福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は菩提僊那(ぼだいせんな)入滅の日です。

2024-02-25 | 法話

 

 

菩提僊那は婆羅門僧、唐に滞在中に入唐僧理鏡や第十次遣唐副使中臣名代らの招請を受けて開元24年 / 天平8年(736年)に来日。天平勝宝4年(752年)に東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として導師を務めた。弟子の修栄が撰した『南天竺婆羅門僧正碑』および『東大寺要録』中の「大安寺菩提伝来記」に伝記が残されている。

菩提僊那は華厳経の諷誦に優れ、密呪にも通じていた。その密呪は、菩提僊那から日本僧の弟子へ伝授された。天平宝字四年二月二十五日(760年)、大安寺において西方を向いて合掌したまま死去した。翌3月2日(3月23日)、登美山右僕射林に葬られた。

 

「本朝高僧傳」「南天竺沙門菩提仙那傳」「釈菩提仙那は南天竺人、姓は婆羅遅、婆羅門種也。気宇明敏、神情湛然、真経を研究し旁ら世學に通ず。十六國其の徳を景行し九十六種其の風を鑚仰す。世高、支懴の塵を逐ふ。遊化、山を罥し、海を越り遂に大唐に到る。緇素奔赴、旹ときに日本使丹治比廣成、留学僧理鏡、芳誉を挹み、尚東帰を要請す。那(菩提僊那)は懇請に感じ開元二十三年冬十月、林邑僧佛徹・唐僧道璿を伴ひ船を盪ひ海に浮ぶ。洋中に曁および、俄に暴風に逢ふ。波濤日に注ぎ、陰曀いんえい天に逮ぶ。衆闔惶遂、為す所を知らず。那乃ち端を仰ぎ一心に入禅す。須臾にして風定り波息む。天平五年夏五月本朝筑紫大宰府に達す。秋八月摂州難波津に抵す。僧正行基、百僧を率て躳往慰労す。和言梵語往覆、欸密宛、旧知の如し。基、徒侶に謂て曰く、法本不生、今亦不滅、化に赴くの質と雖も双林の旧跡、而して法身の体、沙界に布影す。経に云ふ、まさに婆羅門身を以て得度すべき者にも、而して為に法を説く也と。開闢以還、時に百王経に、世萬歳を更ると雖も蒽石、梵英、印度聖種山を梯け海を架し、本邦を弘化する有罕なり。今聖徳作而異人至昌運、

大化隆興如し。ただ諸仏悲願の感に非ず、抑々亦聖朝崇法に応ずる也。吾僚既に斯運に逢ふ。復た此の人を見る、蓋し各々至欵を盡し共に迎接を致んのみ。聖武皇帝、禮節、鴻臚、雅楽三僚を詔して奏音を調で、出郊迎ふ。是に於いて僧俗輻輳、城に闐みち、郭に溢る。肩随踵接、送って京輦に入る。敕して大安寺東坊に住す。供賚(らい・供え)日に盛んなり。公卿彦英(げんえい・すぐれた人)皆往て拝謁す。那は人の為に,敬に居し、簡を行ず。喜慍不形、高秩厚不、其の慮りを顧みず、厳威嶮法未だ其の心懼れずに足らず。雑華を諷誦し、以て心要とす。尤も梵呪善し。天平勝寶元年東大寺毘盧遮那大像成る。那を詔し開眼供養導師と為す。三年四月、勅して僧正と為す。時の人婆羅門僧正と称す。天平寶字四年二月二十五日夜半、合爪し西に向ひ辞す。色紊ぜず。禅楽に入るが如し。奄爾として遷化す。享年五十七.坐夏若干歳。月を越し三日、登美山右僕林に舎維す。那、滅度に臨み、諸弟子に謂て曰く、吾常に清性を観じ、直に自性身に厳ず。而して猶、彌陀を尊重し観音を景仰す。汝曹,吾が帑蔵衣物を抽し、阿弥陀浄刹を奉造せよ。又云々。吾生存の日、普く四思の為に如意輪像を造る、更に八大菩薩像を造んと欲れども無常行迫、其の願ひ皆はず。よろしく共に相助け功を畢矣。弟子等遺旨を奉遵して、八像を修餝し、又肖像を刻み、竝て大士傍らに置く焉。賛して曰く、余、南都に遊び諸寺衆を訪ふ。戒壇院を敲し、雑策を検閲す。其の中に南天婆羅門僧正碑銘一章、事実文奇、随喜して之を写す。豈図らんや十余歳の後、斯かる遺籍を獲んとは。而して釈書所載と事跡大異、然れば碑文は傳法弟子修栄、平素随仕し其の所を記す。親しく見る所一毫の差もあるべからず。故に今、碑文に拠る而正焉。」

 

 

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