福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

災害の繰り返し起こる理由

2020-03-02 | 法話
古来、人々は多くの災害疫病に遭いその都度筆舌に尽しがたい深刻な被害を出してきました。
こういう不条理をどう考えるか、いつも心が張り裂けそうになります。

1、こういうとき、経典をみると繰り返し衆生の心が国土を清らかにする(安泰にする)と書いてあります。維摩経には有名な『衆生浄きが故に国土清し』という句があります。不空三蔵訳「仏説大孔雀明王画像壇場儀軌」には「世間に災害・戦争・飢饉・旱・病気・悩み事・闘争があるのは、八万四千の魑魅魍魎が、人々を悩まし、人々の望みを妨害することによっている。そしてこれは人々の生まれかわり死に変わりして積み重ねてきた貪瞋痴によるまちがった考え方によりひきおこされている。(諸の世間に災禍逼悩刀兵飢饉亢旱疾疫四百四病憂悩闘争あり。及び八万四千の鬼魅ありて、有情を嬈悩し、求むるところの世間出世間の勝願に多く障害あるは、皆無始以来の貪愛無明虚妄分別の三毒ありて、実相を了せず、不善を積集するによる)」とあります。災害も我々の積み重なる業によるものだといっているのです。
 
2、栄西禅師の興禅護国論にも「仁王経に曰『佛、般若をもって現在、未来世の諸の小国王等に付属してもって護国の秘法とす』と。其の般若とは禅宗なり。謂く、『境内にもし持戒の人あればすなわち諸天その国を守護す』と云々。・・・楞厳経に曰『佛のいわく、阿難よこの四種の律儀を持して、皎たること氷霜の如く、一心に我が般若壇怛羅呪(大白傘蓋神呪)を誦せよ。・・・この娑婆界に八万四千の災変の悪星、二十八の大悪星あり。世に出現せんとき、能く災変を生せんも、この呪ある地は悉くみな消滅せん。十二由旬に結界の地となりて、諸悪災障永く入ることあたわず。』」と書いて、衆生の行動が清らかで心も清らかであれば国土は安泰であると経典を種々引用しています。
 これらの経典の句を逆から読めば現在の多発する災害は衆生の心身が乱れているためという事になります。確かに先進国の資源浪費、温暖化ガスの排出、環境汚染、武力紛争などは、卑俗な欲望や憎悪で膨れ上がった心がひきおこしていることは否定できません。

3、弘法大師は「秘蔵宝鑰」中巻に「災禍が興るのは三種の理由がある。一には時運、二には天罰、三には業感である。・時運とはいわゆる「陽九百六」という。一元(4560年)の間に陽厄(旱魃)が五度、陰厄(洪水)が四度おこる、この陽陰九度の厄を陽九という。黄帝のときから百六年目にはじめて陽九がおこったから百六という。)尭や禹の時代には九年間の水害がおこり、湯王には七年間の旱魃があった、これが陽九百六である。このゆえに伏義氏が東方(震)より出て易を創案して災害を予測した。宇宙は成・住・壊・空劫を繰り返しており、このなかで減劫といって人間の寿命が10歳になるときがある。この減劫の世になると五濁がおこる。五濁とは、劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁である。災害もこのなかでおこるのである。
・天罰とは人々が摂理にそむくことによって天がすなわちこれを罰して災害を起こするもの。たとえば、漢書にあるように、孝婦が無実の罪で死刑にされたとき天帝の怒りで3年間旱魃が続いたような例。淮南子にある。燕の忠臣が讒言により獄につながれたので盛夏に霜が降った例、こういうものである。
・業感とは悪業の衆生が同じく悪時に生じて業感のゆえに災を招くもの。
かくのごときの論はつぶさには後漢の班固(AC32~AC92)の撰述にかかる「漢書」の中の「五行志」は、「天人相関」ないしは「天人感応」と呼ばれる思想を展開し、人間の行為に対して天が敏感に反応するといった。また「守護国経」「王法正論経」等も同様・・・」と書かれています。

(原文書き下し
それ災禍の興りに略して三種あり。一には時運、二には天罰、三には業感なり。
・時運とはいわゆる陽九百六なり。(一元(4560年)の間に陽厄(旱魃)が五度、陰厄(洪水)が四度おこる。この陽陰九度の厄を陽九という。黄帝のときから百六年目にはじめて陽九がおこったから百六という。)尭の水、湯の旱、これにあたれり。このゆえに聖帝震に出て機をみて逆備せり(伏義氏が東方(震)より出て易を創案に、災害を予測した)。減劫の五濁もこれにあたれり(住劫において、人間の寿命が、8万歳から、年々減じて、10歳になるまでの過程を減劫といい、減劫の世になると五濁がおこる。五濁とは、劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁)。
・天罰とは教令理にそむくによって天すなわちこれを罰す。孝婦雨ふらさざりしの誅(漢書にある。孝婦が無実の罪で死刑にされたとき天帝の怒りで3年間旱魃が続いたこと)、忠臣霜を降らすの囚(淮南子にある。燕の忠臣が讒言により獄につながれたので盛夏に霜が降ったこと)、かくの如きの類これなり。
・業感とは悪業の衆生同じく悪時に生じて業感のゆえにかくのごときの災を招く。
かくのごときの論はつぶさには歴代の「五行志」等、および「守護国経」「王法正論経」等のごとし。・・」)

大師は古今東西の文書にも「災害は人々の業によりおこるものだ」と述べられていることをおしゃっているのです。

4、極めつけは法華経・如来壽量品です。ここでは衆生が業苦に責めさいなまれていると見えても仏の国土は安穏である・・。とされています。我々が実際に不条理と見ているこの世界は実は仏の眼では安穏な国土なのだ・・ということです。 「衆生劫尽きて。大火に焼かるると見る時も。我が此の土は安穏にして。天人常に充満せり。園林諸の堂閣。種種の宝をもって荘厳し。宝樹花果多くして。衆生の遊楽する所なり。諸天天鼓を撃って。常に諸の伎楽を作し。曼陀羅華を雨らして。仏及び大衆に散ず。 我が浄土は毀れざるに。而も衆は焼け尽きて。憂怖諸の苦悩。是の如き悉く充満せりと見る。」

また華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品にも有名な「心は工みなる画師の、種々の五陰を画くが如く、一切の世界の中に、法として造らざる無し。」とあります。ここでもす「べては心が作り出している」と言っています。確かに般若心経の「色即是空、空即是色」からいえば、そうかもしれませんが、一方「露の世は露の世ながらさりながら」です。我々十善戒も守れない愚かな衆生は、自ら作り出した地獄にあえぎ続けていることも確かです。

5、結論は「露の世」に生きる我々は初心に戻って「心を浄める」ことがまず必要ということでしょうか。

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