福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Mさんから岡崎天満宮の奇跡の記事を紹介いただきました。

2015-02-27 | 法話


「先々代宮司・伊奈佐太男の遺稿です。



 「太平洋戦争で召集を受けた私は、済州島に十ケ月ほど居て終戦を迎へた。二十年十月、送還されたが、敗戦の姿で我が家にかへつて見ると、神社も社務 所も焼けて、家内も子共も姿を見せない。茫然としてゐる所へ、氏子の一人が、家族の消息を教へてくれたので、やうやく寺に収容されてゐた妻子に会ふことが 出来た。

 早速掘建小屋を御境内の一部に建てて移り住んで、無け無しの貯金を費ひ乍ら筍生活をつづけたが、物価の騰貴に、忽ち生活は底を突いた。そこへ、例の神道指令である。もう、お宮の事をかまふ者はなく、神主の生活を心配してくれる者もない。俸給の出所も失ひ、進退きはまつた。(放心状態で神殿にお参りしているうちに、管家後集の句に天神さまが、「松は我が姿なり、我の至り留まる所必ず松を植ゑむ」と仰せられたと云ふ記事があるのを思い出し、 「どうか焼跡に松を生やして下さい。さうしたら、一人の協力者が無くとも私一人でお宮の復興を致します」と申上げた。)

 こんな事を云つたとて、一夜に松が生えるだらうなどとは、正直のところ考へられない。でも、奇蹟でもあらはれて欲しいと願はないではゐられないほど追ひつめられてゐたので、そんな、夢みたいなお願ひを申上げた。

 翌朝は、いつものやうに、朝早く起きて、焼跡の御本殿にお詣りに行つた。フト気がつくと、いつも赤黒い焼け土が、何だか様子がちがつて妙に青い。 オヤ、どうしたのかなと、顔を近付けて見ると、驚いた。焼跡に、長さ一センチばかりの、松の若芽が密生してゐるのである。境内くまなく見て歩くと、何百万本あるのか、一面に松である。私は、ゾーツとするほどの奇妙な感激に打たれた。まるで、雷に打たれたやうなはげしい感動である。

 人は、偶然と云ふかも知れない。然し、二月の末の、まだ、粉雪が降らうと云ふ空である。春の日がポカポカと照らして、若芽が吹き出すといふ季節ではない。私は、天神さまの奇蹟を確信した。

 もう、氏子の復興を待つだの、寄附金が出せるまで、このままなどと云ふ気持ではゐられない。仮本殿を建てる為めに、真つ黒に焦げた境内の立木を伐 る事にし、自分で伐つてそれを製材所に運び、板と柱にひいてもらつた。製材所に払ふ費用は、焼跡から拾ひ集めた銅板の屑を売つて、どうやら間にあつた。出来た板と柱で、仮本殿を組立てなけばならないが、大工の手間賃も何とか支払つて、やつと、間口六尺、奥行九尺の仮本殿だけは建つた。ところが、これでもう 費用が一ぱいで、鎮座祭を斎行する費用が無い。やむなく妻の衣類が二三点あつたのを売つて、五百円程の金を工面し、神酒と神饌をととのへた。この衣類は、 戦災の時に、家内が、生命からがら外へ抛り出してやつと助けた、生命から二番目の女の宝ものだつたが、因果を含めた。神道指令が出たばかりの時である。どうせ誰も来てくれる筈がないとあきらめてゐたが、鎮座祭には、町惣代が二十何人か参列してくれたし、思ひがけなく、五百数十名の参拝者もあつた。
・・そのうち三十七年九月には、大きな斎館が出来、神社は見ちがへるやうな立派な復興ぷりを見せた.・・愛知県岡崎市 岡崎天満宮々司

「御復興と奇跡」より






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日は天神様おおです。 | トップ | 非暴力・・ガンジー »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事