かあらん。能所などの名は皆是密號なり。常途浅略の義を執して種種の戯論をなすべからず。是の如の六大法界體性所成の身は無碍無障にして互相に渉入相応し常住不変にして同く実際に任せり。故に頌には六大無礙常瑜伽と云と。然れば此塔婆は即ち大日如来の三摩耶身にして又一切衆生の色身の實相我等が本有本覚の佛體なり。此法尒の道理此塔に於て顕然として決定不改なるを印と云なり。然れば寶筐即ち印にして持業釈なり。或は云べし、此塔印は六大法界體性にして大日如来一切諸仏の全身舎利一切如来の三身なれば、塔は體なり。色なり。理なり。陀羅尼は却て此理を説なれば用なり、心なり智なり。用は體に帰入するを以て陀羅尼を塔中に納むると云。用は始覚なり體は本覚なり、始覚究竟じて本覚に還同するが故に塔中に納むと云なり。然れども始本不二體同用一如色身不二理智一體六大無礙の故に寶筐印即ち陀羅尼なり。次に字義に約して秘釈せば「あら」字は塵垢不可得の義、三種悉地の儀軌に曰く、金玉珍宝火珠光明は「あら」字より成ずと。即ち寶珠の純浄無垢光明の義なるが故に。能納の寶筐印陀羅尼なり。「たのう」字は如如の「た」字に大空の「のう」の字を加へたれば所能の全身舎利なり。如来の三身は大空如如の極際なるが故に。或は云べし、「あら」の字は南方火大理智人の三点具足の三辨寶珠なれば所納の全身舎利三身の體なり。「たのう」字は「た」は六大真如法性の制底なり。「なう」字は名字不可得の義、即ち此の陀羅尼の文字なれば「たのう」は能納の寶筐印陀羅尼なり。即ち知ぬ、能所等の名か皆密號にして塔即ち三身、三身即ち我身、即ち衆生の身、即ち佛身遍法界無所不至にして一即一切、一切即一なることを。次に「こん・ろく」字は上は作業の「きゃ」字に譬喩の「た」点を加えへ邊際の「あん」字の点を加ふるが故に能納の寶筐印陀羅尼なり。謂く陀羅尼を書寫して塔中に納るは作業なり。此功徳廣大無邊際なれば喩を以も示すべからざる義なり。次に「ろく」字は塵垢の「ら」字に瀑流の「を」点を加へ大涅槃の「あく」字を加ふるが故に所納の三身全身舎利なり。「ら」字は應化身の人間の塵垢に同じて妃を納れ子を生じ四門に遊観して老病死を見、苦を厭て十九にして出家し乃至六年苦行して三十二にして成道し住世五十年、八十の老比丘の形にして沙羅雙樹の間にして涅槃に入り砕身の舎利を遺して人天を利益し玉ふなり。「ら」字は火大なり。三界の火宅に入り来るなり。又南方の三昧なり。「を」字は報身なり。報身の智慧は能く阿頼耶識の瀑流を浄めて常住堅固にして遷流することなきなり。又全身舎利なり。全身散ぜざるは瀑流することなきなり。「あく」字は不生不滅の大涅槃即ち法身の常住不滅なり。即ち縁起法身の偈の法身舎利なり。次に「だ」陀「ら」羅「に」尼と者、直に梵語なり。唐には総持と翻ず。圓覚經の疏に曰く、陀羅尼に三種あり。一には多字。二には一字。三には無字なりと。今は多字陀羅尼にして兼て二義を含めり。大師の字母釈に曰く、総持と者、総は総摂、持は任持あなり。言く意は一字の中に於て一切を無量の教文を総摂、一法の中に於て一切の法を任持。一義の中に於て一切の義を摂持し、一切聲の中に於て無量の功徳を摂蔵するが故に無尽蔵と名く。此総持に略して四極あり。一には法陀羅尼、二には義陀羅尼、三には呪陀羅尼、四には菩薩の忍陀羅尼なり。又五種あり。一には聞持、二には法持、三には義持、四には根持、五には蔵持なり。(乃至廣説)是の五種四種の陀羅尼は即ち如来の四智五智の徳を明す。顕教には但し四智を説くが故に佛地論・瑜伽論等には四種の陀羅尼を説り。大日経金剛頂経等の秘密蔵の中には具に如来の自受用の五智等の相応の趣を説が故に五種の陀羅尼を説く。是の如くの五種の智を根本とす。云何が五種の智、謂く、一には大円境智()東方阿閦佛、空大、團形、春、青色、肝臓等なり)二には平等性智(南方寶生佛、火大、三角形、「ら」字、赤色、心臓等なり)三には妙観察智(西方、阿弥陀佛、風大、半月形、「か」字、黒色、秋、肺臓等なり)四には成所作智(北方、不空成就佛、水大、園形、ば字、冬、腎臓等なり)五には法界體性智(中央、大日如来、地大、方形、「あ」字、黄色、脾臓等なり)此の五智より三十七智、一百二十八智(三十二尊に各々に四智を具足するが故に百二十八智あり)、乃至十佛刹微塵数不可説の一切智智を流出す。是の如くの無量の智、悉く一字の中に含ず。一切衆生皆悉く是の如の無量の佛智を具足せり。然れども衆生は覚ず知らず。是の故に如来、慇懃に悲み歎き玉ふ。悲いかな衆生、佛道を去ること甚近けれども然も、無明の客塵覆蔽て宅中の寶蔵を解らず。三界に輪廻し四生に沈溺すと。是の故に種種の身、種種の相、種種の方便を以て種種の法を説て諸の衆生を利し玉ふ。涅槃経に云く、世間に所有の一切の教法は皆是如来の遺教なりと。然れば則ち内外の法教悉如来より而も流出す。如来は是の如くの自在方便を具すといへども、而も此の悉曇の字母等は如来の所作の法にあらず、自然道理の所造なり。如来佛眼を以て解し能く観じ覚知して實の如く開演し玉ふにみ。乃至此梵字には三世に亘て常恒なり。十方に遍じて不改なり。これを學し、これを書すれば定て常住の佛智を得、これを誦これを観ずれば必ず不壊の法身を證す。諸教の根本諸智の父母、蓋し此の字母にあり。所得の功徳縷(くはし)く説くことあたはずと。此字母とは「あ」字等の四十七字の梵文あんり。一切の真言陀羅尼は皆此の梵字なり。さて陀羅尼と真言と明と呪と名異にして體同てり。今の人長きを陀羅尼と心得、短きを真言と思ひ、一字を種子と覚ゑたるは僻ことなり。真言と者、梵には「し」漫「だら」怛羅と云。謂く、佛は無量劫よりこのかた虚妄の言を離れて真実者實語者如語者、不誑語者、不異語者、(金剛經の文)の故に如来の所説の言を真言と云ふ。又想夢、妄、無始の四妄の言語は顕教に用ゆるところの随他意語なり。如義言説は法身毘盧遮那の來の自眷属と。自受法樂の故に各自證の三密門を説玉ふなり。此を真言と云。二字義に曰く真と者、真如の理、言とは實相の智なりと。聲字義に曰く、此真言は何ものをか詮ずる、能く諸法の実相を呼で不謬不妄なり。故に真言と名く。梵書の「あ」字等乃至「か」字等は則ち法身如来の一一の名字密號なりと。次に明と云は如来の光明の中に真言の字輪を現じ玉ふが故に明と名く。又能く無明の暗を照すが故に明と云なり。次に呪といふは佛法末漢土に来らざる時に昔より六甲秘呪等の神符呪禁の法あり。秘密真言の除災與樂、彼に相似たるが故に呪と翻ずといへども、正翻にあらず。次に「だらに」の三字を秘釈せば、「だ」字法界の義なり。法界の體性は六大法身なり。菩提場荘厳陀羅尼經及大日經の疏には佛舎利を法界といへり。即是法身全身砕身の舎利なり。能納所納一體なり。「ら」字門は火大南方、自受用報身の故に全身舎利なり。報身の佛は八万四千の塵労を自家の具徳なりと覚て一切世間最高大の身他受用身を現じ玉ふ。一説に多寶如来を直に寶生如来なりと習ふことあり。「に」字門は諍論不可得の「だ」字に三昧の「い」点を加へたれば無諍三昧なり。即是應身入涅槃の相なれば砕身の舎利あんり。智論に曰く、若し「な」字を聞時は即ち一切の法身及び衆生の不去不来不生不滅不臥不立衆生法空を知ると。後分涅槃経に曰く、釈迦如来は八斛四斗の砕身の舎利を八國の王及び諸天龍王皆諍ふて全く得んとす。姓煙婆羅門(法顕の譯の三巻の涅槃経には徒盧那婆羅門と云。佛祖統記には優婆大臣、三分にして天と人と龍とに與ふと)相和して八に分て八國の王に與へて争を止と。各舎利を得て争止は無諍三昧「に」字門なり。又「だ」は法身「ら」は報身、「に」は化身なり。此の三身は此の陀羅尼の中に在して三即一、一即三、一にあらず三にあらず。一一の文字に皆三身を具せり。暫く陀羅尼の最初の「のうまく」の二字に約して解せば文字の形は前五大の故に法身なり。名字不可得、吾我不加得の大空智は第六識大の故に報身なり。聲は智度論に曰く。我等が胸中に風あり、憂陀那と名く。外の風と和合して内に入り命門胃海を撃時に音となり、断歯脣頂舌咽胸の七處觸て種種の音聲となると。是前五大なり。戯言なれども思より出れば念を起されば聲なきが故に。音聲を六大色心不二の一氣と云。理智不二は應身なり。此陀羅尼の文字、初め「のうまく」より終り「そわか」に至までの二百七十五字悉く形音義の三密三身を具する故に。一一の文字皆全身舎利なり。次に經と者、梵語には「そ」蘇「た」怚「らん」纜、𦾔譯には修多羅とも修妬路とも云。中天竺の正音、新譯の梵語には素怚纜なり。有翻と無翻との二義あり。無翻とは梵語の一字に無量の義を含めば漢語翻ずべからず。經と云ことは漢土の聖人の説を經と名くる故に、例して經と云のみ。「そたらん」には五義あり。一には法本、二には微発、三には湧泉,四には縄墨、五には結鬘なり。又五義に各三義あり。教の本、行の本、義の本等なり。合して十五義あなり。具には法華の玄義に釈せり。經をば常と訓ず。所説の法は天魔外道等も改め壊ることあたはず。故に常と云。又は法に訓ず。法は人の法式準縄となるべき經説なるが故あんり。此の二の訓に又教行理の三を具する故に、合して六義あり。故に翻ぜざるのみ。次に有翻と者、亦五あり。一には經と翻ず、二には契、三には法本、四には綖、五には善語教なり。具には玄義の第八に釈せり。文廣ければ略して引ず。又大乗義章の第一には貫線經緯の二義を釈せり。又結網の義あり。次に秘密の義を釈せば、高祖大師の大日経開題に曰く、經と者、貫串て散さざるの義なり。佛の語密を經とし、心密を緯として、三業の絲を織り海會の錦を成す。錦の文、千殊なれども同く錦と名け、佛相万差なれども共に佛と稱ずることを得。經に被雑色衣執金剛と者、即ち此の義を表す。上大日尊より下六道の「衆生の相に至るまで各各の威儀に住し、種種の色相を顕す。並に是大日尊の差別智印なり。更に他の身にあらず。大本の經に我即法界、我即金剛身、我即天龍八部等と云。是の如く法身互相に渉入すること、猶絹布の絲縷竪横に相結んで散ぜず亂れざるが如し。是則ち經の義なりと。金剛頂經の開題に曰く、經の絲を以て能く緯を摂持して、綾羅錦繡を織成て男女の身を荘厳するが如く真実語を經とし、方便の説を緯として、法界曼荼羅の錦繡綾羅を織成て遍一切處の定慧の身を荘厳す。故に經と云と。右の二文其義凡そ同じ。秘密の文字は、聲字即實相にして形音の三は即ち三密三部三身三点なり。顕教の名義互為客の如くにはあらず。次に「そたらん」の二字を秘釈せば「そ」は諦の「さ」字に譬喩の「う」点を加ふ。大日経に曰く、諸佛の説法は常に二諦に依ると。又諦は本不生の一實諦なり。世間の浅名を以て法性の深号を顕すが故に、皆喩なれば「う」点を加ふ。或は云べし本不生の一實諦は離言の境界なり、譬喩を以ても説くべからず。故に譬喩不可得の字を加ふ。但、利生の為の故に説を經と名く。一經の終に曰く、我本無有言但為利益説と是あんり。「たらん」字は如如の「た」字に塵垢の「ら」字を
續ぎ大空点を加ふ。密佛の所説は如義真実の言を以て如の境を説て如の耳に如を聴しめ一切の煩悩塵垢皆如なりと覚て大空法界の如に契はしむ。故に釈論に曰く、如義語と者、實空にして不空なり。空實にして不實なり。二相を離れて中間にも中らず。不中の法は三相を離れたり。處所を見ず。如如如説の故と。此の如如如説を両部秘密の教法と云なり。此經如是我聞より信受奉行に至るまで如義真実の義なれば經と名くといへども顕教とは雲泥懸かに隔れるものなり。此題號を字義句義に約して廣く釈せば無盡の義あるべしといへども今愚蒙の尼女の為に略して少分を述するのみ。又經文の解釈は亮汰師の三巻の料註に詳かなれば今は彼の註に漏たる秘趣を釈するなり。題は一部の総称の故に題號の秘趣を釈すれば經中の密意例して解すべきが故に略するのみ。第三に略して經文を深秘を釈すと者、教主釈迦如来は始覚の佛智なり。古き朽たる寶筐印塔と者、一切衆生の心塔本有本覚の如来なり。故に經文に曰く、三世十方の如来の所有の三身も亦此の中に在すと。三世の中の未来の佛の三身と者、即是一切衆生の本有の三身なり。瓦礫に埋れ隠れたるは本有の佛性諸の煩悩の為に蔽れたるなり。佛塔の所に至り玉ふに、塔の中より光明を放つは本覚の佛性は始覚の佛智に依て顕るるが故なり。此意を
得て一一に解すべし。摩伽陀國と者、此には不至と翻ず。此の國の軍兵智謀勝れて武勇なれば、他國の怨敵至ることあたはず。故に不至と名く。又聡慧の人、國に遍満するが故に遍聡慧と翻ず。又五印度の中に此國最大にして諸國を統領するが故に大體と翻ず。又此國の法、刑罰死罪の者なきが故に無害とも翻ずるなり。今秘釈せば土は法身の住處なり。即密厳國土廣大金剛法界宮なり。既に無明を断じて身土不二なれば同居方便實報等の他國の見思塵沙無明怨敵至ることなきなり。自性法界宮には自性所成の眷属十佛刹微塵の持金剛衆あり。皆到於實際の人あんり。故に遍聡慧と名く。同居方便實報寂光の四土の中に於いて此の密厳國土は最大にして諸土を統摂するが故に大體と名く。此密厳國土に入る人は本不生際に住するが故に犯無犯の相不可得なれば。「あ」字第一命を損害することなし。故に無害と云なり。さて此密厳海會は我等が胸中心蓮華の中に在て遍法界無所不至なり。上に大疏に曰く、衆生の一念の心中に如来の壽量長遠の身寂光の海會あり、乃至不退の諸の菩薩も亦復知ことあたはずと。次に字義に付て釈せば「ま」摩「か」伽「まか」は大なり。「だ」は法界なり。即ち廣大金剛法界宮なり。其高して中邊なし。當に知べし、廣にして亦無際なり。此は是遍一切處の身の所在の處なり。當に知べし、是官も亦一切處に遍ずと云ことを。無垢園と者、梵語には「びまら」此には無垢と翻ず。煩悩菩提生死涅槃皆自心佛の名字なれば取るべからず。捨べからず。然れば垢として除くべきなければ無垢園なり。又は「まに」を無垢と翻ず。即ち一切衆生の本有の菩提心如意宝珠なり。園を陀羅尼に喩ふ。園の中には流泉浴池華果等あり。大悲の根本方便の花、解脱の果等を具するなり。維摩経に曰く、総持の園苑に無漏の法林樹、覚意の浄妙法解脱智慧の果あり。八解の浴池に定水湛然として満ち。布に七浄華を以て一切暗第一實無垢の人を浴すと。又法身如来は已離一切暗第一實無垢の故に無垢園に住し玉ふなり。寶光明池と者、此經は如意宝珠を説玉ふが故に、寶光明池と名く。池は首楞厳定の水なり。若衆生本覚の佛性に約せば浄菩提心の如意宝珠、光明赫奕たるなり。梵語には「あらたんのうはらば」なり。「ら」字は第一實無垢の故に、始覚の佛智の光明なり。「た」は如如解脱。「なう」は大空智、又同じく還同本覚の智光なり。「は」字は第一義諦。「ら」字は清浄無垢染。「ば」字は有不可得なり。三有に即して法界宮なりと悟る。所謂る如来有意の處、此の宮にあらずと云ことなし。独り三界の表にあるにあらず。大婆羅門無垢妙光と者、此經の発起衆なり。梵語には「びまらそはらば」。此には無垢妙光と翻ず。疑らくは是虚空無垢執金剛の分身ならん。此經の如意宝珠を発起せんとす。故に無垢妙光なり。無垢は如意珠の體に垢染なきなり。妙光は種種色光明を具するなち。字義に約せば「び」は縛不可得なり。「ま」は吾我不可得。「ら」は塵垢不可得。人法二我の塵垢を離れたるは無垢妙光なり。「そ」は諦不可得なり。三諦不思議の理は平等大慧の妙光なり。「は」は第一義諦なり。「ら」は無垢なり。「ば」は三有不可得なり。世諦即ち第一義諦。娑婆即寂光是法住法位世間相常住の理を悟れるを無垢妙光と云。更に秘釈せば若人あって菩提心を發して此陀羅尼を持誦修行せんと欲するの心は即ち無垢妙光なり。婆羅門を此には浄行と翻ず。菩提心を起すは即ち浄行なり。多聞聡慧常行十善智慧微細等は自證勝義の菩提心なり。常恒欲令一切衆生圓滿善利とは、化他行願の菩提心なり。座より起て佛を請すと者、正しく菩提心を発起するなり。佛請を受玉ふとは、誓心決定するが故に魔宮震動し十方の諸仏皆悉く證知し玉ふなり。佛大光明を放て十方世界の長眠の衆生を驚覚し玉ふことは一切衆生皆此の本有の菩提心無垢妙光を具足せり。開発せよと教玉ふなり。豊財圓に至り玉ふと者、此寶塔は全身舎利の如意宝珠なれば採用れば世出世の財宝豊饒になるが故に豊財と名く。大日経に曰く、浄菩提心の如意寶は世出世の勝有を滿ず。疑を除き究竟三昧を獲。自利利他因って是に生ずと、是なり。梵語には「だなうあり」此には豊財と翻ず。「だ」字は法界の義、「なう」字は大空なり。大空法界に何の乏しきことかあらん。又法界は舎利なり。寶珠なり。「あ」字は金剛宝蔵満足無欠なり。「り」は「ら」字に自在の「い」点を加ふ。三種悉地儀軌に曰く、金玉珍宝火珠光明は「あら」字より成ずと。金玉珍宝に自在なるは豊財園なり。於彼園中有古朽塔と者、具には「そと」窣堵「は」波と云。或は蘇偸婆とも。私と翻ず。其の地輪は四方なるが故なり。其の水輪は圓形なれば又圓塚とも云。其表刹九輪は高く顕るるが故に高顕とも翻ず。佛の靈骨を納めたる庿處なれば靈庿とも翻ず。又義を以て功徳聚集と云。此の塔を供養すれば無量の功徳を得が故なり(下巻に無上依經を引て明す)。或は「せい」制「てい」底とも云。義翻じて可供養處とも滅悪生善處とも云。是皆常途顕教の意なり。秘密の義と者、秘蔵記に曰く窣堵婆は「ばん」一字の所蔵なり。又「あびらうんけん」の五字の所成なり。任取て一一に自性清浄心とも真如とも佛性とも如来蔵とも法性とも観ずべしと。是五大法性の制底大日如来の三昧耶身なり。又則ち「あ」字門一切衆生の身心なり。大疏十七に曰く心を離て身なし、身を離て心なし。亦「あ」字に同なりと。大日經に曰く、若諸の衆生の此法教を知者あらば世人供養すべきこと猶制底の如くすべしと。疏の六に釈して曰く、制底は是生身の舎利の所依なり。是故に諸天世人の福祐を祈る者、皆悉く供養す。若行人是の如くの(秘密曼荼羅真言教法)義を信受する者は法身舎利の所依なり。一切世間の供養恭敬を受るに堪たり。復次に「せいていしった」と體同なり。此の中の秘密は心を以て佛塔とす。蓮華臺の「だらにだと」法界は所謂法身の舎利なり。若し衆生此の心の菩提心の印(深秘更問)を解する者は即ち毘盧遮那に同じ。故に世間應供養猶制底と云、是を以て察するに塔と者、我等が本有の心塔なり。摧壊し崩倒し荊棘庭に掩ひ蔓草戸を封じ瓦礫に埋り隠れて状ち土の如しとは摧壊崩倒とは即心是佛の義を知す大邪見を起すが故に崩れ倒ると云。荊棘庭に掩とは諸の貪瞋嫉妬我慢放逸の煩悩の為に菩提心を掩はれたるなり。蔓草封戸とは名聞利養に貪著し父母妻子恩愛に繋るること蔓草の長くはへて戸を封じたるに同じ。瓦礫に埋れ隠とは瓦の破をば五逆四重を犯し放等經を謀じて心器敗壊せるに喩ふ(大疏の四の意)。沙礫をば正法を信ぜず我見を堅執し因果を撥無する一闡提に况ふ。状如上堆とは疏には朽木を不欲(菩提を樂欲せざるなり)懈怠の煩悩に喩へたり。今も亦是の如し。懈怠放逸にして一念の善心も生ぜざれば全く異生羝羊の凡夫にて畜生と異ならざるなり。佛塔の所に往玉ふとは本覚内に薫じ佛光外に射するなり。塔より大光明を放ち讃じて善哉善哉と云は初めて佛教に逢て三歸五戒等を受拝し、或は三昧耶戒を授り、灌頂を受て歓喜踊躍し、始覚の佛徳を讃ずるなり。尒時に世尊彼の朽たる塔を禮して右に遶ること三匝して七条の袈裟を以て覆ひしぬれば、佛の真子となるが故に、佛の衣を以て覆ひ玉ふなり。涅槃経に曰く、発心畢竟二無別、如是二心は先心難、自未得度先度他、是故我禮初発心と。佛朽たる塔を禮し玉ふとは是なり。灌頂の内庫の儀式等是なり。泫然垂涙涕血交流とは、經に自ら釈あって曰く、諸の衆生の業果劣なるが故に隠蔽して現ぜず。塔は隠れたれども如来の全身(本覚の三身)毀壊すべきにあらず。豈如来の金剛蔵の身壊することあらんや。若し我滅度の後末世逼迫の時に、若し衆生あって非法を習行して地獄に堕すべし。三寶を信ぜず、善根を植ず。是の因縁の故に佛法當に隠るべし。然れども猶是の塔(一切衆生の本覚の心塔)は堅固にして滅せじ。一切如来の神力に護持せらる無智の衆生は惑障に覆弊せられて徒に珍宝を朽して採用することを知ず(衆生秘密)。是故我今涙を流しす。彼の諸の如来も亦皆涙を流し玉ふと。泣已微笑し玉ふと者、智度論四十に曰く、佛何を以てか微笑し玉ふや。答て曰く、笑に八種あり。一には人あり妓樂を見て笑ふ。二には人あり、内に瞋恚を懐て而も笑ふ。三には人あり、憍り慢るが故に笑ふ。四位は人あり、物を軽ずるが故に笑ふ。五には人あり、事辨じて喜が故に笑ふ。六には人あり、作べからざるを而も作を見て笑ふ。七には人あり、詐りを懐き善を揚美るが故に笑ふ。八には人あり、希有の事を見が故に笑ふと。如来は尊重にして卒尒に微笑し玉ふことなし。今衆生の本有の佛性顕れて大に利益あるべきことを知しめして微笑し玉ふ。即ち第八の希有の事を見て笑ふなり。爾時に十方の諸仏皆同く観視して皆涙を流し各光明を放て是の塔を照し玉ふも同じ意なり。金剛手菩薩等の十佛刹微塵の聖衆は自内證の眷属にして佛と胴體なれば亦皆涙を流し玉ふ。悲いかな一切衆生本有の薩埵自心の佛塔を知ず。業煩悩の為に縛せられて長夜に苦みを受ること譬へば蠶の自ら口より絲を吐き出して焼煑の苦みを受るが如しと。涅槃経に曰く、一切衆生の異の苦を受るは悉く是如来の一人の苦なりと。譬へば父母の一子を愍念するが故に子の重病苦に悩さるるを見ては共に涙を流して苦しむ如し、悲いかな我等如来の悲悩し玉ふをも顧ず昼夜に悪業を造て徒に珍宝を朽れ採り用井ざることを。自ら省て勵し修行すべし。金剛手菩薩五股杵を旋転し玉ふことは五股は大日尊の三摩耶形にして三十七智圓滿の表示なり(秘密の事なるが故に記せず)。此を旋転し玉ふは金剛薩埵の大智印の威儀なり。各甚深の表示ありといへども未灌頂の人には示すべからざれば今は略す。金剛手は久已通達の人なれども度生の為の故に未悟の相を現じて如来に問奉るなり。佛、金剛手に告玉はく、此れ大全身舎利の積聚せる如来の寶塔なり等と者、一切衆生の本覚本有の心塔は已成の如来と毛頭も差別なければ本来三身の徳を具足し三十七尊心城に住し普門塵数の諸の三昧を因果を遠離して、法然として具せり。故に一切如来の無量倶胝の心陀羅尼密印法要も見な其の中にあり。此法要中にあるが故に塔變じて胡麻子の如くなる倶胝百千の如来の身となる。亦胡麻子の如くなる。百千倶胝の如来の全身舎利の聚なり。八萬四千の法蘊も亦其中に在。九十百千萬倶胝の如来の頂相も亦其中に在と者、皆心塔本有の功徳を明す。胡麻に喩るに三義あり。一には微細の義、各各に五億倶胝の微細法身の金剛を具足するが故に。二には数多の義、各五智無際智を具足するが故に。三には遍満の義。衆生平等の心地の無盡荘厳蔵大漫孥攞遍法界無所不至の故なり。九十九百と者、三世に各三千三百なり。是は「あ」蓮月の三密三部三身に各千萬倶胝の徳相を具することを明す。如来の頂相と者、此の法の極秘は金輪佛頂王なり、故に頂相と云。事相の大事なれば記することあたはず。爾時に大衆、如来の此塔の功徳を説玉ふを聞て各大利益を得て初地二地乃至十地等覚の位を得たることは衆生の本有の心塔を説示し玉へば大利を得ること尤なり。若常途の意ならば陀羅尼を説玉ふを聴て後に利益を得べし。然れども塔は體にして陀羅尼は用なれば、塔の功徳を聞て皆證果せるなり。例せば法華の本門に久遠實成の旨を説玉ふを聞て微塵の菩薩の増道損生の利益を得たるが如し。心塔と者、亦壽量の義なり。無垢妙光婆羅門の五神通を得たるは顕教に談ずるところの五神通にはあらず。本有本覚の如来の五大五智に通達するなり。大日経に浄菩提心観を説竟て當發五神通獲無量語音陀羅尼と云ふは是と同じ。即ち本初の心地金剛薩埵の位なり。五秘密經等の意も亦同なり。常途浅略の釈を作べからず。次に経文の種種の功徳を説玉ふことは、文の如く解すべし。委釈することあたはず。中に就て一切如来佛頂佛眼の窣都婆と者、此塔は一切如来の全身舎利なり。金輪佛頂佛眼は並に理智不二の佛にて秘密最極の尊なり。此法の本尊に往き亘ることあり。内證一體なれば佛頂佛眼と云。宗の大事なれば記すべからず。其塔の四方は如来の形相と者、四佛なり。世流布の塔に四方に四佛の種子を書るは是意なり。四佛を総すれば大日如来の故に五佛五智なり。陀羅尼の文字二百七十五字は五智に各五智を具するが故に五五二十五となる。其二十五尊に各五智五大を具するが故に本末合して二百七十五字なり。乃至九十九百千萬倶胝の佛智皆此中にあり。佛、金剛手に告玉はく、諦聴諦聞是の如くの法要は神力無窮にして利益無邊なり。喩ば幢上の如意宝珠の常に珍宝を雨らして一切の願滿ずるが如しと者、如意宝珠は喩にあらず、此宝塔は直に是如意宝珠なり。故に如来の頂相佛頂佛眼の窣墸波と云なり。智度論に曰く過去の佛の舎利變じて寶珠となるといへり。(更問)其餘の利益文の如く解し易し。此塔即ち寶珠なるが故に、一切の願として滿ぜずと云ことなきなり。文に曰く、慳貪業の故に極貧に生れて衣服なく食べ物なき者も此塔を供養して懺悔すれば忽に富貴になりて、七寶雨の如くに雨来り、乏きことなしと云るは是なり。又本有の心塔に約せば、浄菩提心の如意宝珠なり。大疏に三劫宝珠の釈披いて見るべし。秘密の奥旨阿闍梨にあらざれば傳ふべからず。(寶筐印陀羅尼和解秘略釈・中終)